□刺された男

 僕を刺した男の足音が消えて、しばらく立ってから、僕はゆっくりと体を起こした。気だるい昼寝から目を覚ましたように、体全体が水を含んだように重たかった。力が入りにくい、穴の空いた手で、なんとか数センチほど上体を持ち上げ、肘をつく。そこを支点にして、僕はやっとの思いで上体をまっすぐ起こした。固いベンチに寝そべっていたから、体中が痛い。

「ううーん……」

 僕は凝り固まった関節をほぐすために、のびをした。猫のように。関節に血液が循環し、動きがなめらかになったのか、ぽきぽきという音が体のあちこちから聞こえてきた。とても固まっていたんだと思う。

「いててて……」 

 それと同じくして、痛覚が戻ってきた。先ほど刺された脇腹の傷が、ゆっくりと痛み出してきたのだ。ずくん、ずくん。体に流れる血液のリズムと同調して、僕に訴えかけてくる。その、低くてどっしりとしたリズムは、マーチングの大太鼓を思い出させた。賢明な誰かが、僕のために、「ここに刺し傷があるよ」と教えてくれているのだ。

 僕は下方向に首を向けて、身につけていた、うすいタンクトップをまくり上げる。白かったタンクトップはすっかり酸化した血で汚れていた。僕は傷口を眺める。

「けっこう、深いな。別にいいけど……」

 僕は傷口の深さを、確かめるために触れてみた。傷はまだ塞がっていない。刻まれた新しい傷としてそこにあった。手のひらや足先のように貫通した穴は開いていないが、傷口はえぐれ、血で濡れた肉が白い陽光を受けてきらきらと輝いている。深さを確かめるために、人差し指をいれた。一つ目の関節までが、血に濡れて汚れる。

 傷口は、僕の上半身に広がるあばらの骨をよけて、内臓と内臓を分ける膜もよけて、ただ肉をえぐっていた。銀のナイフの切口は、すべてを切り分けるようにうすかったから、それが可能だったのだろう。

 僕は屈んで、男が落としていったナイフを拾い上げた。それも赤い血で濡れていた。出血したばかりの、新しい血で。赤く、まんべんなく濡れたナイフの刃はぎらぎらと、まがまがしく暗い光を放っている。

「また次の人が使うだろうから、きれいにしておかないと」

 僕はナイフの切っ先をまじまじと見つめた。伸びた血で汚れていてもなお、その輝きは失われず、僕の顔を写している。僕はその美しさに感嘆して、ふうとため息をもらす。それから、目を閉じた。かつての、ナイフの持ち主の顔を思い出すために。


 僕の名前は、もずくという。

 

 この名前は、今の仕事を始めるときに、初めて寝たお客さんに付けてもらった名前だ。僕の髪質をからかって、こういう名前にしたんだろう。なんとなく、この名前がしっくりきて、使い続けている。今では、本当の名前よりも呼ばれることが多いくらいだ。

 さっき僕を刺して、逃げていった男。彼は、僕のわき腹に穴を空けるとき、とても苦しそうな顔をしていた。実際、痛いんだろう。自分の中の狂気を飼い殺せていないからだ。

 僕の仕事は、身体を差し出すことだ。その対価に、僕はお金をもらう。相場よりもずっと安い金額で。同業の人に値段を言ったら驚かれることもあるけれど、じゃぶじゃぶお金を使って生きたいわけではないから、ぼちぼちでんがな、というところだと思う。税金も年金もきちんと納めているから、怒られることはないはずだ。多分。同い年の人から、たまに白い目で見られることもあるけれど。

 この仕事は、まあまあ、きついことがある。無理のあるプレイを要求されたり、暴言をぶつけられたり、暴力を振るわれたり、いろいろだ。けっこうめげることもある。最初の頃は律儀に応えていたけれど、だんだん、めんどうになって断ることのほうが多くなった。そして、その方がなぜか断る前よりお客さんが増えたんだから、ふしぎな物だと思う。

 僕のところに来るお客さんは、たいがいが、すごく疲弊している。疲れ切っている。ぼろぼろの、使い古されたタオルみたいに。体じゅうの皮膚全体が、なんだか灰色になって、薄汚れているのだ。ぼんやりとして、印象が残らないようになっている。まるで光のほうが、その人を照らすことを避けているようだ。

 僕よりもずっと年上のおじさんが(僕だっておじさんだけれども、)ひょろひょろの、僕の薄い胸板にすがって愚痴をこぼす。

 女房が冷たい。子どもが不登校だ。会社の若手が、言うことを聞いてくれない。今期の業績が悪かった。

 僕はそれに、うんうんとうなずきながら、よしよしとその人の背中をさする。こういうことは、女の子にしてもらったほうがいいんじゃないかな、と思うんだけれど、そんなことは言わない。きっと引け目があるんだろう。自分の娘ほどの女の子には罪悪感が湧く、とか。若い女の子は、何を考えているかわからない、とか。香水の匂いがだめなんだ、とか。僕はそういう愚痴に何も言わない。解決案なんて、僕は到底思いつかないからだ。僕は体温とそれに伴う実体を差し出し、うんうんと相づちを打つ。たまには、ペニスを咥えてあげる。シンプルといえばシンプルな仕事だ。


 そんな僕が、「君」を見つけたのは、偶然だったのだ。


 僕は、僕を必要としている人の顔を見分けることができる。まともそうなふりをして、矛盾に悩まされている人を。罪のない、善良な市民の顔をして、そのふところにいくつも刃を隠し持っている人を。その刃を納める場所を探してさまよっている人を、見つけることができる。

 僕はたくさんの男の人に抱かれてきた。だから、その人が何を考えているか、何を言ってほしいのかということが立ち所にわかる。

 君のことは、大学内で初めて見つけたとき、ぴん、と来て声をかけたのだ。君は、平坦な顔のしたに、いくつも皺を隠し持って、悩んでいます、という顔をしていた。それも、下半身に関わる問題だ。インポテンツ、真正包茎、性病……もしくは、セックスレス。

 ふと気がつけば、僕は立ち上がって、君に声をかけていた。ポケットの中の、ハンドメイド・名刺のありかを確認し、君に駆け寄っていた。君は感情を隠しもせず、「いかにも、迷惑です」という顔をした。僕はそれにかまわず、君に名刺を握らせ、その場を去った。 君にすげなく断られながらも、なぜか、僕には鮮明にイメージができた。君とベッドの上でもつれ合う姿を。君が僕に甘えて、赦しを乞い、祈る姿を。

 余計なお世話だったかもしれないけれど、僕は君を助けてあげたかったのだ。

 数週間後、君から電話がかかってきたとき、僕は鼻歌を歌い出したい気分になった。網にひっかかった蝶々を眺める蜘蛛の気分だ。なにもかも、僕が読んだどおり!

 僕と君は、体を重ねれば重ねるほど、親密な仲になっていった。君は学生で、ろくにアルバイトもしていないっていうのに、呆れるほどに僕を呼んだ。君の小さな経済の環が崩壊しないのか心配になってしまって、ついつい割引してしまうのも、僕のよくないところだった。

 久々に、自分よりも、(ずっと)、若い男の子と体を重ねているのもうれしかったのかもしれない。君は今まで寝てきたおじさんの誰よりも不器用だったけど、真摯に、好きなんだという気持ちがよく伝わってきた。最初の頃はうれしかったんだけれど、それが次第に、重たくなった。水を吸い込んだ布みたいに。

 彼女がいるんでしょ? それじゃあ、こんなことしてたら、ダメだよ。

 そう言ってあげても、よかったんだろう。むしろ、言おうかと何度も迷ったくらいだ。そのことが君をどれだけ傷つけるかをわかっていても。もし僕が本当に君のことを考えているなら、僕は「お客さんに気持ちよくなってもらう」という、職業的ポリシーを曲げ、君にお説教しなければいけなかったのだ。

 君が惰眠をむさぼっているときに、僕は何度もそうした。君ぐらいの年の頃に現れる、若い、ハリツヤのいい頬に、僕のかさかさした手を沿わせ、額をくっつけ、祈った。

 君が僕の方を見なくなって、どうか、前を向きますように。

 そんな折、「K」さんにあることを言われた。「K」さんとのセックスはいつも淡泊だから、よく覚えていないんだけども、そのときのことだけは鮮明に覚えている。「K」さんは、いつも高層ビルが見下ろせる、ラグジュアリーなホテルを予約して、僕と体を重ねた。

 「K」さんは、僕のことを見ないで、窓の外を見ながら言った。

「もずくは、俺よりも頻繁に会っている客がいるの?」

 僕はその質問に、質問で答える。

「どうして?」

 どうして、そんなことを聞くの? 「K」さんは僕に、責め苛むような視線をよこす。

「俺はこんなに君に尽くしているつもりだけど」

「どうもありがとう」

 本当はラグジュアリーなホテルを取ってもらうよりも、僕に支払うお金を三倍にしてくれたほうがうれしい。でも、僕はそんなことを言わない。

「相手はどんなやつなの?」

 「K」さんは、何でもないふりをして僕に聞く。何でもないふりをするくらいなら、わざわざ聞くなよなあ、と思ってしまうんだけど、僕も何でもないふりをして、質問に答える。

「大学生だよ。何をしても、されても、反応がうぶでかわいいんだ」

「そう」

 「K」さんの質問はそれで終わったので、僕はここぞとばかりに惰眠をむさぼる。清潔な匂いのする、冷たいシーツの感触に、僕は頬ずりをしながらぐうぐう眠ったのだ。

 そのときに「K」さんは僕の首筋に吸い付いたんだと思う。跡を残していくなんて、まるで本当に、蚊みたいだ、と僕は思った。


 僕は、君から嫉妬されたとき、とても気持ちがいいな、と思った。そして、あえてそのまま嫉妬させてみた。やきもちは、自分でするには億劫で、持て余してしまう感情だけれど、端から眺めている分には、とても楽しい。ついつい、ニコニコしながら眺めてしまう。

 でも、そんな底意地の悪いことをした結果が「これ」だ。僕は反省をする。いつかまた、誰かにやってしまいそうな気もするけど、反省はする。ごめんね、君の気持ちを弄ぶようなことをして。とても楽しかった。 

 僕は君に刺された脇腹に手を当てた。傷は深かったはずだけど、もう血は止まっている。傷は熱を孕んだままそこにあった。じわじわと滲み出すように、熱が漏れ出している。今までも、こういうことはよくあった。いろんな人が僕の両手両足に穴を空け、僕の脇腹に刃を立てていく。とっくにこの痛みには慣れている。

 僕は、好んでこの傷の痛みを思い出すようにした。平静を装う君の激情を、まっすぐぶつけてもらえたようで、僕はうれしかったのだ。痛いことは痛かったけれど。

 ナイフを体の内側に差し込まれると、まず、肉の内側にひやりとした金属を感じる。それから、皮膚を割かれた痛みに気づく。僕という血の袋が破裂して、割かれた皮膚から血が漏れ出すのを感じる。やけどに似た、熱さも感じる。僕は空気を求めてあえぐ。いくら肺を膨らませても痛みも出血も和らぐことはないけれど、呼吸を強くするぐらいしか、僕にできることはないからだ。

 僕は、この痛みになれている。僕の元を訪れる人は、たいがいが、僕にこういうことをしたくて来るからだ。回数を重ねればだんだんと慣れてしまう。ランニングを始めた人が、走る距離をどんどん伸ばして行くみたいに。


 慣れていると、思っていたんだけどな。


 床には、僕に踏まれて広がって、伸びた血があった。そこに、水がいくつか落ちた。汗かと思ったが、それは僕の涙だった。ぱたぱたと落ちて、かたまりかけていた血液をゆるませ、混ざっていく。僕からしみ出した体液が、ふたつ、そこで混ざり合おうとしている。僕はもう一度思う。

 痛みには、なれていると思っていたんだけど。

 自分が涙を流していることに気がつくと、後から、後から、涙がこぼれてきた。目の奥が、焼きごてでもあてられたみたいに熱くなる。僕の目からこぼれた水は、床の同じ場所に落ちて、たまりを作った。僕はうずくまる。だんご虫みたいに、丸くなって、小さくなる。

 どういうわけか、体がひどく冷たかった。血を失ったせいかもしれない。でも、それだけが原因というわけでもなさそうだった。教会の静寂が耳から入り、僕の骨まで沁みていく。パイプオルガンのひとつでも鳴ればいいのに、ここに気の利いたシスターはいないみたいだ。神父様の説教があればいいのに、ここには説かれるべき信者たちもいなかった。

 僕しかいない。ここには、僕しか。

 僕は走っていってしまった、君のことを思う。彼女とはうまくいっているだろうか。ずいぶん軽快な足取りで、走っていったようだけれども。


 僕は涙をぼたぼた落とす。鼻水が糸を引いて、ひとすじ床に垂れていくのも見えた。

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