サイファエール物語

斎藤深沙

第一部 剣士の舞 神姫の歌

第一章 風の谷の詩 --- 1

 その日、セフィアーナは、まだ夜が明ける前に目を覚ました。

 硬い寝台の上で横になったまま、しばらく天井を見つめていた彼女だが、ふいに小さな溜息を漏らすと、ゆっくりと起き上がった。枕元に置いておいた衣服へ早々に袖を通し、鏡台の前に座る。

 鏡に映し出されたのは、可憐な顔立ちをした乙女の胸像だった。シリア山の万年雪のように白い肌、笑うと薔薇色に上気する頬、瑠璃色の大きな瞳、そして巻貝のようにうねった蜜蝋色の豊かな髪。しかし、今、その表情は硬く、陰鬱としている。

「この顔に似ている人が、どこかに……」

 何気に呟いた言葉に、セフィアーナは突如、身震いした。心の中で、何か得体の知れない感情がざわめき始める。たまらなくなって、椅子から立ち上がった。

「……やっぱり、無理だわ」

 言って厚い肩掛けを羽織ると、扉横の棚の上に立てかけておいた小振りの銀の竪琴をしっかと抱き、部屋を出た。それは、彼女が物心ついた時から片時も離したことのない、大切なものだった。



 少女の暮らすスリベイラ孤児院の敷地には、本棟と西棟、礼拝堂が建っている。本棟一階は食堂や台所、風呂場のほか、院長の部屋があり、二階は孤児の世話をする神官の部屋が並んでいる。西棟は、一階が教室、二階が子供たちの部屋となっていた。礼拝堂では毎朝礼拝が行われ、それには村人も参加していた。

 セフィアーナは十二歳まで西棟にいたが、十三歳になった時、今の本棟二階の一番端の部屋に移された。彼女が将来は神官になりたいと望んだためである。今の彼女の身分は、神官見習いといったところだった。

 少女は他の者を起こさないよう長い廊下を音を立てずに進むと、突き当たりの階段を下りた。そこはちょっとした広間になっていて、左へ曲がると玄関である。今、彼女が行こうとしている礼拝堂へは、玄関を出た先の回廊を渡って行けばいいのだが、セフィアーナは直進し、その先にある裏口から表へ出た。神前へ寝起きの顔のまま行くことはできない。その前に流し場で清める必要があった。

 外は身を刺すような寒さだった。至る所に雪が積もり、周辺は濃い靄に包まれている。セフィアーナは井戸の桶を引き上げ、痛いほど冷たい水で顔を洗うと、心身を震わせながら礼拝堂へと向った。



 まだ陽も昇らぬうちの祈りの場には、依然として夜の闇がわだかまっていた。

 セフィアーナは礼拝堂の側面にある扉から中に入ると、途中の台所から持ってきた種火で、祭壇の蝋燭に火を灯した。その後、祭壇から二、三歩下がったところに両膝を着き、両手を組むと、深く頭を垂れた。

「……去年の今日、来年はもうここへは来ないと誓ったのに、また来てしまいました。どうか愚かな私をお許し下さい……」

 そして、おそるおそる祭壇を見上げる。その視線の先には、蝋燭の頼りない光に照らされた、テイルハーサ教の聖旗が掛けられていた。真紅の厚布の中央に、太陽神テイルハーサの紋章である図式化された太陽が、金糸で刺繍されている。

「大丈夫だと思ったのに……今年こそは大丈夫だと思ったのに、やっぱり駄目でした……。赤ん坊の私が、どうして置き去りにされなければならなかったのかを考えると、憎いから……望まない子だから、要らない子だから捨てられたんじゃなくて……もしかしたら……もしかしたら、不可抗力だったんじゃないかって……病気とか、貧しさとか……。頭ではそんなことあるわけないって分かってるんですけど、でも……浅薄な夢を見てしまうんです。どこかにお母様やお父様が生きてらっしゃるんなら、いつか迎えに来てくれるんじゃないかって……」

 セフィアーナは震える唇を噛みしめた。

「お願いです。知恵のない私に、どうかお教え下さい。どうすれば……どうすればこんな物思いをせずに済むのですか……? 私はどうすればいいのですか……?」

 しかし、それに答えてくれる人はいなかった。

 瑠璃色の瞳から、光の玉が溢れ出た。頬を伝い、冷たい床に落ちる。

「お願いです、答えて下さい……!」

 美しい顔を苦悶に歪め、セフィアーナは叫んだ。

 その時である。

「あなたは贅沢よ」

 凛とした声が、礼拝堂の中に響いた。セフィアーナは驚いて辺りを見回したが、人の気配はまったくない。

「誰……?」

 セフィアーナが不安に駆られて立ち上がった時、再び声が聞こえた。

「あなたは自分が贅沢だとは思わないの?」

「ぜ、贅沢……?」

 身に覚えのないことを断定的に言われて、セフィアーナは動揺した。その彼女に、『声』が追い討ちをかけた。

「そうよ。あなたは親が迎えに来ないことを嘆いているけど、じゃあ、あなたは親に捨てられたことで、何か不自由したの?」

 セフィアーナは記憶を探った。しかし、どんなに考えても、そのような記憶を見付けることはできなかった。それもそのはずである。彼女は孤児院で育ったのだ。周囲も皆、親のいない子どもばかりだった。彼らの世話をしてくれるのは神官で、彼らを分け隔てなく愛してくれた。村の人々も優しく、喜怒哀楽をはっきりと示してくれた。その人々の子どもも、罵声を浴びせてくるどころか、彼らと一緒に野山で遊んでくれた。

 少女は首を振った。

「それなのに、この上、親を欲するというの?」

「で、でも……!」

 弾かれたように顔を上げる。相手がどこにいるのかわからないので、あらゆる方向を向いて叫んだ。

「人に親がいるのは当然のことだわ。その当然のことを、私には願う権利がないの!?」

 彼女の悲痛な声とは裏腹に、その『声』は夜の静寂のように落ち着き払っていた。

「そうは言ってないわ。だけど、満たされた者の願いが叶えられることはない」

「………」

「それに、あなたのような境遇の子どもは、世に溢れてるわ。あなただけが不幸なわけじゃない」

 それは彼女も十分なほどわかっていることだった。それでも、自分は根本的な一点において不幸だったと思わずにはいられない。しかし、『声』は更に言った。

「あなたは知っているはずよ。己の甘さが自分を苦しめていることを」

「己の甘さ……」

「そう。だから、あなたは神官になりたいと願うようになったのではないの? 周囲の人間の影響だけじゃないわ。また彼らに恩を返すためだけでもない。あなたは、自身が一人の人間として強く立ち上がるために、そう願うようになったのよ」

 彼女の内にある、自分でも計り知れないもやもやとした感情まで具体的な言葉にされて、セフィアーナは絶句した。いったいこの『声』はどこから来て、彼女をどれほど理解しているのだろう。

「あなたはここへ連れてこられたことに感謝しているはずよ。他のどこでもなく、このダルテーヌの谷に」

 セフィアーナは息を呑んだ。確かにそう思っていたのだ。もしかしたら、崖から海に投げ込まれていたかもしれない身を、この暖かい村に捨ててくれた。道端に放置されて惨めな死に方をするしかなかったかもしれない身を、この孤児院に連れてきてくれた。もし今、物語の貴族のような生活をさせてやろうと言われても、自分は必ずここでの生活を選ぶだろう。彼女はそれほどに孤児院での生活を愛し、それに自信を持っていた。

 そんな彼女の気持ちを見透かしたように、『声』は言った。セフィアーナには、その語調が少し和らいだように感じられた。

「もう迷うことはないわ。神がお望みになるのは、あなたがあなたに与えられた境遇の中で、必死に生きることだけ。人間は過去に生きるのではなく、より良い未来のために、現在をあがいて生きるよう運命められている……」

 ふいに『声』がどこかに行ってしまうような感傷に駆られて、セフィアーナは暗がりに向かって尋ねた。

「あなたは……あなたは、誰なの!?」

「私は――」

『声』の声の調子が初めて鈍った。真実を打ち明けるべきかどうか、迷っているようだった。

 しばらくして、ためらいがちな声が聞こえてきた。

「私は、もう一人のあなた」

「え……!?」

 その瞬間、セフィアーナの脳裏で何かが弾けた。瑠璃色の瞳を見開いて立ちすくむ彼女の身体の周りを、何かの破片がきらきらと輝きながら落ちていく。

「――『もう迷うことはない』……」

 もう一人の自分が言った言葉を、セフィアーナは反芻した。

「そうよ……。もう迷うことなんてない。たとえあの人が私の分身でなくても、私の真実はあの人が言ったとおりなんだもの。迷うことなんてない!」

 叫ぶと同時に顔を上げると、セフィアーナは祭壇に向かって深く一礼し、踵を返した。彼女の正面には、閉ざされた入口の扉がある。彼女はそれを自分の手で開かなければならなかった。

 扉の直前で立ち止まり、大きく深呼吸する。取っ手に掛けた手に、徐々に力を込めた。

 少女はゆっくりと扉を押し開けた。

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