夢のひと
目が覚めると家、だった。――違う、正しくは昔の家。
ガラス窓に雨が絶え間なく打ち付けて白く曇り、窓辺のピンクローズは一輪、ほんのりしおれていた。
「いーち、にーぃ、さーん」
「もういいかーい?」
暫く待っても返答はなかった。もう一度聞いても返答はなし。
痺れを切らして遂にさる人を探し始める。
リビングにはいない。ソファの下も机の下も、椅子の下も。
カーペットの下にもいなかったし、ゴミ箱の中にもいなかった。――何故か彼はゴミ箱にいる気がした。でなければ外のゴミ収集所?
そう思って玄関まで行ったら
「今日は大雨の日なので外に出てはいけません
-Raymond.」
と書いてあったのでやめた。彼もこれは守る。じゃないと反則だって分かってるし、私が泣くこともちゃんと分かってるから。
それに雨や雪の中ではお父さんもれいれいも探しに行けないこと、ちゃんと分かってるから。今はどうかは分からないけど。
……。
キッチンにもいなかった。洗面所にもいなかった。
一階は諦めて二階へ上がる。
そこで思い出した。彼がよく隠れる場所!
「クローゼットだー!」
自分達の寝室に直行して、木のクローゼットを思いきり開けた。
――しかしそこに広がっていたのは無機質な研究室。
「お兄ちゃん?」
突然かき回された水の中の砂つぶのように。
不安が広がる。
足を踏み入れると、それに合わせてどんどん砂や泥が水の中でかき回されている気がした。
「お兄ちゃん……」
返事がない。外では雷がゴロゴロ言っている。
大きな音は苦手。怖い。
「お兄ちゃん!!」
「お兄ちゃん!! 出てきてよ!!」
その時、後ろから何か変な音がした。
ずる、ずる。ぐちゃぐちゃも混ざったような。
突然恐怖が小さな胸を底から押し上げて、身動きが取れなくなる。
しかし「それ」は確実に自分に忍び寄ってきていた。
「おー……ちゃん……」
誰。
いや、知っている。この声は、この声は。
「やめて」
「おー……」
「来ないで」
足元に粘性のある赤茶の液体がずわずわ広がる。それでもそちらは見れず、少しずつ距離を取る。
「おー……なー……」
「来ないで!」
「おーちゃん!」
叫んだ瞬間若い茶髪の男が自分を抱き上げた後、大きなカプセルトイのような機械の中へつっこみ、全面ガラス張りのドーム状の蓋を閉めた。
「待て! 動くな!」
「希望の花を渡せ!」
茶髪の男は向こうの操作盤を弄り、自分の方へは黒髪に丸メガネの若い男が来た。背景はずっと騒がしかった。
「良いかい? おーちゃん。LIARという男を探すんだ。彼が――」
――ドン!
「イヤアアアア!!」
頭に風穴の開いた男のおぞましい体が自分のいる機械に張り付く。
本当に恐ろしくて恐ろしくてうずくまってガタガタ震え続けた。
「お兄ちゃん助けて、お兄ちゃん助けて、お兄ちゃん助けて……」
ずっと自分を自分で抱きしめ続けたがあの顔が張り付いて離れない。
お兄ちゃん、お兄ちゃん!
直後、二発の銃声が聞こえ、次いで誰かが倒れる音が二つ。
ばたばた足音が聞こえ、機械音も聞こえた。
でも何が起きているとかはどうしても確認できなかった。
何だか食べられてしまうような気さえした。ずっと怖かった。
暫くしてまた大きな音がして、体が強い力に引っ張られ、頭にガツンと強い衝撃が来た。物凄い力で殴られるようなその痛みに、また別の記憶が蘇ってきそうで頭が混乱した。
「おーちゃん。彼はね、君のお兄ちゃんであり、
「うん!」
あの時の記憶が、あのひとの零した笑顔が。
「もう、大丈夫。何も怖いことはない」
そんなことの為に支払われた代償が余りに大き過ぎた。
気を失う直前にふと視界に現れたその後ろ姿に懐かしさを覚え、手を伸ばす。
――そこで、目が覚めた。
目尻から小川が流れた。
* * *
クローゼットの奥から「紫の怪獣ロングパーカー」が出てきた時、千恵の喉は思わず音を立てた。彼のそれより大分サイズが小さいが、デザインだけ取り上げれば同一物に相違なかった。
すっかり忘れていた。ここにしまっていたのだ。
だけど何故? そこだけがどうしても思い出せない。
答えを導き出す為には彼に直接会いに行かなければならない気がした。
一瞬、出入り禁止の通告が頭をもたげるが、最早それさえ二の次だった。
何か胸騒ぎがした。
鍵をかけることさえ忘れて勢いよく飛び出す。
葉の生きる真夏のにおいや、草刈りの後の緑の濃いにおいが湿って重たい空気と共に体に張り付いてきた。振り払うのも忘れてひたすらその場所を目指す。
汗が通り過ぎ、ロングパーカーはずっと重たく、暑苦しく、どこか彼の体調を思わずにはいられなかった。
あの夜、嘘を飲み込んだ彼は元気か。こんな暑苦しい物をずっと着込んで、具合は悪くならないのか。あんなにぶちのめされて、今頃どうしているか。
道に迷った時は少し焦ったし、自分がいつも通っていた道が工事の為に通行止めになっていたりすると余計苦しくなった。
そうこうしている間に目当てのマンションに辿り着く。相変わらずこの駐車場には車が多い。――しかし
構わず階段を駆け上がり、目当ての203号室目がけて突っ走る。
「LIARさん! LIARさん! いますか! 返事してください!」
……応答がない。
だが構わずノックを続けた。こうしていれば彼は嫌でも出てきてくれる。いつもそうだったから。
これでもしも元気そうだったらショートケーキとチョコケーキとモンブランとクリームソーダとシュークリームとうさぎさんケーキをご馳走させてやる!
「LIARさん! LIARさん!」
あっ! まだ足りない! ソフトクリームとパフェも追加で!
「おーい、聞こえてますかー! LIARさん! 居留守したって分かりますよ! 気配がしますよ! ソファら辺で寝てますよね!!」
まだ足りないか!! それじゃあチョコバナナパフェと高級フレンチも追加にしようかな! ――そろそろ自分のお財布の危機を察して出てきてくれないかな!
そうやって願ってもノックを繰り返してもどうやっても出てこない。そろそろくたびれてしまった。真逆出入り禁止のこととかずっと言っていたりするのだろうか。
「LIARさーん……いい加減疲れちゃいました……早く出てきてくださいよー……突破しますよー」
脅迫しても向こうに変化がない。足音も聞こえなければ焦った様子も感じられない。余りに変化が無さ過ぎて逆に不安になってきた。
「LIARさん? 入りますよ?」
言いながら慎重にドアノブを捻ると――いとも簡単に開いた。
不安が益々つのる。
「LIARさん? 不用心ではないですか?」
心臓の辺りを握りしめて、慎重に部屋の中に入った。
「LIARさん?」
そうしてソファの腰掛にもたれかかるようにぐったりしている青年を見つけることとなる。
「……LIARさん!!」
――、――。
「どうしましょう、え、どうしましょう! LIARさん! しっかりしてください、LIARさん!」
肩を揺すれど、叩けど反応はなく、うつ伏せになっていた体を起こすと口元から粘性の高い藍色の液が伝った。時折口の中でこぽ、と音がする。
「『嘘』が何か悪さしてるんだ、きっとそうだ!」
顔を下に向けさせ、背中を叩いたり、口に指を突っ込んだり。しかし指に液が付いて糸を引くだけでどんどん顔色は悪くなる。息さえ微かだ。ふと周りを見渡せば薬の瓶がごろごろ転がっていた。
一気に血の気が引く。
「LIARさん!!」
泣きながら体を揺らした。真逆こんなことになっているなんて、どうして気付いてあげられなかったのか。悔恨の意で惨めになるわ、苦しくなるわで、本当にしんどくてしんどくて。パニック発作が止まらない、混乱で頭がいっぱい。本当に、本当にどうすれば良いのか。
息はしているか。
もう死んじゃったのか。
どうして反応してくれないのか。
何でこんなになるまで我慢していたのか。
分からなくて分からなくて、もうどうしようもなくて。
泣くしかなかった。彼の体を抱き、怜の名前を呼んで泣いて、助けを求めるしかなかった。
それを仕事から帰ったばかりの怜が聞きつけたのは少しく経った後。
「おーちゃん!」
「れいれいさん、どうしようどうしよう、LIARさんが死んじゃう、LIARさんが死んじゃう! どうしよう!!」
「大丈夫。大丈夫だから」
泣いて喚く、パニックの千恵からその体を受け取った。
「れいれいさん、れいれいさん! 彼はどうなるんですか!! れいれいさん!!」
「落ち着け、落ち着くんだ。絶対大丈夫。飲み込んだ『嘘』がキャパオーバーして気管を塞いじゃっているだけだ」
「塞いじゃってるだけって……重症じゃないですか!」
「そ、それはそうだけど……今は時間がないから。兎に角おーちゃんはあっち行ってなさい」
「嫌です! いやいやいや、嫌!! 離れたくない!!」
「じゃあそっぽ向いてなさい。ちょっとグロいことするから」
「嫌です!!」
「お願いだから。これだけは守って」
「……」
涙をいっぱいに溜めながら、後ろを向く。
「おへそごと後ろ向いて」
「……」
しぶしぶ従った。
しかしちょっと見てしまった。
うつ伏せになった彼に馬乗りになって、うなじに手を突っ込み、傍に用意した洗面器に「嘘」をどんどん移していく。
そしてそれを――飲んだ。
ちょっと目を見開いたが、見たことは黙っておいた。
「終わったよ」
暫くしてかけられた優しい声に体の向きを直す。
怜の腕の中でLIARはすよすよと寝息を立てていた。
安心して彼の体を強く抱きしめる。
「良かった、良かった……良かったです、LIARさん」
何度も繰り返した。
* * *
電灯が仄明るい午後七時。
203号室のキッチンから美味しそうな匂いが漂ってくる。
「落ち着いてきたか」
目の前に湯気が美味しそうなマグが置かれる。LIARが千恵専用にと買ってくれた兎のマグである。あのコップを契機としてこの部屋の兎グッズはどんどん増え始めた。今では怜の私物にまで影響を及ぼしている。彼の仕事カバンの茶色いビーズの兎はそれが原因だった。
「……まだ事態の整理が出来てません」
「だよな。急だったからな」
「……」
「大丈夫。作者も急すぎて自分で驚いてるから」
「……メタいですね」
「どうだい、ちょっとは気分マシになったかな」
「……」
少し口元に笑みの浮かんだ千恵の背中をさりげなく撫でてやった。気分が落ち着いていく。マグの中身ははちみつミルクだった。
「LIARさんは今は」
「見てきても良い。ぐっすり寝てる」
「良かった」
「寝よだれも垂らしてるかも」
「……写真撮ってきます」
「後でくれ」
きぃ。
カシャ。
「で、どうしてこうなってしまったんでしょう」
「百パー俺の『嘘』のせいだな」
「あの夜の?」
「そう」
「でも、何で今なんでしょう?」
「それがさぁ」
何でもあの時「嘘」を飲まれてからというものの、全然会ってくれないのだそうだ。ノックをしても出てくれないし、いざ出会えても目を合わせてくれない。
「俺が行くと鍵かけちゃうし、合い鍵作ってもすぐ鍵変えちゃうし」
「そうなんですか!?」
「パパ悲しい」
「ふーむ。困ったさんです」
「ずっと心配はしてたんだけど、会おうとすればする程心閉ざしちゃうからちょっと放っておいたんだよ」
「ご飯は」
「飯は食う」
「ああ、飯は食うんですね」
「少しだけどな」
「それでも食べてくれるなら良いじゃないですか。それ聞いてちょっぴりほっとしました」
「な。梅にぎりを部屋の前に置いたらさ、次はツナマヨにしてくださいってメモに書いてあんの。おかしいやら腹が立つやら、訳分からん感じ」
思わず吹き出す。会わない理由が愈々分からないが、二人の関係性が知れた気がしてどこかほんわかとした気持ちになる。
「ま、兎に角だ。おーちゃんがいなけりゃどうなってたか分からん。本当に助かった、ありがとな」
「い、いえいえ」
「そこでさ。おーちゃん、折角だから飯でも食ってくか? 今日はオムライスの予定だったんだが……LIARが急にたまごがゆになっちゃったからちょっと余っちゃうんだよ」
怜の笑みに千恵の笑顔がぱっと花開く。
「食べたいです!」
「その代わり、手伝えよ?」
「何すれば良いですか?」
「まずは卵を割ってく――ちょっと待て。早速卵が潰れてるのはどういうことだ」
「あれ」
(つづく)
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