予感
「動くな」
瞬間自身の首に回された左腕と顔の付近でギラギラと光る刃に千恵は思わず息を呑み、汗を流した。
LIARである。
「何をしていた」
千恵の心臓が早鐘を打ち始めた。
「な、何って……えっと……」
「何にも触れるなと言ったはずだ。手に持ってる物を元の場所に置け」
「え……」
「良いから置け!」
今まで見た事も無いような剣幕に思わず恐怖を感じ、手にしていた物をそっと置いた。
ちらりとUSBメモリに目をやると、とっくの昔にライトの点滅は終わっていた。しかし、状況が状況である。手を出せない。
こんな事になるのなら、もっと周囲に注意してさっさとUSBメモリを抜いておくのだった。
しかし、悔やんでももう遅い。
千恵が引き出しに先程の二つを戻したのを一瞥してLIARはナイフを持った右手で荒々しく引き出しを閉めた。
「そんな……公衆便所とか行ったんじゃ……」
「訳ないだろ。いつもよりすらすら喋って、しかも強引にコーヒーを勧めてくる奴の言葉を僕が簡単に信じるとでも思ったか」
「でも、確かに全部飲んで」
「解毒剤を混ぜた。後は能力で演技すればどうにでもなる」
「解毒剤なんて……そんな、結構強力な薬のはずです!」
「まだ現実が見えてないんだな」
左腕に力を込め、逃げられないようにしてから机の上に散らばる砂糖――いや、解毒剤の袋を手に取り、彼女に見せつけた。
表面には見慣れぬアルファベットの文字列と「XXXX/07/31」と印字してあった。
「前々から言ってるよな。2XXX年製の物とXXXX年製の物とでは技術力が違うって」
その言葉に何か引っかかるような聞き覚えを感じる。
『この隈じゃあねえ……XXXX年製の薬が効かないわけがない』
『XXXX年です。今からざっと500年後ですかね』
二人の滑らかな口の動きが脳裏をよぎり、身震いせずにはいられなかった。
「ま、真逆……LIARさんは……未来――」
「良いから黙れ」
そこまで言いかけたが、彼の突きつけたナイフに阻まれた。
「何をしでかしたか確認する。……場合によっては、そちらさんに復讐しなきゃいけなくなるだろうな」
「そ、そんな……!」
「黙れ! ……あんたは良い人質になるだろう。何せ、委員長さんのお気に入りなんだからな」
「い、嫌! 誰か――!」
「それ以上喋るな!」
彼女が口を動かす度に、喉元に刃先が突きつけられた。鋭く尖った先端がチクリと彼女の肌を刺激する。
すぐ近くで喉の奥から愉快そうに押し殺した笑い声が漏れた。
「――ホラ、外に聞こえるだろ? 取り敢えず、両手を前へ出せ。早く」
忘れていた。
彼は犯罪者だった。
体がガタガタと震えた。
呼吸が自然と早くなる。
涙をぽろぽろ流しながら両手を前へ出す。
先程千恵が引き出した引き出しの隣を引き、中に入っていた結束バンドを巻き付けた。
部屋の隅に連れて行かれ、足首を縛られ、猿ぐつわをかまされ、柱に縄で括り付けられながらも彼女の視線はコンピュータに挿しっぱなしのUSBメモリから離れなかった。
あれだけが気がかりだ。
幸い彼はまだそれに気付いていないようだが、気付かれたら最後、どうなるか分かったものではない。
修平達の努力が水の泡になるばかりではない。彼らの命が狙われる可能性もあるし、何より自分自身が張本倫太と同じ運命を辿る事になるかもしれない。
声にならない呻きをあげながら泣くほか何も出来ない自分の無力さに胸がいっぱいになった。
「大丈夫、飯はちゃんとくれてやるさ。最低限の世話もしてやる。それに大人しくしていれば酷い事はしないよ――まあ、場合によるだろうがな」
こちらにナイフを向けながら、嘲笑を浮かべる彼がタンスに近付いていく。
必然的にUSBメモリとの距離も近付いていく。
――ダメダメダメダメ!
必死に声をあげようとするが、空しい小さな母音の連続が喉から漏れるだけである。
取り敢えず彼をコンピュータに近付けてはいけない。足で床を叩き、出来る限りの大声を出してじたばた暴れた。
これが彼女に出来る最後の抵抗だった。
彼がタンスの方を向く直前にこちらを見て大げさな舌打ちをした。
「外に聞こえるっつってんだろ! 喉笛かっ切られたいか!」
苛立たしげに千恵の元に歩み寄る。
絶体絶命。
逃げるようによじらせた体を、肩を掴んで強引にこちらへ向けさせた。
「どうやら教え込んでやらんと分からないようだな」
ナイフが日の光を反射して鈍く光る。
「うぅ……!」
「どこから切られたい?」
陰鬱な興奮を顔に宿らせ、彼は千恵の体をじろじろと見回した。
「取り敢えず、足か」
足を鷲掴みにしてナイフを振り上げる。
千恵は思わず手で顔を覆った。
――その時だった。
「千恵に乱暴するな!」
荒々しい音を立てて玄関の扉が勢い良く開かれ、何者かがLIARに飛びかかった。
「うわ!」
反動でナイフが手から零れ、向こうの方へすっ飛んでいく。
「何だテメェ!」
「竹下海生だ! 覚えとけこの犯罪者!」
「邪魔だこの野郎!!」
「うぅうう、ぐるるる! ガウッ!」
「あーだだだ!!」
もみくちゃになって暴れ回る二人の傍に剛が音もなく忍び寄り、
「失礼します」
と小さく言った。
瞬間、うなじに衝撃が走りLIARの体が崩れ落ちるように床に突っ伏した。
「千恵、大丈夫ですか? すぐに拘束を解きます。少しじっとしていて下さいね」
LIARが握っていたナイフで剛は次々と彼女の体を縛り付けていた物を次々と切り離していく。
「皆川先輩!」
「よく頑張りましたね、千恵」
「ううー!」
全ての拘束が解けた瞬間、彼女は剛の体に抱きついた。
それを優しく抱きとめる。
「ぐるるるる、がるるる!」
「カイ、それ位にしておきましょう。犬じゃないんですから」
LIARの体を縄で縛りながら剛が言う。
「皆川先輩、どうしましょう?」
「暴行、監禁罪にあたります。警察には私の方から通報しておきました。ただ、このUSBメモリがちょっと厄介です。何せギリギリアウトなので……」
「ああ……」
「そう言う訳なので情報屋に後処理を頼んでおきました。私達は今の内に逃げましょう。さ、早くUSBメモリを抜いて下さい。カイ、行きますよ」
「ぐるるるる!!」
「……」
剛はまだ犬から人間に戻り切れていない海生を肩に担ぎ、千恵を庇いながら部屋から大急ぎで脱出した。
LIARはまだ目を覚まさない。
「それにしても、どうして分かったんですか?」
走りながら千恵が二人に聞く。
「何が?」
「私の危機です」
「あぁ……」
それを聞き、ちょっと気まずそうになる。
「……? どうしたんですか?」
「……ごめん」
剛の肩の上で海生が恥ずかしそうに言う。
「何がですか?」
「襟の下」
「襟の下?」
千恵は走りながら自身の襟の下をまさぐる。ふと、小さな物が指先に当たった。
「何ですか? これ」
「盗聴器……」
「盗聴器!?」
「作った……」
「作った!」
「悪い意味で使ったわけでは無いのだけれど、その、心配で……」
いつも彼と会うのを楽しみにしている彼女の様子が気になって仕方なかったという言葉を喉の奥に留める。
恋心は時に人を暴走させる。
「えっと……」
「助かりました! こんな事まで予想してたんですね!? 流石です!」
何と弁解すれば良いか必死に考える海生の言葉を、瞳を輝かせた千恵が遮る。
思わずきょとんとしてしまった。
「……!」
「ありがとうございます、海生さん!」
「……」
「……海生さん?」
予想外の彼女の返答に真っ赤になって撃沈している。
「照れてるだけですね」
「煩いー……」
「可愛いですね! 海生さん!」
「……」
何も言い返せない。
「ところで、千恵」
「はい、何ですか?」
「今日は散々でしたね。危うく傷付けられる所でした」
「ああ、そうでした」
少し表情が曇る。
「これから、どうしますか?」
「何をですか?」
「彼の調査です。トラウマになってしまったら、負担になってしまうのではないでしょうか?」
「……意外と大丈夫です」
心配そうな剛をよそに千恵は意外と元気に答えた。
「大丈夫なんですか?」
「ええ。以前もっともっと大変な目にあったこともありました。確かに怖かったですが……」
「ですが?」
「LIARさんの調査はやっぱり私にしか出来ない気がするんです」
千恵の脳裏にあの縫いぐるみとスケッチが浮かぶ。
それを見た瞬間彼女は小さな時から何故だか彼を追っていた真相に少し近付けた気がした。
理由は分からない。
しかし、確信はあった。
「予感がするんです」
剛は確かに見た。
その横顔が恐怖を乗り越え、その先に希望を見出す瞬間を。
「本当に強くなりましたね、千恵」
その言葉を受け、嬉しそうに笑う。
仲間達が待つ役場はもう目の前である。
* * *
その日の夕方。
部屋に一人の男が入ってきた。
「ばぁーか。今回はお前が悪いぞ。少しは冷静になれよ」
「……」
「そーゆーとこだぞ」
不服そうに眉間にしわを寄せるLIAR。
後ろ手に縛っていた縄を男が解いた。
「ただでさえ変な組織に嗅ぎ回られてんだから、大人しくしなきゃ駄目だろうが。警察は俺がなんとかしといたから。これ以上変な真似はするなよ? ただでさえ、一つ過ちを犯しているんだから」
「……ありがとう」
縄目の跡が未だに色濃く残る手首をさすりながらLIARはぼそりと呟いた。
「お前も素直になれるんだな」
「……」
「一応言っとくが、あいつら、あんたの宝物を壊そうと思ってた訳じゃ無さそうだぜ」
「……知ってる」
「寧ろ、助けてくれるのかもな」
「……、……知ってる」
そっぽを向きながら受け答えする彼に男は肩をすくめた。
「前言撤回。やっぱ素直じゃないや」
夕日が山の向こうに身を隠す寸前、瞬間、その輝きを強めた。
その光が男――小沢怜の顔を照らす。
「早く仕上げて助け出そうな。希望の花の事」
「分かってる」
LIARが徐に前を向き、またぼそりと呟いた。
その瞳には光が宿っている。
(つづく)
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