The Rose
今朝、窓辺にカスミソウが生けてあった。コップの水を吸ってみずみずしく、可愛らしく、まるで子兎のように。
「花言葉、知ってる?」
「え?」
隣のベッドに腰かけた怜が微笑を浮かべ、問う。しかしながらそこに関しては知識が浅かった。素直に降参し、答えを求める。
「幸せ」
「……」
「続くかね、今度は」
前かがみになって聞くその声に少しつっかえた。
でも今日はいつもと違う。何故だか確信が持てた気がした。
「きっと、続く」
「……」
沈黙を今度は怜が引き継いだ。
「続くはず。僕が今度は守るから」
「……」
「代わりとか言えば罰が当たるかもしれないけど。どこか似た雰囲気を感じてる」
「希望の花か」
静かに頷く。柔らかな笑みを浮かべるその顔に笑顔がつられた。
「今度は永遠に続くはず」
「そう、だな」
大きな手がまだ少しぼうっとする頭をかき回す。
「お前なら最後に見つけられるはずだ、俺は信じてるよ」
「大げさだな」
「本気だよ」
また笑った。――彼女が来てからこいつの笑みは格段に増えた。
一歩ずつ近づいて行ってるんだ。
……。
「明日が最後か」
「……」
「どうするかは今の内に決めておけよ。今日もおいさん達はお掃除だ」
「どこの」
「良い機会だから外で草むしりするんだ。病人はあんま無理すんなよ」
頭をかきかき部屋を出た。
外でカスミソウの話題が花開く。
明日はピンクローズにするらしい。
* * *
楽しい時間とはあっという間に過ぎるものだ。今日は朝から雨が降っていた。
ピンクローズは傍のサイドテーブルに置かれた。華やかなあの薔薇の香りが鼻腔を包み込む。
朝は目玉焼き、夜は鯖の味噌煮。この内のいくつかはおーちゃんが作ったんだよ、と怜がニヤニヤしながら言う。白飯だろ、と言うと頬を膨らまして怒られた。
沢山笑った。頬に付いた味噌を拭いてやったりする。
――そんな三日目の夜。
「ちー、ちょっと話があるんだけど」
青年が遂に勇気を出す。
「何でしょう?」
「……ちょ、ちょっと隣に座って」
「はい」
明るく返事をして隣に座ってくる。風呂上がり、リボンも付けずにロングヘア―の栗毛が光る。シャンプーの香りに心がおかしくなりそうだったが、何とか耐えて、呼吸を落ち着けた。
彼女の手にその手を重ねる。
息を呑む声が僅かに聞こえた。
「どう、したんですか? LIARさん」
「あの、さ。ちーは、その」
「……?」
「僕、のこと、どう思う」
「……?? と、言いますと?」
「え、あ、それは」
どう、説明しようか。
何となくそう言われるであろうことは予想していたが、いざ目の前で言われるとかなり困る。
「LIARさんは、LIARさんですよ?」
「そ、それはそうだけど……じゃなくて……えっと」
ここで沈黙数十秒。
重ねた手に首を傾げて千恵が本格的に握ったりするからもうヤバイ。
「ちょい! やめろ! 手は握らない!」
「でも重ねてきたのはLIARさんでした」
「そうだけど! でも!」
「あれ、手を繋ぎたかったんじゃなかったんですか?」
「そういう事じゃなくてだな!」
「んん?」
「あ、その、だから」
「んんん……LIARさん今日何か変ですよ?」
「な、何が」
「何がって、全体的に色々らしくないです」
「……」
無垢なる瞳がこちらをじっと覗き込む。見つめられる時間が長ければ長い程、息はどんどん苦しくなった。
拳を握って汗だらけの額を拭う。
彼女の目の先を真っ直ぐ見た。
「ちー。僕らの所においで」
「……来てますよ?」
「そうじゃない。僕が言ってるのはずっと、のこと」
「ずっと」
「犯予なんか辞めてこっちに来てって言ってる」
そこで初めて千恵の目が見開いた。
青年が彼女の手を取る。
「ちー、アイツらはとんでもない奴なんだ。――いや、違う、皆良い奴だよ、多分。だけど、その……委員長に限って言えば別なんだ」
「……」
「アイツ、自分の為に人を集めて自分に都合の良いように動かしてる。都合が悪ければ記憶も消すし、命も消す。心だって壊してくる!」
肩を抱き、訴えかけてきた。
「アイツに心なんてもの無いから、心のある奴のことが分からないんだ。どんなことに誰が傷ついて、誰が悩んで、誰が苦しむか。考えることもせず結果ばかりに飛びついて……それで『幸せのシナリオ』とやらを完成させる気なんだ。――お前の仲間の皆川剛のことだって、お前達が追ってる殺人の被害者の張本倫太だって、皆アイツの計画の為に潰された!」
「で、でもそんなの根拠が」
「僕は怪人だ」
「……」
「分かってしまうんだよ」
瞳が揺れた。
「アイツの配下に居る奴らがどんな目的であそこに集まったかは知らないけれど、アイツの意志に同調しているなら……残念だけど僕はそいつらのことも信用できない」
「……」
「でも、変わった」
「お前が変えたんだ」
千恵の瞳が悲しく揺れる。
「なぁ、ちー。……苦しいけど言うよ」
高鳴る鼓動も何もかもを押さえて彼女を見つめた。
「僕、お前を守りたいんだ」
「……」
「以前死なせてしまった妹がどうしてもお前に重なる」
「妹さん」
「お前があの日、引き出しの中から見つけたスケッチ。あそこに描いてあったのが妹だ。妹も兎が好きだった。あのぬいぐるみは僕が誕生日に買ってやったやつだ」
「……」
「名前はHONER――お前みたいに真っ直ぐで正直な、栗毛の女の子だった」
時がぴんと糸を張ったように静かに流れる。
「……分からないです」
「目の前で死なせてしまった。助けないといけないって、躍起になってた。でも命は一度失われればもう二度と帰ってこない。それが世界の掟、絶対的な約定だ」
「……」
「HONERはもう帰ってこない。――でもお前はまだどこにも行っていない」
「……」
「だから、このまま帰らないで居て欲しい。ずっと一緒に居て欲しい」
「LIAR、さん」
「僕にはこのチカラがある。『革命の神より与えられし天使の力』が。それに怜は射撃の天才だし、情報屋としての腕もかなり立つ。とっても強いんだ」
「それは分かってます、全部」
「僕らなら十分守れる。――このベッドだって! 妹を助けた後の為に用意していた物だから、千恵が使ったって良いんだ。昨日までみたいに」
「……」
沈黙が濃く、迷いは激しく。心が揺れ動く音がした。
「お前が好きなんだ」
堪らなくなって抱きしめる。
もう他人ではない、この少女は。
まるで自分の一部のような。
「だから、だから……アイツの元へはもう帰らないで。鳥籠の中にずっと、居て。ここが一番安心だから」
意識が頭から離れたような感覚に襲われ、気付けば彼女をベッドに押し倒していた。自分の直下にいるあの子兎を。
守ってやらねば、守ってやらねば。
「LIARさん」
「好きなんだ」
確かめるように繰り返して、それから覆いかぶさった。
* * *
「やめてください!!」
当然受け入れて貰えるものだと思っていた青年が次に気付いたのは衣服の乱れた少女の手が自分を拒否した、まさにその瞬間だった。
まだ彼女の首筋がてらてらと光っている。
「ちー」
「LIARさん、私、身代わりじゃないんです」
がつん。
音を立てて心が殴られた。
「私、犯罪予備防止委員会から抜けることはできないんです」
「LIARさんの期待には応えられないです」
「私、だめなんです」
「だめなんです」
「怖いんです。痛いんです」
「ごめんなさい」
立て続けに言われたはずの言葉が細切れになって響いてくる。
時間は既に大分ゆっくりになっていた。
世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
「でも、ちー」
「あなたは、私自身を見ていない」
「そんなこと」
「ごめんなさい……!」
「……、……何で、どうして」
「育ててくれた委員長を、私、裏切れない……」
「裏切るとかの問題じゃない、だから、さっきから言ってるじゃないか! 良いように扱われているんだよ!」
「そんなの分かんない!」
「分かる! 僕は怪人だって言っただろう! アイツは……アイツは妹を殺した!」
「違う! 聞きたくない!!」
「聞いて、事実なんだよ! そこで耳を塞がないで」
「委員長をこれ以上悪く言わないで!」
初めて聞いた彼女の叫び声に目の前が真っ黒になっていく。
何かが、崩れ落ちていく。
『お兄ちゃん』
ふと振り返った先に居た、彼の妹。
恨めしそうにこちらを睨むその顔に少しずつ頭が冷静になってきた。
呼吸が、呼吸が。
シーツに藍色の液が零れ落ちる。涙のように、「嘘」が双眸より流れた。
泣きたくても泣けないのか。
目の前で少女はこんなに透明な雫を落としているというのに。
「ちー、待って!」
「さよなら!」
伸ばした手に
「ぉわっと! おーちゃん!? ちょ、おーちゃん! 雨……」
玄関先で怜と彼女がぶつかるようにすれ違い、彼がそれを追いかけた。
真っ暗な部屋で、誰も見ていない部屋で心の底から涙がわいてくる。
彼女が唯一残していったリボンを左腕に巻いた。伴って我慢していた全てがとめどなく零れ落ちた。
傷跡を隠すように、きつくきつく巻いて。隠したくても。
少女の涙も雨に混じって、最早どれがどれかも分からない。
大口を開けて雨でも飲むような姿勢で泣きじゃくる。
彼女の頭を支配していたのは混乱、動揺……色々だった。何も分からない、唯一つのその気持ちを胸に爆弾のように抱えながら。
すれ違い。
愛って、痛い。愛って、怖い。
初恋が、苦く、不味く終わる。
* * *
「なあ、LIAR。おーちゃんに何かした――」
部屋に帰ってきた彼の目に真っ先に飛び込んできたのは、ギラリと鈍く光る刃物。
飛び込んだ。
「離せ、怜!」
「嫌、だ!」
「やめろよ、死なせろ!」
「絶対に認めん、絶対に認めんからな!」
「お前の命じゃない!」
床に倒れ込みながら、擦り傷や切り傷を作りながら二人は揉み合った。
「僕なんか、いなけりゃ良い! 僕がいるから皆が不幸になる!」
「んなわけあるか! 俺は幸せだわ馬鹿!」
「僕は人殺しだ! 人でなしだ!」
「絶対違う!」
「嘘だ、嘘嘘! 嘘!! そんなのみんな、嘘だ!!」
「違う!!」
「嘘だ!! お前だって、ニセモノの癖に!!」
その時、手が滑った。
怪人の手に確かな手応えが、あった。
目の前の男の体勢が崩れる。
頭が急に冷えた。
あ。
あああ。
僕は、また、また――。
また!!
「ああ、あああ、ああああ!」
自己嫌悪に陥る。
もう、もう今度こそ何もかもが嫌になった。自分のせいで周りがどんどん不幸になっていく。実証がどんどん現れて、自分の首を絞めてくるようなそんな感覚に耐えきれず、もうここに居たくなかった。
しかしパニックに陥ったその体を怜はずっと、強く抱き続けた。
背中をさすりながら、さすりながら。
「大丈夫、大丈夫だから。怖がらなくて良い。俺は死なないから」
足元には赤茶がずわずわと広がり続けている。
「はあ、はあ、はあ……」
「大丈夫、大丈夫だから。信じて、俺は死なない」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「大丈夫。大丈夫。俺は死なないよ。おいさんは、強いんだ」
背中から力尽くで刃物を抜き、壁に向かって投げた。次いで万能薬を左手で無造作に掴み、背中の傷にぶっかける。
全て、声を押し殺して行う。目の前の怪人を不安にさせるわけにはいかなかった。
「ほら。おいさんは死んで、ないだろう」
「……」
「だから安心するんだ。お前は誰も殺してなんかいないよ、俺も居なくならないよ」
改めて彼の体を抱きしめ直す。大分速度の速い鼓動を胸に感じたし、体はぶるぶる子犬みたいに震えていた。
体はこんなに成熟したのに、心はずっと昔に取り残されたまま。自己中心的でちょっと人付き合いが苦手な子どものまま。
でも見捨ててはいけない。
どんなに周りの者が馬鹿にしたって、見下してきたって、彼のことはずっと抱きしめていなければならないし、慰め続けなければならない。
「出来るなら思い出したくなかった、こんな事……」
「うん、うん」
「もう僕はお終いだ」
「まだあるよ。一緒に探そう」
「もう無理だ」
「そんな訳はないだろう、まだ当初の予定が残ってる。完璧なタイムマシーン完成まで、あともうちょっとなんだろう?」
「あんなもの、完璧とは言えない。二番煎じだ」
「大丈夫だってば」
やがて疲れ果てて眠ってしまった彼に、雨音を伴奏にして歌を歌ってやった。
昔々はこんな風に自分を酷く責め続ける少年だった。最近は治ってきたように見えたが、違った。隠されていただけだったのだ。
『The Rose』
そんな彼を少しでも癒やせないかと歌い続けていたのが、この歌だった。
怜の顔に決意の色が浮かび上がる。
(つづく)
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