少年と男

 それからというものの、忙しい毎日が始まった。


 それまでの悠々自適な生活に突然子どもが組み込まれたのだ。当然これまでの生活は送れない。

 先ず大前提として毎朝毎晩彼の元にいなければならない。毎日家を空けるようでは覚悟が足らないと杉田に怒られる。色々工夫をせねばならぬだろう。

 更には自分の維持に欠かせない煙草の扱いも考えなければならない。今までは資料読むにもすぱすぱ、ベッドの上でもすぱすぱ、車の中でもすぱすぱ吸っていた。しかし子どもの健康には勿論よろしくない。更には彼が初めて「顧客」として生活するようになったその初日、しょっぱなから

「この部屋くせぇ」

と言い放ちやがったのである。その日急いで消臭剤を買いに行った。ちょっとだけ傷ついた。(突然の出費だったから)

 ――あ、そうそう、朝ご飯と昼ご飯と夕ご飯も。毎日毎日オムレツとかは流石にいけないかな。……おやつはいるのか? 誰か作り方知ってる知り合いはいたっけか……。

 色々が初めてで度々混乱した。我が生みの親もこのような苦労をしただろうか。売上は当然従来の何十パーセントという数値に落ち込み、通帳を見る度にかなり傷ついた。(入るお金が減ってるから)

 しかもLIARはまだまだ微妙に懐かないし、自分のことについても話さないしでこてんこてんに参ってしまった。くそー、あの時のアレで完璧に心掴めたと思ったのに。何がいけなかったんだ……いや、いけない所しかなかったのか。

 そんなこんなでまずは口数が少なめの生活。

「LIAR、明日何食べる?」

「……何でも良いよ」

「じゃあアマガエルのスープにしとく?」

「本気にするな!」

 ――なるほど。冗談はよく効く。よし。めもめも。

「じゃあ何にするか」

「カエルじゃなきゃ何でも良いよ」

「じゃあトンボにするか!」

「察してよ、いい加減!」

 突然の血眼。

 なるほどなるほど。でもほどほどに。これは難しそうだな。

「じゃあ……あれだな。目玉焼きをトーストの上に乗せるとかするのはどうだろう」

「……良いんじゃない」

「よし、それにするか!」

「うん」

「……それにしても、毎度こんな素朴な料理じゃ飽きるかな? もっと工夫とか、色々必要だと思うんだが……ね、どう思――」

 ――と。

 振り返ったら既にいない。いつの間にか今まで怜が使っていたベッドに潜り込んでいる。(今現在彼はソファで寝ているが、ベッド代と比べればこっちの方が全然ましなのである)

「あれ? もうおねむ?」

「もう十時」

「へぇ、健康的だなぁ」

「マジで言ってんの? 眠くなるでしょ、普通」

「や、おじさん、一秒でも長く働いて稼ぎたいタイプだからさ」

「……体が資本っていうだろ。そんなんじゃ身がもたないよ」

「いーのいーの。おじさん強いから」

 いつも通りの言い訳。

「……それ、言われる度にいっつも思ってんだけどさ、言い訳になってないから。いつ体壊すことになるのか分かんないんだから、そーゆーのは早めに休んでおくべきなんだよ」

 それにこうやって返ってきたのは今日が初めてだった。

 ハッ――!! これは……!!

 瞬間、(自称)知能指数53万の男の脳裏に稲妻が閃く。


「……あれ、もしや俺、今心配されてる?」


 彼のわくわくが滲み出る声に今度は少年がハッとなる。

「心配してる? 心配しちゃってる!?」

「してない」

「やばっ、LIAR、とうとうお前……!」

「する暇ない」

「ちょっ、お前、お前ー!! ちょ、お前えええ!!」

「煩い」

「おいさんが子守歌を歌ってやろうかぁ!」

「いらない」

「セットで添い寝はいかがぁ?」

「興味ない」

「今ならお安くしておきますよぉ!」

「そこはカネ取っちゃだめだろ!」

 不愛想を保ったまま突っぱね返し続けるが、とうとう自分の隣に入ってきやがった。相変わらず髭が痛いぞ、この親父。

「良いってば! 暑い!! 邪魔!!」

「おおー、お前が好きだぞおおお」

「暑苦しいってば! いちいち抱くな、鬱陶しい!」

「やっぱりお前を引き取って良かったんだよ、やっぱり俺の見立ては間違ってなかったんだ!」

「ちょい、煩い!」

「大好き大好き大好きー!」

「……ったく、大げさ」

 言いつつ、怜を引き剥がそうと腕に手をやると予想以上に簡単に剥がれた。

 見るともう寝ている。

「……よ、読めない」

 つい口を突いた。この時間も起きてるんじゃなかったのか。

 言おうと思ったがそこまでは言わなかった。


 代わりにベッドから蹴落としておいた。

「ぷぎゃっ!」

 何も、聞こえない。


 * * *


 それから数日が経過したある日のこと。


「本ッ当に! すみません! すみません!!」

「何で土下座で謝ってんの?」

「以降気を付けますから……!」


「実は今日、滅茶苦茶帰りが遅くなるんです」

 どうしても正座が崩せない怜がしゅんとなりながら言う。

「何だ、そんなこと?」

「そんなこと? ってレベルではないのです! ド深夜までかかるお仕事なのです!」

「良いじゃん、仕事なんだから仕方ないでしょ?」

「遠く足利県まで行ってさ、取引してから帰ってくるの! そしたら日をまたぐかもしれないんだよ、そんなの寂しいだろ?」

「別に」

「ご飯は作っておいたけど、やっぱり寂しいよな! おじさんがいないと!」

「いいえ」

「……あ、杉田呼んどく?」

「まず誰だよ」

「それとも神風が良いかな」

「だから別に良いってば! 仕事ちゃっちゃと行ってきて。面倒臭いから」

「でもおいちゃんのせいで寂しくなったら、寂しくなったら……」

「いい加減しつこい! さっさと行ってこい!」

 ほぼケツを叩かれるかのような勢いで送り出された。

 まだ心配そうな顔をしている彼に子どもじゃないんだから、と言って乗用車に無理矢理乗せる。

 それでもまだまだ不安そうな彼を、手を振って見送った。

 自分はお兄ちゃんだから、大丈夫。一人も平気、怖くないんだ。


 ――、――。


 と、思っていたのだが……。


「がたがた」


 どうしよう。


「ぶるぶる」


 これは困ったことになった。

 ずばり……あ、いや、別に百パーセントそうという訳ではないのだけれど、その……夜が怖い。正しく言えば、余り知らないような家での、ひとりぼっちの留守番の時の、夜が、怖い。じゃなくて、真っ暗が、怖い。じゃなくて、えっと、えっと……そんな感じ。

 何でとかそういうのは分からないんだけど、何かそこの闇の中からRaymondとか、Roylottとか……色々出てきそうな気がしてしまう。

 すぐそこで怜が大いびきかいてる時は何とも思っていなかったのに、こんなのは初めてだった。

 布団を被り、できるだけ多くの灯りを点けて震えながらベッドの上で過ごす。枕をどんなに強く抱き締めてみても落ち着かないし、ご飯は喉を通らないし、じっとしていればどんどん不安になるし、ちょっとの物音も気になるし。

 そうして目もずっと冴えたまま、深夜の十二時を過ぎた。食欲は無かったが、それでもと思ってご飯をちょっと口に入れてみた。しかしすぐに気持ち悪くなってしまうので、寝て過ごすことに。お腹も痛くて、トイレに行ってみると下痢をしていた。更に不安になって、そこら中をうろうろ歩き回る。

 視線は窓の外、度々起き上がっては家の向かい側にある車道を見た。

 それでも怜は帰ってこない。

 どうしよう。このまま怜も死んでしまったら。

 思い始めたらもう堪らなくなってしまった。涙がほとほと流れて布団を濡らす。頭の中に繰り返しの渋沢の最期が流れ、心がとても不安になった。

 ――あのゴミ捨て場での昼下がりを経験したHONERも同じ苦しみの中にいただろうか。今頃治っていれば良いが……兄が少し離れただけで泣き出す彼女を彼らは今、どうしているか。

 考えごとが頭の中をぐるぐる占拠し、その時突然心臓が鷲掴みされるような感覚に襲われた。


 もう駄目だ、限界……。


 布団を被ったままずるずる引きずり、痛むお腹を抱えて玄関から外に出た。







 それから暫くして。

 もう二時を過ぎた真夜中に。

「おい」

 埃だらけ、蜘蛛の巣だらけの空き部屋のクローゼットの中でしおしおと泣く少年。その肩に誰かが手を置いた。

「……!」

 びっくりして思わず出されたその手を男は片手で受け止め、困ったような笑顔を少年に向けた。

 それは紛れもなく、少年の同居人であった。

「こんな所にいたのか。心配したんだぞ」

 頭を撫でながら言う。大きな手のひらはぽかぽか温かかった。

「……れ、い?」

「怜だぞ」

「怜?」

 名前を繰り返し呟きながら、涙をぼろぼろ零しながらぎゅう、と腹に抱き着く。

 そのまま、初めて大きな声を出して泣いた。


 今まで堪えていた何もかもを吐き出すように、今まで持てなかった何かを取り戻すかのように。


「怖かったか」

 頷く。

「苦しかったか」

 また頷く。

「そっかそっか。やっぱ寂しかったんだな」

 抱き上げられながら言われたその言葉に今度は頷かなかった。でも腕はきつく、彼の首の周りにしがみついていた。

 埃まみれの体を二、三回ぽんぽんと払い、部屋に帰る。


 その日、初めて人に頼ることを覚えた――ような気がした。


 * * *


 テーブルにそのままになっている白米と焼肉野菜炒め。鍋の味噌汁も冷め切っている。

「あらら。ご飯、食べれなかったか」

「ごめん、なさい」

「いやいや、そういう日もあるし。それに食欲無い時は無理して食べない方が良い時もあるんだぜ」

「そうなんだ」

「それで? 今はどうよ」

「……あの」

「ん?」

「……」

「何だ? 遠慮せず言ってみろ」

「……、……お腹、ぺこぺこ」

 怜の服の裾を掴みながら小さく呟いた彼に、思わずガハハと笑ってしまった。

「うう、うう」

「ヒーッ、ヒーッ! って、ああ、わりぃわりぃ! いや、都合の良い腹だなって思ってさ」

「そんなんじゃなくて! その、安心……したっていうか、その」

「ん?」

「何でもない! 何でもない。良いから食べるね」

 顔を合わせないようにテーブルにまっしぐらに向かっていくLIAR。しかしそれを、怜は止めた。


「な、何で?」

「ふっふっふー」

 怪しく笑む一人のおっさん。


「良い機会だし、おいさんと楽しいことしなぁい?」


 少年は思わずぽかんと彼の双眸を見つめてしまった。


 ――、――。


「そんじゃぁ、LIARはご飯をあっため直して」

「分かった」

 彼がレンジにご飯を入れる間に自分は鍋に湯を張り、沸騰するまで沸かす。

「出来たら、どんぶりとレンゲとお箸をご準備ください」

「どんぶり、レンゲ、お箸……」

「それも終わったら焼肉野菜炒めもあっため直し。オーケー?」

「うん」

 流石器用である。効率よくてきぱきと仕事を進め、後は怜の調理を残すのみとなった。

「何作ってるの?」

 怜の体にもたれかかりながらあつあつの片手鍋を覗き込む。蒸気はちょっと被るには熱すぎた。手で熱された顔をこする。

「ははは、内緒。唯、健康には悪いから……悪魔との取引みたいなもんかもねぇ」

「どゆこと……?」

「ふふ。偶にしか出来ない幻の料理ってわけよ」

 わざと曖昧に答える彼に首を傾げることしかできなかった。

 タイマーが鳴る。

「よし、できた」

 手際よく茶色い粉末を片方のどんぶりにあけ、その上からまずはお湯のみを投入。

 かちゃかちゃとかき混ぜ、何かのスープが完成。何やら物凄く旨そうな匂い。

 もう一方のどんぶりでは白いスープが出来上がっていた。ちょっとゴマが浮かんでるのかな? こっちも良い匂い。

「それじゃあ主役の登場です」

 そこに怜は黄色い縮れた麺を投入した。とても良い匂い!

 麺にスープを絡ませる様を、目を輝かせながらじっと見入る。お味噌? みたいな香りが腹を余計に空かせる。二つで全く違う印象を持つこの不思議な料理に思わずよだれが垂れた。

「これ、今日のご飯? ご飯あっためたけど……」

「それも使うよ」

「どういうこと?」

「これねぇ、工夫次第でやべぇのになるんだわ」

「何するの?」

「ふふ……冷凍庫からピザ用チーズと、冷蔵庫から牛乳です。隊員っ、持ってきてくれますかっ!」

「う、うん!」

 大慌てで指定された二つを持ってくる少年。

「これを?」

「味噌の方には、ピザ用チーズを……こうだぁ!」

 瞬間、わしっと掴んだチーズを豪快に茶色い方の料理の上に乗せた。

「ひょえ!」

「それで、塩の方には牛乳を……」

「これ、塩なの?」

「そ。ラーメンって言うんだけど、知らない?」

「初めて見た」

「そりゃぁもったいねぇ人生だ! 一度食ってみようよ、めっちゃウマいからさ」

 こうして味噌×チーズラーメンと塩×ミルクラーメンが出来上がる。ちょっとしたアイディア料理とでもいったところか。

 ポイントは敢えて具は入れないということ。因みに反論は受け付けない。何となくなのである。

 これぞ、エセ・マスター料理人、レイ・オザワ。

「熱いから気を付けろよ?」

「うん」

 湯気がまだ立つあつあつをそっと運ぶ。

「どっちが食いたい」

「味噌!」

「そうかそうか! ほら、どうぞ」

 はふはふと、大きくふいて一気に吸い込む。

 程よく溶けたチーズと味噌の相性は抜群に良かった。味噌の旨味でチーズの味がもっと濃厚になっている気がする。

 ほぐれた少年の満足気な顔に怜の顔もほころぶ。

「美味しいかい」

「おいひぃ」

「こっちも食べてみたいかい」

 興味津々の顔でこくりと頷く。

「じゃ、お口直ししてから食べなよ」

 温め直したご飯をはふはふ言いながらかっこんで、塩の方をちょっと味見。こちらはクリーミーでちょっとさっぱり。

「こっちもうめぇだろ」

「おいひぃ」

「更にはな、食べ終わった後にもお楽しみがあってな……」

「何?」

「このご飯をスープの中にざぼんです! シメはやっぱりご飯だぜ!」

「ええっ! さっき食べちゃった……」

「ガハハ! よそってこい、よそってこい! 若いうちの特権よ!」


 そうしてどんぶりも茶碗も焼肉野菜炒めもあっという間に空っぽになった。

 満たされた腹を抱えた少年が怜の腕に甘えるように寄りかかる。

「今日は一緒に寝ようよ」

「勿論そのつもりだったよ」

 頭を撫でてやると嬉しそうに笑む。


「そしていずれは……ゆっくりで良いから、全てを話してくれよな」


(つづく)

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