□教会にて


 銀のナイフが、ようやくその美しさを取り戻した。


 僕は、とうとう八枚目となった、白い布巾を床に置いた。他の七枚は、ナイフを磨きあげる途中で、すっかり汚れてだめになってしまった。僕はナイフの根元から先っぽまでを、止めることなく、一息に拭き上げる。まだタンパク質の汚れからくる曇りは残っている。まだ作業は終わりではない。この後に、目が細かくてやわらかい、上質なナプキンで、金属についた水分をふきあげなければならない。刃を布で挟んで、指に均一に力をかけ、拭き筋が残らないように、きゅーっと磨き上げるのだ。そうすると、元の輝きを取り戻す。肉を正確に切り分け、膜を通り抜けるナイフだ。それは、また別の誰かが握って僕を傷つけることになる。

 僕はきゅうきゅうとナイフを磨き上げながら、でも、少し残念にも思っていた。ナイフから、君の痕跡が消えてしまうことについて。ナイフからは、もう血のにおいがしない。このナイフが完全に輝きを取り戻したとき。それが、僕の中から君がいなくなるということだった。傷はもう、右手の穴以外は塞がっている。傷もなくなり、痛みもなくなり、君を思い出せる物的証拠がなくなってしまえば、きっと僕は、君のことを思い出せなくなってしまうだろう。僕は、僕の中のリストに、君の名前を書き付ける。場所はもちろん、「K」さんのとなりだ。君は絶対に嫌がるだろうけど。

 僕は白い布巾を床に置いて、ナイフを一度、取っ手から頭までを水に浸した。これから、仕上げに入る。新しい、九枚目の布巾をおろし、水分を慎重に拭う。指紋がつかないように、注意深く。取っ手を拭き上げたら、今度は刃に当てる。布巾はしっかりと乾いていて、その粗い繊維の隙間に、水がぐんぐん吸い込まれていくのがわかる。僕は刃先まで拭き上げると、今度はナプキンを手に取った。縦糸と横糸が綿密に織り込まれたそのナプキンは、いっとう上等な物だ。ご婦人の柔らかい肌を傷つけないように、布でありながら、水のようにとろけるようなさわり心地がする。僕はナプキンをひろげ、そのナプキンに一点のしみもないことを確認すると、また折りたたんだ。そして、また取っ手の方から拭き上げる。こうすると、ナイフの表面は均一に平らになって、バランスよく光を跳ね返すようになる。まぶしいほどの白い輝きを取り戻す。やわらかくなったバターを切り分けるみたいに、すんなりと肉に刺さるようになる。とても、大事な作業だ。

 そうする前に、僕は一度、銀のナイフからも、上等なナプキンからも、手を離した。作業が長時間にわたったせいで、手足がひどく、しびれていた。氷でもあてていたように、とても冷たい。手足の感覚を取り戻すために、僕はぶらぶらと両手を振った。そうすると、関節が柔軟になって、潤沢に血が通い出し、手足は温かさを取り戻す。僕は、手を閉じたり、開いたりをくりかえす。目も、何だかちかちかするような気がする。これからの作業はあまりやり直しをしたくないので、その前に、僕という媒体を調整しておく必要があった。

 僕は首をぐるりとまわした。右に三回、左に三回。ついでに、ぐんと伸びをする。そうして、固まった筋肉を順繰りにほぐしていく。からまったコンセントのコードをほどくみたいに、丁寧にやっていけば、終わりが来る。すんなりと骨と筋肉と皮がつながり、一体となっていくのだ。柔らかくなった筋肉の隙間に風を送るために、僕は息を深く吸い込んだ。ふかく。アコーディオンの蛇腹のように、肺をしぼませたり、膨らませたりすることによって、体中に空気を送る。そのとき、僕は吸い込んでいた息を止めて、目を見開いた。


 ……?


 教会の入り口のほうから、音が聞こえてきたのだ。それは、ピンポン球を十五センチ上から落としたような音に似ていた。僕にはこの音の正体がわかる。女性のヒールではない。男の履いている革靴が、廊下を叩く音だ。きっと固い靴底をしているんだろう。

 僕は首を横に傾ける。今、教会の扉は閉ざされている。僕には休息が必要だったからだ。刺し傷を癒やし、噴き出た血を拭い、衣服を取り替えるための時間だ。どうして、誰かが来るんだろう?

 その音は止まらない。一定のリズムを守って、僕のところへどんどん近づいてくる。しかし、どこか歯切れの悪い靴音だった。足を一歩踏み出すごとに、ほんの少しだけ遅れが生じていた。リズムから、ためらいのような、気後れのようなものが感じられる。

 かつ。かつ。かつ。かつ。かつ。かつ。かつ。かつ。

 教会の扉に、鍵は掛けていない。いつでも開いている。ここの扉が開かれるかどうかは、ここに来る者に、扉を開く覚悟があるか、どうかにかかっている。言い換えれば、その覚悟こそが、扉を開く鍵になった。救いとなるものを本当に求めているかどうか。冷やかしじゃないか。びびって逃げ出したりしないか。真剣に、困っているのか。僕は、困っていると手を伸ばしてくる人に手を差し伸べたい。

 僕は耳をすませ、「靴音」というわずかな情報から、これから来る人物が、どんな人間かを探ろうとした。固い靴音。ぎこちない足取り。刻まれるリズム……そこに潜んでる、息づかい。

 ――だけど、僕は、ここに来る人間がいったい誰なのかを知っていた。

 人を傷つけたくて、しようのない君。でも、自分は傷つきたくないっていう、傲慢な君。だけど、本当は、傷ついた時の痛みがわかる分、人にも優しくできる君。そんなどうしようもない君を、僕は知っている。君の彼女や、君のお母さんだって知らない、本当の君を知っている。

 僕は置いていたナイフを手に取ると、ジャグラーのようにくるりとナイフを回して、刃先を下に向けた。固くこわばっていた膝を伸ばし、立ち上がる。血液がざあっと足下に落ちて、くらっとめまいがした。目の前にかかったもやを何度か頭を振って、払う。

 教会の重いドアは、ちょうど、ゆっくりと開かれるところだった。僕は穴の空いた右の手のひらをかざし、その穴から教会の入り口を見る。

 

 穴の向こうには、訪問者の黒い影があった。白い光を背中にして。

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先生のスティグマ トウヤ @m0m0_2018

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