第七章 玉座を継ぐ者 --- 5

 宴が始まったばかりの頃は、見慣れぬ貴人たちによそよそしかった村人も、時が経つに連れ、村の様子を色々と語ってくれるようになった。出された料理は、村の畑で取れた野菜や山で採ってきた山菜に木の実、そして昼間の狩りで男たちが仕留めた鹿や猪など、素朴だが贅沢なものが並び、一行は有り難くもてなしを受けた。しかし、酒を飲み、大声で笑っても、その心が決して晴れることはなかった。

「おまえ……よくそんな食えるな、こんな時に」

 セディスは、隣で料理の乗った皿を取っ替え引っ替えしているシダを、呆れたように見遣った。シダは野菜を巻いた肉にかぶりつきながら、不機嫌そうに呟いた。

「ヤケ食いっていうんだよ。だが――」

 ふいに村人に向かって持っていた肉をかざす。

「この肉は? 鹿肉、だろう?」

 すると、村長であった老人の息子が、幾分自慢げに答えた。

「美味いでしょう。この辺りに住む、マスオートという鹿の肉ですよ」

「マスオート?」

 聞き慣れぬ名前に首を傾げると、今度は老人が葡萄酒を口に含みながら言った。

「普通の鹿よりも小柄なんじゃが、肉が柔らかくてな。しかも味があっさりしておるんじゃ」

「しかも、それは子鹿の肉です」

「子鹿?」

「普通、子連れの鹿は狩らないんですが――」

 山野で慎ましく生きる人々は、食糧を得ることの厳しさを知っている。だから、たとえ目の前に弱い獲物が現れても、後日のことを考え、必要以上の殺生は決してしない。

「子連れのマスオートは、母子どちらが死んでも、生き延びた方は食事をしなくなって死んでしまうんじゃ。だから間違って狩ってしまったら、連れの方も必ず仕留めることになっておる」

 つまり、この夜の鹿肉は母子なのであった。ふいに押し黙った一行を、老人たちは怪訝そうに見遣った。

 本当なら、一行の訪問の目的であったレイミアに、その経緯を訊いたりもしたかったのだが、彼女は一向に姿を現さず、呼びに遣ろうとしても、一行の青年にやんわりと制され、彼らとしては困惑を禁じ得なかった。

「あ、いえ、何でもありません」

 村人に気を遣わせていることを察し、クレスティナは慌てて首を振った。再び話を始める彼女の横で、室内を眺めていたセフィアーナは、イスフェルの姿がいつの間にかなくなっていることに気付いた。ユーセットを見ると、彼もそれを気にしているようで、時折、扉に視線を向けている。セフィアーナは、リエーラ・フォノイに断ると、席を立った。

 村長の家を出たセフィアーナは、すぐにイスフェルを見付けることができた。彼は、昼間、少女が落ちた井戸の縁に腰掛け、酔い覚ましの水を飲んでいた。

「イスフェル」

 セフィアーナが声をかけると、青年はゆっくりと彼女の方に顔を向けた。その藍玉の瞳には多少、疲労の色が滲んでいる。

「……セフィ」

 セフィアーナは、自分も井戸の縁に腰を下ろした。しばらくの沈黙の後、思い切って口を開く。

「双子、だったわね」

「ああ……」

 再び水を呷るイスフェルの横顔を、セフィアーナは心配そうに見遣った。

「どうするの……?」

 すると、青年は驚いたような表情を浮かべた。

「『どうする』? 別に、どうもしないさ。今まで通り、レイミア様とちゃんと話をして、三人を王都にお迎えする」

「そう……そうよね。良かった――」

「セフィ?」

 放心したように呟く少女を、イスフェルが怪訝そうに見返すと、彼女は安堵したように笑った。

「あの三人が、ばらばらになってしまうのかと思って……」

「ああ……」

 イスフェルは納得すると、杯子を脇に置き、真っ直ぐと少女を見た。

「セフィ、オレは家族の大切さを知ってる。だから、決してそんなことにはしないよ」

 それでなくともレイミアは一度、親と生き別れの憂き目に遭っている。二度と同じ苦しみを彼女に与えてはならなかった。

 セフィアーナは、こくんと頷くと、膝の上に組んでいた手を見つめた。

(私、なんて馬鹿なことを考えていたんだろう。イスフェルがそんなことをするはず、ないじゃない……)

 再び安堵の吐息をつくと、セフィアーナは、今度は別の心配に思いを馳せた。

「それにしても、レイミア様、変なことをお考えになってないといいけど……」

「……変なこと?」

 ふいに漏れ出た少女の言葉に、イスフェルは眉根を寄せた。

「ええ……。私はあなたがどんな人間で、どんな想いでここに来たかを知っているわ。でも、あなたはまだレイミア様と話ができていなくて、レイミア様はそのことをまったく御存知ない。だから、レイミア様はあなたを誤解していると思うの。そして、なんとしてもお子様たちを守ろうとなさるはずだわ」

「――つまり?」

 訊き返しながら、イスフェルは全身から血の気が引いていくのを感じた。

「母親なら、どこかに連れて行かれたり、ばらばらにされるかもしれないと考えた以上、いつまでもあの家に――」

 途端、青年が弾かれたように走り出した。その風で、杯子が地面に落ちる。

「イスフェル!!」

 しかし、彼の背中は、あっという間に森の中へ消えていった。セフィアーナが肩を落とした時、ふいに背後から声がかかった。イスフェルの様子を見に来たユーセットだった。

「セフィアーナ殿、イスフェルは?」

「ユーセット様――」

 セフィアーナがユーセットに事情を説明している頃、イスフェルは全速力で森の中を突っ切っていた。

(迂闊だった……! セフィの言うとおりだ。今まで必死で家族を守ってきた彼女が、むざむざとオレたちを待っているはずがない!)

 かくして、セフィアーナの予感は的中した。五段の階段を二歩で駆け上がり、取っ手を力任せに引くと、既にそこは蛻の殻であった。食卓の上に、野苺の入った籠が虚しく置いてある。

「くそ……!」

 イスフェルは拳で壁を叩いたが、理解してもらおうというのがこちらの身勝手であることはよくわかっている。

『父上と一緒に、陛下をお助けします!』

『オレたちで、このサイファエールをもっと豊かにするんだ!』

『私は誓います。人々の幸福を守り抜くことを……!』

 幼い頃から育んできた夢は、その想いが強い分、時には挫けかけた心に力を与えてくれる。

(諦めるものか……!!)

 イスフェルは藍玉の瞳を見開くと、歯を噛みしめた。レイミア母子がいなければ、彼の夢の実現は非常に困難なものとなる。それゆえに、彼らを巻き込む以上は、シダの言ったとおり、自分の傍で最初に幸せを感じさせてやりたかった。

 何か手がかりはないかと部屋に入り、暗い室内に目を凝らす。すると、布団が中途半端にめくれ上がっており、慌ただしく家を出たことが窺えた。

「まだ温かい……」

 布団に未だ温もりがあるのを確認すると、イスフェルは再び外に出た。すると、草の間に、小さな足跡が月光に浮かび上がって見えた。

「こっちか……」

 イスフェルは、村とは反対側の、ほとんど獣道になっている草むらへ飛び込んでいった。



「母さん、どこまで下るの?」

 目の前にぶら下がっている蔦を手で避けると、コートミールは背後を振り返った。短い間にその頬は汚れ、手足は擦り傷だらけとなっていた。

「もう少し下ったら、沢へ出るわ。沢に出たら、今度は水の流れる方に向かって下るのよ」

 レイミアの言葉に頷くと、コートミールは再び前進を始めた。生い茂る木の葉の間から差す月明かりを頼りに、足場を確かめながら急な斜面を降りていく。

 ふいに獣の遠吠えが聞こえ、ファンマリオはびくっと身を固まらせて樹の幹に寄った。

「マリオ、大丈夫よ」

 母の励ましに、しかし、少年は首を強く振った。

「母さん、前にヴァール爺さんが夜には森に入っちゃいけないって言ってたよ。夜の森は、人間がいちゃいけない場所なんだって」

 そんなことは無論、レイミアも承知している。しかし、危険を冒してでもあの訪問者たちから遠ざからなければ、自分たちは望まぬ道を歩むことになる。

「じゃあ、早く通り抜けましょう」

「母さん、でも――」

「マリオ! おまえ、男だろ!」

 業を煮やしたコートミールが叫んだ時、にわかに上方の草むらが音を立てて揺れた。兄が身構え、弟が身を竦ませ、母が息を呑む。

 現れたのは、麦藁色の髪を月明かりに鈍く光らせたイスフェルだった。額にうっすらと汗を滲ませ、少し息を上がらせている。

「――見付けた……」

 安堵したように呟く青年に、レイミアは、彼と獣とどちらに出会った方が幸運だったのか、一瞬、判断しかねた。

「レイミア様、どうかお戻りを!」

 夜の森の危険性は、イスフェルも身をもって知っているところである。説得以前に、まず彼女たちの安全を確保することが最優先であった。しかし、

「おまえ……!!」

 天色の瞳に憎しみの炎を燃え立たせ、コートミールがイスフェルに向かった。

「おまえ、何なんだよ! いったい母さんをどうする気だ!!」

「ミール様、私は――」

 レイミアは、イスフェルが夜目で双子を見分けたことに驚いた。確かにコートミールのほうが気性が激しいが、村人でさえそれを判別することは未だに難しい。

「黙れ! オレたちは絶対に母さんを渡さないぞ! 母さんを泣かすヤツは、オレたちが絶対に許さない!」

 コートミールが必死の形相で叫ぶ。ファンマリオも、コートミールと二人で母を守るという約束を思い出し、小さな身体でレイミアを背後にかばった。母に逃げようと言われた時は、イスフェルの笑顔を思って複雑な心境であったが、その彼がこんな場所まで追ってきたということを、少し怖くも思ったのだ。

 双子の少年たちが同じように口を引き結び、天色の瞳を険しくした時――。

「え……?」

 月から降ってきたかのような銀の雫が、眼前の青年の頬を伝って落ち、地面で弾けた。ひとつ、またひとつ――。コートミールは、混乱したようにその表情を歪ませた。

「な、に……何でおまえが泣いてるんだよ……」

 母子三人が呆然と立ち竦む中、涙を流している当の本人もまた、呆然としていた。

「い、え……」

 イスフェルは左手でゆっくり双眸を押さえると、溢れる想いを吐き出した。

「来て、よかった……」

 瞬間、レイミアの足から力が抜けていった。よろめき、背後の樹の幹に背中をぶつける。彼女は今、はっきりと自覚した。

(コノ青年ニハ、私ノ想イハキット敵ワナイ……)

 ひどい拒絶を受けてもなお、彼は子どもたちの心を大切に見てくれた。自分たちを引きずって連れていくこともできるだろうに、こちらが心を開くのを待とうとしてくれた。そんな日が永遠に来ないかもしれないというのに――。

 静寂が四人の間に立ちこめる。どうしていいかわからない双子が顔を見合わせた時、にわかに黒い風が巻き起こった。

「うわあ!!」

 それは獰猛な唸りを上げてコートミールを押し倒した。朽ち落ちて、地面に突き立っていた枝が、少年の肩の肉を抉る。

「いやっ、ミール!!」

 レイミアが叫ぶのと、頭上の太い枝に飛び移ったイスフェルが、コートミールにのしかかった獣を蹴飛ばすのが同時だった。ギャンッと声を上げ、獣は五ピクト先まで吹っ飛んだ。しかし、すぐに身を立て直し、闇に浮かび上がる黄金の瞳で、自分を攻撃した人間を睨み付けた。

(黒豹……!)

 手探りで葉の付いた枝を折りながら、イスフェルは息を呑んだ。じりじりと間合いを詰めてくる獣に隙を見せぬよう、真っ直ぐと睨み返しながら、コートミールを確保したレイミアに声をかける。

「ミール様はっ!?」

「かっ肩から血がっ。ミール、ミール! 起きて! 起きるのよ!」

「ミール! ミール!」

 ファンマリオも一緒になって呼びかけるが、コートミールの声は聴かれない。地面に頭を打ち付けたので、気を失っているのだ。

「……レイミア様、早くお逃げなさい」

 囁くように言う青年に、レイミアは藤色の瞳を見開いた。

「け、けれど……」

「早く、早くお逃げなさい!」

 イスフェルは雷のような怒号を発した。夜の、足場の悪い山道である。対する黒豹には我が庭同然で、彼ひとりではとても三人を庇いきれない。

「いいから早く! お子様を守ってあげてください!」

「あ……」

 レイミアは、言葉を詰まらせた。出くわしたのが青年と獣とどちらがいいかなど、なんと馬鹿なことを考えたりしたのだろう。小さなファンマリオさえ警鐘を鳴らしたにもかかわらず、彼女の浅はかな考えが愛する息子を傷付け、また青年を危険にさらそうとしていた。

「すみません!!」

 レイミアは地面すれすれまで頭を下げると、コートミールを抱えて走り出した。もうひとつの足音がそれに続く。イスフェルがほっとした時、ふいに足音が踵を返した。

「イスフェル……」

 真後ろで、少年の声がする。

「……マリオ様、早くお逃げなさい」

 黒豹が牙を剥き、口内が月明かりに赤々と浮かび上がった。ふいに少年が青年の衣服を掴んだ。その手が、微かに震えている。

「も、戻って来てね。ちゃんと……戻ってきてよ」

「……ええ、必ず」

 その時、背にかばわれているファンマリオには見えなかったが、イスフェルは笑っていた。黒豹を甘く見ているわけではないが、彼自身、こんな場所で死んでいる場合ではないのだ。彼には、仲間とともに描いた夢がある。そして、そのために必要な少年に、たった今、戻ってきて欲しいと言われたのだから……!

「さあ、お母上を守って差し上げてください」

 イスフェルの言葉に強く頷くと、ファンマリオは今度こそ走っていった。

「フ……」

 藍玉の瞳に、危険な光が怪しく煌めく。そんな彼に、黒豹は満を持して飛びかかってきた。持っていた葉の枝で、獣の顔面を殴りつける。黒豹は横の斜面に激突しかけ、空中で見事に一回転した。まるで背中に地面と相反する物体が埋め込まれているようである。

 二、三度、口を開いて威嚇した後、黒豹は再び土を蹴った。全身が綺麗に宙を舞う。イスフェルはふとクレスティナのことを思った。その長い黒髪と、容易に男を地面に沈める剣技から、彼女は『近衛の黒豹』とも異名をとっていたが、まさにその通りだと思った。

 再び枝で前脚を薙ぎ払うと、イスフェルは柄の部分で着地したばかりの黒豹の背中を殴打した。その衝撃で、枝が真っ二つに折れ飛ぶ。かなりの痛手を負ったはずなのに、黒豹はイスフェルの武器がなくなったことを知り、谷に落ちかけるのを踏みとどまった。間をおかず、舌打ちして新しい武器を取ろうとする敵に飛びかかる。イスフェルは避けようとして、木の根に足を取られた。黒豹の力強い前脚が、彼の両肩を地に押しつける。絶体絶命の危機に、イスフェルはやはり笑っていた。

「……切り札は、最後までとっておくものだ」

 今にも喉元を食い破ろうとする黒豹の頭を左手一本で押さえ込むと、青年は右手で懐を探った。固いものが手に触れる。その時、木々の間で彼を呼ぶユーセットの声がした。

「ああ! ここ、だっ!」

 応えると同時に手中の白刃を閃かせ、イスフェルは逆に黒豹の喉を突いた。赤黒い血が噴き出し、彼の衣服を濡らす。黒豹はいっそうイスフェルに噛みつこうとしたが、やがて瞳の焦点を失わせ、彼の上に崩れ落ちた。

「――やれやれ……」

 イスフェルがその下からゆっくり這い出した時、ユーセットがようやく彼を見付けた。しかし、全身血みどろという凄まじい姿に、その顔が引きつる。

「だ、大丈夫か!?」

 それに答えようとして、イスフェルは片手を上げて一歩踏み出した。しかし、その場所が悪かった。蔦の葉に覆われた場所に、地面はなかったのだ。彼はそのまま三ピクトほど下の崖に転落した。

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