第一章 風の谷の詩 --- 2
礼拝堂を出て最初にセフィアーナの瞳に映ったのは、たちこめる朝靄でもなければ、立ち並ぶ森の木々でもなく、近所に住む青年の、まっすぐな枯葉色の長い髪だった。
「カ、カイル!?」
首だけをこちらに向け、広場に降りる階段に座り込んでいる青年を見て、セフィアーナは目を見開いた。
「どうしたの? こんなに早く……」
呆気にとられている少女に、カイルは立ち上がりながら静かに声をかけた。
「もう、いいのか?」
「え?」
どういう意味か分からず、セフィアーナが問い返すと、青年は遠慮がちに言った。
「最近様子がおかしいと思ったら、今日なんだってな、おまえが谷に来たの……」
「――うん……」
張った気が抜けるように答えて、セフィアーナは石造りの礼拝堂を見上げた。
「十六年前の、今日……」
できることならその日へ行き、赤ん坊の自分を抱えている人物の顔を見てみたいと思う。しかし、人間の身であるセフィアーナに、それは許されていないことだった。
「昔はね、この時期になったら迎えが来るんじゃないかって、それでここに来てたんだけど……」
セフィアーナは、瑠璃色の瞳から悲しげな光を放ちながら、小さく笑った。
「いつの間にか、自分の気持ちを確かめる儀式になっちゃった」
「セフィ……」
いつもは天使か妖精のような振る舞いを見せる少女の意外な一面を知り、カイルは言葉を失った。その時、
「わあ……」
横でセフィアーナが感嘆の声を上げ、カイルが前を向くと、朝陽の第一条が庭に差し込んだところだった。芝生の朝露が、まるで真珠をちりばめたように煌めいている。先刻までたちこめていた朝靄は、風に追われて森の方へと移動していた。
「綺麗ね……」
その言葉を最後に、しばし二人はその光景に見入った。
彼らが生活するダルテーヌの谷は、サイファエール王国の南の国境近く、険しい山容を誇るシリアの中腹にあり、春の訪れは北にある聖都より二か月も遅い。今年も例年どおりの大雪で、数日前までは除雪作業に追われていた。
ふいにカイルが口を開いた。
「弾かないのか?」
少女が分身を連れているのに気付いたのである。彼女が竪琴を奏でつつ詩を吟ずるのが何よりも好きだということは、村中が周知のことだった。
「そうね……」
気分が乗らないのか、しばらく逡巡していたセフィアーナだが、カイルの隣に腰を下ろすと首を傾げた。
「曲目は、何が好い?」
「そうだな……」
青年は枯葉色の髪をかき上げた。
「時節柄、春の賛歌が適当だろうな」
彼の素直でない物言いに、セフィアーナは軽く首を竦めた。
「じゃあ、そうするわ」
身じろぎして竪琴を構える。彼女の白く細い指が弦の上を優雅に滑ると、初夏の風のように清涼な音色が流れ出した。しばらくして、セフィアーナの澄んだ声がそれに重なった。
瑞々しく爽やかな木立の中で
鳥は歌を奏でたり
緑に覆われたる山々の奥で
風は舞を踊りたり
皆の者 春ぞ来たる
我らを幸福に微笑ましむる春が
いま 我らの空に
孤児院へと続く坂を、一人の少年が上ってきた。朝礼へ出席するためである。少年は二人の姿を見付けると、声をかけようとして手を挙げた。が、突然、耳に入り込んできた竪琴の音色に、口を封じられてしまった。彼の後からやって来た村人たちも一斉に喋るのを止め、礼拝堂の前に吸い寄せられるようにして小さな輪を作る。
清らかに透明な小川の中で
魚は水面に顔を寄す
光に覆われたる大地の上で
花は雲を仰ぎたり
皆の者 春ぞ来たる
我らに希望を与えたもう春が
いま 我らの心に……
少女の織りなす旋律は、聴くものの心を洗いながら、終焉を迎えた。しかし、時間が凍てついてしまったように、生あるものすべてが未だに恍惚として、彼女の創り出した世界から抜け出せないでいた。
セフィアーナは、呆然と立ちすくむ村人を見回すと、訝しげに挨拶した。
「あの……おはようございます」
人々は、ようやく我に返った。途端、拍手と歓声の嵐が、孤児院の広場に吹き荒れた。感動を受けたのは人間だけではないようで、それまで枝の上で黙っていた小鳥たちも、一斉に囀り始めた。
「相変わらずだな……」
余韻に身震いしながら、カイルは立ち上がった。
彼は不思議でたまらないのだった。聞き慣れているはずなのに、いつも心底魅了されるのはなぜなのだろう、と。
村人たちから暖かい賛辞を受け、満面の笑顔で応対していたセフィアーナだが、それが一段落し、カイルのもとへ戻ってきた時、なぜか神妙な面持ちをしていた。それを、青年の、冴えた碧玉の瞳は見逃さなかった。
「どうかしたのか?」
尋ねると、少女は俯いた。泣いているのかと思ったが、言葉を考えていたらしい。彼女が再び顔を上げた時、これ以上ないくらい穏やかな表情をしていた。
「私ね、今、とっても幸せ」
きっぱりと言い放ち、小さく微笑む。最近の苦悩を微塵も感じさせない、晴れやかな笑顔だった。
「……ああ」
彼女の心の奥で、どれほど激しい葛藤が繰り広げられていたことだろう。そして、その中から少女が探し当てたのが、今の台詞だったのだ。その意味が深いところにあるのを、青年は承知していた。
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