第七章 玉座を継ぐ者 --- 6

 イスフェルが目を覚ますと、横にユーセットの漆黒の髪が見えた。

「……ユーセット」

「ああ、イスフェル。大丈夫か?」

 顔を向けた彼の緑玉の瞳は、珍しく和らいでいた。

「……身体中がズキズキする。ここは……?」

「村長の家の離れだ」

 すると、部屋の中央の円卓にいたシダが呆れたように喚いた。

「まったくおまえともあろう者が、足を踏み外して谷に転げ落ちるなんて!」

「シダ、よさぬか。イスフェル殿は、たったひとりで黒豹と闘ったのだぞ」

 エルスモンドが諫めようとするが、シダは耳を貸そうとしなかった。

「そこまでは良かったんですがね。まったく心配させてくれるぜ」

「じゃあ、心配してくれなくていい」

「なにい!?」

 わざと憎まれ口を叩いてシダの反応を楽しむと、イスフェルは真顔に戻って再びユーセットを見た。

「ユーセット、ミール様は……?」

 すると、ユーセットはなぜか小さく笑ってセディスを見た。それに頷き、セディスが入口の戸を開けると、光の差す庭に向いていたふたつの小さな背中がはっと振り返った。セディスに促され、室内におずおずと入ってくる。

「……大丈夫、なのか?」

 顔を強張らせたコートミールは、イスフェルの顔をまともに見ようとしなかった。少年が意識を取り戻したのは、イスフェルが仲間たちの手によって村に戻ってきた時だった。肩の手当を受けながら、戸口の外を見た彼の目に映ったのは、全身血まみれの青年の姿だった。母レイミアを苦しめようとした青年。そのために自分に罵倒された青年。それなのに獣から自分たちを救ってくれた青年……。少年の胸中は複雑だった。

「ミール様……」

 身を起こし、ほっとしたような嬉しそうな表情を浮かべる青年に、コートミールは小さな花束を突き出した。

「これ、お見舞いだ……。母さんが持って行きなさいって……」

 途端、隣のファンマリオに足を踏まれる。外で青年の覚醒を待っている間、彼はイスフェルにお礼を言うことをファンマリオに約束させられたのだ。無論、彼自身もそのつもりだったのだが。

「ミールっ」

「わ、わかってるよ」

 小声でこそこそと言い合った後、コートミールは今度こそ青年を見た。

「助けてくれて、その……ありがとう」

「……いいえ。ミール様こそ、肩は大丈夫ですか?」

 イスフェルが肩に巻かれた包帯に目を遣ると、コートミールはそこをぽんと叩いた。

「こ、こんなのへっちゃらさ」

 一歩間違えば頸部を傷付け、死に至っていたはずである。イスフェルが内心で心底安堵していると、ファンマリオが枕元に膝を付いた。

「イスフェル、ちゃんと戻ってきてくれて嬉しいよ」

「マリオ様」

 巻き毛の下で愛らしく微笑む顔が、イスフェルには天使のように思えた。思わずこちらの口元も綻んでくる。そんな二人を見ていたコートミールが、ふいに声を上げた。

「……おまえ、イスフェルっていうのか?」

「はい、ミール様」

 怪訝そうな青年に、コートミールはこめかみを掻きながら言った。

「オレは、コートミールだ。別に、ミールでいいけど」

「……はい、様」

 少年の方から名前を教えてくれた、その意味を、イスフェルは噛みしめた。

 その時、少年たちの家でレイミアに付き添っていたクレスティナが、彼らの離れを訪ねてきた。起き上がっているイスフェルを見て微笑みながら頷くと、彼女はシダに双子を外へ連れ出すよう目配せする。

「クレスティナ殿」

 皆が深刻な表情を浮かべる中、クレスティナは戸が閉まったのを確認して、大きく息を吐き出した。

「厄介なことになった」

「厄介なこと?」

 彼女はシダの座っていた丸椅子に腰を下ろすと、円卓の上で両手を組んだ。

「御子たちは王都へ来て下さる」

「えっ、本当ですか!?」

「やったな、イスフェル!」

 瞬間的に室内が沸き返る。まさに怪我の功名であった。ユーセットと顔を見合わせ、穏やかに喜びを分かち合ったイスフェルだったが、クレスティナの物言いが気になった。

「――え、しかし、それのどこが厄介なことなんです?」

 同じようにそれに気付いたパウルスが、不思議そうにクレスティナを見る。彼女の言葉を反芻していたセディスが、にわかに眉根を寄せた。

「……御子たち――」

「そうだ。レイミア様は、王都へ行かない、と……」

 硬い面持ちでクレスティナが頷き、イスフェルは上掛けをはいで足を床に降ろした。

「おい、まだ寝てないと――」

 それを制そうとするセディスに、首を振る。

「こんな時に、寝ていられるか」

 息子たちを守りたいがゆえに昨夜のようなことをしたレイミアが、なぜ今さらそんなことを言い出すのか、イスフェルには理解できなかった。しかし、彼はセフィアーナに告げたのだ。決して家族をバラバラにしない、と――。

「待て、イスフェル」

 顔をしかめながら身を立たせた青年に、今度はクレスティナが制止の声をかける。

「今、セフィが話をしている」

 思いも寄らぬ言葉に、イスフェルは藍玉の瞳を見開いた。

「セフィが?」

「……思うに、彼女なら、レイミア様を説得できるのではないか……?」

 何を根拠に――そう思いかけて、イスフェルはようやくセフィアーナの生い立ちを思い出した。彼女がレイミア母子の離散を何よりも恐れていたのは、それがあるからなのだろう。

(セフィ……)

 イスフェルはゆっくりと寝台に腰を下ろすと、自分の心の傷にかまわずレイミアに向かった少女のことを想った。



 クレスティナからレイミアの言い分を聞いたセフィアーナが家の中に入ると、双子の母親は食卓に座り、文字通り頭を抱えていた。セフィアーナは後ろ手で静かに戸を閉め、おもむろに顔を上げたレイミアに微笑みかけた。

「私、セフィアーナといいます。神官見習いとして、この度の戦に参加しておりました」

《太陽神の巫女》と名乗ることを、セフィアーナは意識的に控えていた。その立場は彼女が考えた以上に強力かつ微妙なもので、人々の本音を隠してしまうからだ。わざわざ名乗らずとも、それに相応しい振る舞いさえしておけば、人々は自ずと知ってくれるだろう。

 勧められた椅子に座ると、セフィアーナは真っ直ぐにレイミアを見つめた。

「クレスティナ様からお聞きしました。お二人をお捨てになるって」

 こんな時だというのに、少女の鈴の鳴るような声に、レイミアは一瞬、耳を奪われた。しかし、反芻した言葉がすぐに彼女の顔を強張らせる。少女を見ると、その瞳はどこか非難の色を滲ませていた。

「子どもを捨てるって、どんな気持ちですか?」

「な……!」

 重ねられた許し難い言葉に、レイミアは音を立てて立ち上がった。

「貴女……!」

 しかし、激した彼女を前にしても、セフィアーナはその表情を変えず、静かに言い放った。

「答えて頂けたら、私も大切なことをお教えします。この件に関して、唯一私がわかることを」

 レイミアは怒りの滲んだ吐息を大きくついた。

「貴女には、きっとおわかりにならないでしょう」

「ええ、わからないでしょう。わかりたくもありません。でも、知りたいんです」

 セフィアーナは、机に手を着いて立ち上がると、レイミアの方に身を乗り出した。

「無礼を承知で、もう一度お尋ねします。子どもを捨てるって、どんな気持ちなんですか?」

 レイミアは自分を貫く瑠璃色の視線に息を呑むと、突然、椅子の上に崩れ落ちた。顔面が蒼白になっている。と、その口から嗚咽が漏れ出た。

「……レイミア様」

 それはいつしか号泣へと変わり、セフィアーナは席を離れて彼女の肩を抱いた。

「……あの子たちが生まれた時から……いつか……いつか、こんな日が来るのではないかと……いつもいつも不安で……。でも、きっと大丈夫、きっと大丈夫……て……」

 たった一夜のために、レイミアが背負わされた運命はあまりにも過酷だった。両親と引き離され、宿した子は鷹の雛だった。王妃の懐妊を誰よりも待ち望んだのは、実は彼女だったかもしれない。しかし、その願いは最悪の形で打ち捨てられた。

「……お子様方はどこでお生まれになったのです?」

「マスデラルトです。北の……」

「いつ?」

「八年前です。王妃様の御使者に言われ、マスデラルトへ逃れてから初めての夏……」

 マスデラルトは山々に囲まれた盆地で、冬が厳しいことで有名だった。何の宛もなくそこへ辿り着いてから二年ほど神殿に身を寄せ、その間に双子を出産した。その後、町に小さな部屋を借り、宿場街で働き始めた。一日中働き詰めの生活を支えたのが、日々大きくなる子どもたちの笑顔だった。兄弟で競うように床を這い回り、二本の足で歩き始めたかと思うと言葉を喋り始め、「マリオが」「ミールが」と喧嘩をするようになった。会えなくても、少しでも両親に近い場所で暮らしたい――そう思ってテフラ村にやって来たのは、双子が六歳の時だった。仲の良かった友だちと涙の別れであったが、数か月の旅の間、母を責めるようなことは二人とも一度としてなかった。それどころか家族を労り、問題が起きても幼いなりに考え、自分たちで解決しようとしていた。

「――あの子たちは、私の生き甲斐です。私がこの世に生きたことの、唯一の証なんです……」

「だったらどうして……どうして王都へ一緒に行って差し上げないんです?」

 わからないといったふうに首を振る少女に、レイミアはどこか寂しげな表情を浮かべた。

「私が行ってどうなります? 平民出の私など、あの子たちの足を引っ張るだけです。私はどうなっても構いませんが、あの子たちが私のためにひどい目に遭うのだけは……」

「だったらなおさら、なおさら共に行かれるべきです。私は王宮のことはあまりわかりませんが、それでも思惑と利権が暗くぶつかる場所だと感じました。そんなところにお二人を放り出すなんて……。レイミア様が御自身の身分を気になさるのは仕方のないことですけど、ミール様やマリオ様があなたの御子だということは、どうあがいても変わらないんですよ。それなら、母親だったら、子どもを愛おしく思うんだったら、自分がどう傷ついてもいいんなら、傍で守ってやるべきじゃないんですか!?」

 抑えきれない想いが、少女の瑠璃色の瞳から大粒の涙となって溢れ出る。

「どんな生活になっても、私はそばにいて欲しかった……!」

 レイミアさえ考えを改めてくれたら、双子も、そして彼女自身も家族を失う哀しみを味わわずに済む。突然、泣き伏せた少女を、レイミアは泣きはらした目で見遣った。

「セ、セフィアーナ様……?」

 すると、少女は小さく首を振った。

「私は、様付けで呼ばれるような偉い人間ではありません。あなたと同じ平民で……シリアの山奥の孤児院で育ちました」

 レイミアが小さく息を呑み、セフィアーナは顔を起こして深く息を吸い込んだ。

「私がこの件で唯一わかることというのは、お子様方のお気持ちです。突然、お母様がいなくなったら、ミール様やマリオ様はどう思われるでしょう……? 最初はあなた方を引き離したイスフェルたちをお恨みになるでしょう。でも、いつかお母様に会えると信じてて……。けれど、いつまでたってもあなたは現れない。そして、そのうちあなたが御自分たちを見捨てたと考えるようになるでしょう。辛くて……自分がどこにいるのかわからなくて……。何のために生まれてきたのか……どうしてこんなことになったのか、自分でも呆れるぐらい心が荒れて……。そうなれば、もう王子としての身分など、顧みなくなられるかもしれません。たとえあなたが良かれと思ってしたことであっても……」

 頬を伝う涙を手で拭うと、セフィアーナは小さく笑った。

「私は生まれた直後に置き去りにされたからまだいいですけど、お二人はもう八歳。きっとあなたの面影を忘れることなど……。あなたの生きた証がお子様方であるのと同じように、今のお子様方には、あなたが生きるための道標なんです。そして、お二人が陛下の御落胤だということは、あなたにしか証明できない……!」

 セフィアーナの両手が、レイミアの両手を包み込む。どちらも日に焼け、多少の手荒れが見える、働き者の手だった。

「お願いです、お二人と一緒に王都へ行って差し上げて下さい。いつまでもお二人の傍にいて、あの優しさを守って上げて下さい。あなたは独りじゃないんです。イスフェルも、彼の仲間たちも宰相閣下も、あなたとお子様方を守って下さいます。勿論、お子様方のお父上である国王陛下も……!」

 その名を聞いた途端、レイミアの心に熱いものが宿った。怪我をしてもなお闘志を捨てず、王国のために危険を顧みず戦場に戻っていった戦士。その勇気を、短い間でも分けてくれた愛しい人――。

「国王、陛下……?」

 自分のか細い声に、セフィアーナが力強く頷く。

「あの子たちを守るために、王都へ……?」

 いっそう深い少女の頷きを得、レイミアは席を立った。ゆっくりと戸口に向かう。すると、陽光の下、元気にちゃんばらをするコートミールとファンマリオの姿が浮かび上がった。それはやがて木に登ったり、草むしりをしたり、好物の野苺を頬張る姿へと変わっていく。

(――どうして、あの子たちと別れて暮らせるなどと思ったのだろう……?)

 そう思った時、レイミアは静かに運命を受け入れることを決めた。

「……わかりました。私も王都へ参ります」

「ほ、本当ですか!?」

 突如として発された言葉に、セフィアーナは瑠璃色の瞳を見開いた。

「王宮がどんなところか、卑しい私にはまるで想像も付きませんが、貴女やイスフェル様のような方がいらっしゃるところなら、少しは頑張れるかもしれません……」

「レイミア様……!」

 深々と頭を下げる少女に、レイミアは双子の母としてもう見苦しい真似はするまいと誓った。

「あの子たちのために……あの笑顔を守るために……私はこれから生きていきましょう」



 村長の家の離れの前で遊ぶ子どもたちを見て、レイミアはその愛しい名前を呼んだ。

「コートミール。ファンマリオ」

「母さん!」

 双子は同時に声を上げると、走って彼女のもとにやって来た。

「母さん、見て! シダがオレの弓を作ってくれたんだ!」

 生き生きと言うコートミールに、レイミアは微笑みかけた。

「そう。じゃあ今度は剣の使い方を教えてもらいなさい。それから字の書き方や本の読み方や――」

「母さん?」

「あなたたちにならできるわ。母さんもそばで応援するから」

 室内でその言葉を聞いたイスフェルは、親子の後方に立っていた少女に素早く視線を走らせた。すると、その表情は今にも崩れてしまいそうだった。案の定、セフィアーナはすぐに裏庭の方へ姿を消していった。イスフェルは寝台を出ると、セディスの制止を振り切って表へ出た。家の壁に手を付きながら裏に回ると、そこに立っている木に寄りかかって、セフィアーナが肩を震わせていた。やはり、古傷を開かせてしまったのだ。

「セフィ……」

 青年の声に、セフィアーナは驚いたように振り返り、慌てて涙を拭った。

「イスフェル。寝てないとダメ――」

 しかし、皆まで言わせず、イスフェルは少女の顔をまっすぐと見つめた。今は自分の身体より、少女の心の傷の方が痛々しい。

「大丈夫かい……?」

 気の利いたことを言えない自分をもどかしく思いながら近付いていくと、少女は無理に微笑みを浮かべようとした。

「ええ、何でもないから……大丈夫――」

 しかし、溢れる涙は止めどもない。

「ご、ごめんなさい。少しだけ……」

 俯いた頭が青年の胸にあたり、イスフェルはそのままセフィアーナを抱きしめた。ふわりと香った匂いは、少女の故郷に咲き誇るシェスランの花のものだろうか。

「……ありがとう」

「え……?」

 何を言ってやればいいかなど、彼にはとても思い付きそうにない。だが、言わなければいけないことなら、ただひとつあった。

「きみが今日、ここに居てくれたことを、オレは本当に神に感謝するよ」

「イスフェル……」

「きみが居てくれて、本当に良かった」

 途端、少女の涙がいっそう溢れ、イスフェルは容易に狼狽えた。

「セ、セフィ!」

「ううん、これは違うの。これは――」

 それは、嬉し涙だった。なぜ自分は捨てられなければならなかったのか、実の親は自分のことをどう思っていたのか、なぜシュルエ・ヴォドラスの手で幸福に育てられた自分がここまで惑わされるのか、なぜ人々は運命に簡単に翻弄されるのか――あらゆる想いが彼女の内で渦巻き、居たたまれなくしていた。それなのに、イスフェルはその状況からあっさりと彼女を連れ出してくれた。

「……ありがとう、イスフェル」

「え? 何だい?」

 ほとんど囁くような声だったので聞こえなかったのだろう、きょとんとする青年に、セフィアーナは今度こそ笑顔を向けた。

「ううん。さあ、怪我人は早く寝台に戻らないと」

 彼に肩を貸してやりながら、少女は以前も同じような事があったのを思い出していた。



「それでは改めて御返事をお聞かせ下さいますか、レイミア様」

 イスフェルの改まった口調に、レイミアは小さく頷いた。きょとんとしている我が子の前に腰を落とすと、その小さな手を取った。

「二人とも、よく聞いてちょうだい」

「なあに、母さん?」

 四つの真っ直ぐな天色の瞳にさらされ、レイミアは口ごもった。

「あなたたちの……父さんのことだけど……」

「死んじゃったんでしょう?」

「立派な戦士だったんだよね!」

 口々に告げる子どもたちの前で、レイミアはいっそう小さくなった。

「……母さんね、あなたたちに嘘を……嘘を教えていたのよ。父さんは……本当は生きてるの」

「えっ……」

「事情があって、母さんは父さんとさよならしたの。だから、父さんはつい最近まであなたたちのことは知らなかったの」

 コートミールとファンマリオは、鏡を見るかのように顔を見合わせると、眉根を寄せて母親の顔を覗き込んだ。

「父さんは――父さんは今どこにいるの!?」

 そして、母親の視線を追ってイスフェルを見る。イスフェルは三人の傍まで歩み寄ると、穏やかな声で言った。

「……私はお二人のお父上に頼まれて、お母上と、そしてあなた方をお迎えにあがったのです。お父上は今、王都バーゼリックにいらっしゃいます」

「王都……?」

「それってどこにあるの?」

「ここからずっと西に行ったところです」

 西を差すイスフェルの指を見て、ファンマリオは表情を曇らせた。

「遠いの……?」

「……ええ、とても」

「じゃ、じゃあ、ここにはもう戻れないの……?」

 この村と別れることを想像したのだろう、ファンマリオの瞳に少し涙が滲み、レイミアはそんな息子を抱きしめた。

「マリオ……。もう、これきりだから。もう二度と引っ越しはしないから。母さんを許してちょうだい……」

「母さん……」

 ぽろっと大きな一粒が少年の頬を滑り落ち、母親の肩を濡らす。それを見て、コートミールが首を振った。

「マリオ」

 その瞳が、「二人で母さんを守るって決めただろ」と語っている。ファンマリオは手の甲で涙を拭うと、無理矢理笑顔を浮かべた。

「……いいよ、母さん」

「ほんとう……?」

 唇を噛みしめる母親の頬を小さな手で覆うと、ファンマリオはにこっと笑った。

「うん。みんなとお別れするのは寂しいけど、だって父さんに会えるんだもん。ボク、王都へ行くよ」

「マリオ……」

「もちろん、オレだって」

「ミール。あなたたち……」

 レイミアは一度に二人を抱きしめると、その頬に口づけた。そして再び抱きしめる。

「……イスフェル様、私たちをあの方のところへ連れて行って下さい」

 青年を振り返った時、レイミアの両の瞳には強い意志が宿っていた。

「レイミア様……」

 イスフェルが跪き、一同がそれに倣う。

「私たちが全身全霊を賭けてあなた方をお守りいたします」

「宜しくお願いします」

 サイファエールの命運を委ねられた少年たちは、しかし、今なお自分たちの運命に思い至ってはいなかった。



 その日のうちに、レイミアは村長に村を離れることを告げた。老人は「そうか」とぽつりと呟くと、それきり黙ってしまった。代わりに息子がレイミアに言葉をかける。

「二年前、おまえがこの村へ来た時から、何か事情があることはわかっていた。双子を父親に会わせられるというなら何よりだ。おまえも夫に会いたいだろうしな。王都で達者に暮らすといい」

「本当にお世話になりました。この御恩は一生忘れません」

 深々と頭を下げるレイミアを見て、息子はイスフェルに三人を頼むと告げた。青年が頷きを返した時、中庭で竪琴の音がした。イスフェルはすぐにセフィアーナのものとわかったが、それを聞くのがいつ以来であったかは、思い出すことができなかった。


  葉月の野を歩きて

  何かは思わん

  草の青きか 空の蒼きか

  葉月の野を歩きて

  何かは知らん

  すべて風の蒼きより生まるるをか

  我 旅の心に答えを探さん

  彼方より鳥飛来せんは先ず告げん

  汝 真実を知りたらば

  汝 永遠に美しき口を閉ざせ

  地を踏みつつ 空を仰ぎつつ

  我 自ら掴み取らん

  然れどもまた願う

  永遠に真実の見付からざらんことを


 この日を始めに、テフラ村では《太陽神の巫女》の伝説が語られるようになった。そしてさらにひと月後、双子王子の隠れ里という伝説も始まる。

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