ゴミ捨て場-2

 * * *


「ふわぁああーあ」


 大きなあくびを垂れ流しながら雨の中、ビニル傘を差し、ぽつぽつ歩く一人の男。ぼさぼさの茶髪に無精髭、名を小沢怜という。

 今日は朝帰り。一週間程、夜通し調査をし続け追いかけ続け、ようやくオタカラ情報の尻尾を掴んだ所であった。故にめちゃめちゃ眠い。しかもようやく掴めたと思った情報はガセの可能性が高いと来た。

「全くやんなっちゃうねぇー」

 半径数メートル以内の住人全員に聞こえるようなわざとらしいデカい溜息を一つ。しかし誰も慰めてはくれなかった。

「……」

 仕方がない。午前三時なのである。殆どは夢の中だ。

「はぁぁああー。俺っちにも良い出会いが無いもんかしらねぇ」

 ズゴゴと音をさせながらバニラシェイクを啜る。栄養ドリンク代わりにと、お世話になっていたこいつとも今日で暫しの別れ。

 惜しむように飲み干して、コンビニのゴミ箱に突っ込む。心なしかそこの店員も疲れているように見えた。……見えるだけかね。

 そうこうしている間に愛しの我が家――の近辺に辿り着いた。自分のせいなのだがどうしてこう、一階を駐車場の為にくり抜いてしまっただろう。203号室まで距離があり過ぎる。

 元々は捨てられたマンションだった。誰も住まないとのことで、どうにかこうにか金を貯めてここまで改造してやったのだ。こここそ、我が宮殿。ゆくゆくは巨大ロボットにしてやろうとか考えている。――否、やめよう。こうやって疲れて帰ってきた時にコックピットが高い所にあれば自分に負荷がかかるだけだ。なんだ、よじ登らなくちゃ入れない家って。忍者屋敷か。

 そんなこんな、くっだらない思考回路で夜を遊んでいたら、ふと、エメラルドグリーンの瞳が己がマンション前のゴミ捨て場に群がるカラスに集中した。

「……何だ?」

 何かついばんでいるのか? だとしたらとんだ大迷惑だぞ。

 滅茶苦茶に走ってカラスを蹴散らす。意外としつこかったが、根性だけで追い払った。人生の中でこういう時のカラスが一番困る。ゴミは散らかるし、掃除は俺しかやる人いないし。

 また溜息を吐きながら件のゴミ捨て場をまじまじとよく見る。そこにはいつもはない特異なが捨てられていた。

 何だ?

「……でけぇボロ雑巾?」

 遠目であったことも助けて、最初はそれにしか見えなかった。


 しかし、直ぐにその直感の誤りに、そして事態は思ったより深刻であることに気が付く。


 ――子ども!


 買い物袋も傘も放り投げ、雨に打たれ続けぐったりしている子どもの傍に駆け寄る。可哀想に、酷い汚れだ。

「おい、おい。おい! 返事は出来るか。立てるか。そもそも聞こえてるか」

 鼻と口を覆う様に手を被せる。――息が大分浅い!

 瞬間全身をぞわっと寒気が駆け抜けた。普通に過ごしているだけでも寒いのに、

この子はここで一体どれ程の時間を過ごしたか! もっと早くに帰っていればという気持ちとギリギリ間に合って良かったという安堵とがぐちゃぐちゃに混ざり合う。これを俗にパニックとか言うのだろう。

「と、取り敢えず、えっと、えっと、救急」

 震える手で携帯を操作する。


 それを何故か気を失っていたはずの目の前の子どもが止めた。


「やめて」

「え?」

「国家権力の元には連れて行かないで。お願い」

「そりゃ、どういう……」

「お願い」

「だッ、大丈夫。病院行くだけだから。国家権力云々は関係な」

「お願い。どこにも連れて行かないで」


 そこで少年はまた気を失った。

 瞬間見せたその怯えるような瞳の訴えに何か事情を察する。


「……分かった」


 ありがとう、って聞こえた気がする。

 自分の着ていたジャケットで仔犬のように震える彼をきつく包んでマンションの自室に急いで運び込んだ。

 次いで朝三時であるにも関わらず、飲み友達の理科教師、杉田に連絡。この子がこれから着る服と、追加の食糧の調達をお願いした。かかった分はきちっと自分が払うからと電話の前で手を合わせると受話器の向こうから

「明日槍が降る」

と真顔で言われてしまった。

 どうでも良い。降るなら降れ。唯、その槍がこの子に当たらなければ良い。

 風呂にお湯を溜めつつタオルで全身の汚れを拭き取り、ストーブにマッチで火を点け、灰皿の煙草を片付ける。転ばないようにそこら中に積み上げてある本を片付け、機密書類を金庫にぶち込み、軽く掃除。ハウスダストアレルギーとかだと困るので埃の処理は特に入念に行った。ソファで寝かせた子どもがうなされ始めたら抱き上げ背中を叩いてやり、体温を計り、体重を計り、たまごがゆの準備を始める。追加のご飯を炊いて、ねぎを細かく刻み、下準備。卵は米を煮ながらしっかり解けば良い。

 この時点でちらりと時計を見ると四時を既に越えている。

「……」

 追加でバニラシェイクを杉田にお願いした。眠気が襲いかかってくる。


 * * *


「おーい! 二万五千えーん! 二万五千円の男はいるかぁ?」

 挨拶代わりに領収書を引っ提げた男が203号室に入ってきた。門田中学校理科教師、専門・地学の髭である。

 返事が無いのでズカズカ上がりこむとベッドで子どもと一緒に伸びてる。

「死んだ?」

 怜のお腹の上ですよすよ眠る男の子。ぱっと見は仲が良い親子だが、問題は親の方が白目剥いているということだ。

「……死んだかな?」

 頬を突くが反応がない。


『人を拾った! 大分酷い状態だからつべじょべ言わずに今から言うもん買ってひょい!!』


 噛みまくりながらも偉そうに指示しただけあってこの少年の状態はかなり良い。そりゃお疲れでしょうな。

 だが。

「貰うもんはちゃんと貰ってから帰りたいかなー。有給じゃないのよ、この後ちゃんと授業があるのよ。分かる?」

「……」

「バニラシェイク溶けちゃうぞ」

「……」

 無言を貫き通すか? 試しに鼻と口とを塞いで反応を待ったが……野郎、意地でも起きない気だ。

「あーなら分かった分かった。財布ごと貰ってくから」

「何しやがってんだテメェ!!」

 瞬間、体操選手もびっくりの速度でがばりと起き上がった小沢氏! 0.1秒とかいう人間離れの速度で杉田の手の内にある財布を奪い取った!

「あ、起きた」

「あ、起きた――じゃねえんだわ! 俺のお金チャンだぞ!!」

 涙目で叫びながらひい、ふう、みいと数え始める小沢氏。ずっしり思いその長財布には一体いくら入っているのだろうか。

「この守銭奴め」

「せめてやりくり上手と言え!」

 一頻り喧嘩をした後、ぜえぜえ言いながら姿勢を元に戻す。この暑い部屋で喧嘩し続けられる体力など、この中年男性共にはなかった。

「ほれ、まずは領収書」

「ニマッ……おい、これ手数料込みだろ!」

「勿論。大人気教師を無理矢理半休にさせておきながらタダで何でもやって貰えると思うな」

 自分で言うか。思いながらごっくんと言葉を飲み込む。ここにケチ入れて増額されても困る。

 この男にはこういう所があるのだ。妙に自信たっぷりで、どこかキザったらしく、お調子者でいたずら・意地悪好き。また、人の心を読んだり未来を予見したりと不思議な一面も併せ持っている。そこが人気の秘訣だとかなんだとか、でも結局は俺の美貌と魅力の賜物だとかなんだとか、前の飲みの席で聞いたことがあった。

「ハイハイ。じゃあ、二万五千円」

「あ、あきまへんでぇ。お兄さん」

「んだと!?」

「そちら税抜き価格で御座いますぅ」

「ハァ!? 二万七千円とか頭オカシイだろ!!」

「お、計算早い! イイネ!」

「ったりめぇだろ、何年商売やってると思ってんだ――ってそういうことじゃねぇ!」

 本当に! 本当にこういう所!

「それで?」

「話聞けよ!」


「その子はどうしたん」


 不意を突かれて聞かれたその内容に思わず口をつぐんだ。

「朝言ったアレだよ」

「そりゃ分かる。だがなぁ……拾い子をしたのならまずは警察とかそこら辺に頼るべきだろう?」

「だ、駄目なんだ、それだけは」

「どうして? 裏を返せば虐待だぞ」

「だとしても。だとしてもだ……」

「だとしても? 何の理由が」

「この子が嫌がった」

 今は熱にうなされながらも自分の胴を頼りにぐっすり眠る少年の頭を大きな手で撫でてやる。こうして見ると可愛らしいほんの小さな少年だ。それがどうしてこんな目に遭わねばならないのだろう。

「嫌がった? お前の自己満とか怠慢とかでなく?」

「嫌がった。何なら起きた時にでも聞けば良い。きっと同じことを繰り返すさ」

「ふうん? そんなことがあるもんかね?」

 いつの間に淹れたブラックコーヒーを啜りながら杉田がまだ疑わし気に言う。

「あるもんだ。――多分だけど、これが原因じゃないか?」

 それに返す怜が差し出したのは少年の腹を覆う無数の痣。杉田の目が憎々し気に見開いた。

「何だコレ……」

「湯舟に入れてやろうとした時に初めて気が付いた。……骨が折れてないだけ良い方だ」

「むごすぎる。やった奴は人間じゃねぇな」

「……全くだな」

 変な間があった気がする。

 気はしたが杉田は敢えて黙っていた。


 この男にも悲しみが眠っている。


「だから俺はこの子に与えられた苦しみ以上の幸せを与えてやりたいんだ。例え無理でも努力はしたい」

 少年の体を愛おし気に抱き締めながら、目を輝かせ、言う。

「……」

「美味しい物を沢山食べて沢山遊んで、色んな所に連れて行ってやろう」

「……お前が抱える問題じゃない」

「……だが俺が見捨てればこの子はいよいよ行き場を失う」

「だったとしても他人に出来ることは数少ない。お前が誰かの尻拭いをする必要はないし、誰かの罪を代わりに雪ぐ必要もない」

「……」

 少年を抱く男の眉がぴくりと動く。

「社会が用意するサービスを利用する意味とはそこにあるんだぞ、怜。子どもを育てるには馬鹿みたいに金がかかる。お前が食いっぱぐれてしまえばその子に迷惑がかかるんだ」

「……それでも」

「あのなぁ。話聞いてたか? その子どもが死ぬ所を想像してみろ。自分のせいでだ!」

「だとしてもだ!」

 彼の強い語気に肩を震わせた。


「俺の、だから」


 目尻に涙を溜めながら言う彼にしまった、と瞬間的に思った。でも間違ったことを言ったとも思わなかった。

「そうだった。お前は一度決めたら聞かないんだった」

 激励の意味も込めて強めに背中をぶっ叩いておく。

「……何か、情けないな」

「そういう姿は俺にしか見せないんだろ? 俺は得した気分だね」

「……そう言われると損した気分だ」

「何でだよ」

 差し出されたバニラシェイクの蓋を開けてがばっと流し込む。Lサイズをぶっ続けで五杯。

「腹壊すなよ」

「壊さないさ。おいさん、強いもん」

「……そうだったな」

 それじゃあ学校戻るから、と言って杉田が出ていく。

 静かになった部屋にストーブの上のコーヒーポットの湯気が満ち、良い匂いと良い音とがこちらに憩いを誘った。

「お……な……」

 微かな声で何かを言うその目尻を小川が流れた。

 怜は自分の小川を拭い去って布団をそっとかけ直した。


「大丈夫。おいさんが何とかしてみせるから。今度は絶対幸せになれるよう」


 * * *


 杉田がちゃっかり三万持って行っているのに気づき、全力疾走で追いかけたのはその直後の出来事だ。


(つづく)

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