■幕
ティッシュを引き抜く音が、室内にこだましている。
しゅっしゅっしゅ。
しゅっしゅっしゅっしゅっしゅっしゅっ。
もずく先生が、ティッシュを使っているのだ。僕はその音に耳を傾けながら、先生に背中を向けている。音の数から、引き抜いたティッシュの枚数を考える。八枚だった。そして、さらにティッシュを引き抜き続けている。
しゅっしゅっしゅっしゅっしゅ。
「中だしは、本当に困るんだよな」
先生は、僕に聞こえるように独り言を言っている。今は背中を向けているから見えないが、先生の身体は今や青あざと赤紫色のうっ血の跡ばかりだ。僕が殴った右ほおも、目をこらせば赤く腫れていることがわかるだろう。これから数日間の間は、とてもじゃないが客は取れないと思う。
もずく先生は不気味なほどに静かだった。いつもは、ピロートークだと無駄話をしているのに。僕はこの沈黙に居心地の悪さを感じていたけど、何も言い出すことができなかった。謝罪する気持ちもない。そもそも、悪いと思っていないから。すみません、ごめんなさいと形式的な謝罪はいくらでもできるけど、中身が伴っていないなら、そんな謝罪にかけらも意味はないのだ。やがて、ティッシュを引き抜く音が止んだので、僕は先生を振り返った。
先生は、白い花弁のようなティッシュを人差し指と中指でつまみ、ひらひらと宙をさまよわせた後、ぐしゃっと丸め、僕の精液で濡れた尻を拭っている。もずく先生が、ティッシュを積み上げ、小さな山を作った後、徐に僕を見て言った。
「シャワー浴びてくるね」
「……はい」
いつもだったら、もずく先生は終わってすぐに支払いを要求してくる。そこで、気まぐれな値引き交渉をする。その後に、ピロートークだ。しかし、今回は僕が中だしをしてしまったせいで、先にシャワーを浴びるらしい。
もずく先生は、尻にティッシュをあてて、よたよたとシャワールームに向かう。きっと、尻の中を洗うんだろう。僕は乱れたベッドの上で、下着とズボンを引き上げ、しっかりとベルトを留めた。コートも着ているから、これで身支度は完了だ。
先生はシャワールームへ続くドアを開けた時、僕を振り返らずに、いった。
「逃げるんでしょ?」
僕は何も言わない。
「いいよ、別に。理由なんて聞かないさ」
その言葉を聞いたとき、僕は駆け出していた。靴をつっかけて。
ヤリ逃げだ。言い訳のしようもない。
僕は最初から、こうするつもりでもずく先生を呼んだのだ。ミヤナにふられた八つ当たりがしたくて。行き場のない痛みを誰かに強くぶつけることで解消したかったのだ。もずく先生も、僕と同じだけ傷ついてみればいいと思った。
僕は体当たりをして、安普請な出来合いのドアを突き飛ばすように外に出てきた。エレベーターを待ちたくなくて、緑色の「非常口」の看板を頼りに、階段を探し当て、そこを二段飛ばしで駆け下りた。
振り返ることなんて、到底できそうになかった。自分がやったことを突きつけられるのが、とても怖い。
僕はもずく先生の、たおやかな声を思い出す。それはビーズのクッションみたいに、僕の体に空いた細かい穴を埋めて、いつも僕を包んでくれていたように思う。
もずく先生の、丸まった目じりを思い出す。冷たい体温と、平たい胸板も。先生は、ミヤナより抱き心地はよくなかったけど、ぜったいに僕を拒んだりはしなかった。
僕は非常口の階段を抜けて、ラブホテルの外に出た。それでも走った。道行く人の視線よりも、ずっと追いかけてくるもずく先生の目が怖かった。僕はめちゃくちゃに逃げる。
走り続けていると、だんだん、目の前が暗くなってくる。自分の足を置いているところがあやふやになってくる。それでも走り続けた。
人を傷つけようと思って傷つけたのに、どうして自分がこんなに傷ついているのか、わからなかった。ぼろぼろのラブホテルに取り残された、もずく先生を思う。きっと、その身体を横たえ、傷を癒やしているんだろう。死体みたいになって。
北陸の冬は厳しい。冷たく、暗い。僕が駆け出して、逃げた先も、灰色の分厚い雲が空を覆っていた。太陽が顔を覗かせる隙間もない。
僕は逃げ出した。逃げた先はひとりだった。足を運べば運ぶほど、痛みが増した。背中に気持ちのよくない汗が伝う。冬だというのに、下に着ているインナーが、汗で濡れていく感触がわかる。
僕は孤独の中に駆け出す。冷たい風が吹き付けて、汗を乾かし、僕の体温が、ぐっと冷えていった。
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