□杭
(網膜の裏側で、繰り返し再生されるその映像は、ぼんやりともやがかかっていて鮮明ではない)
僕は男の手首をつかんだ。それは真っ白な棒のようだった。白い肌からは、青色や紫色をした静脈が透けて見える。脈を確かめるように、親指の腹を骨と骨の間にできたくぼみにあてると、ぴくぴくとした動きを感じることができた。男は、きちんとヤスリもかけられていない、分厚い木の板の上で寝そべっている。木の板は短いものと長いものがあり、十字架の形に組まれていた。十字架は簡単に崩れないように、交わったところが植物のつるでぐるぐると結びつけられている。僕は、男の右手を持ち上げて、十字架の右腕に沿わせて、男の右腕をのばした。男の右手の平を天井に向けて、僕の左手で手首を押さえつけ、動かないよう固定する。男の右手に通う血液がとまるぐらい強く押さえつけた。男は逃げる様子も、暴れる様子もなかった。しかし緊張はしているようで、肩に力が入っていて、体が硬くこわばっていた。僕は男の手首を固定するために、下にひいた木の板と男の手首を、植物のつるでぐるぐる結びつけた。脈が止まるぐらい、きつく結びつけた。男の素肌に植物のつるが触れて、動かすたびにこすれて、皮膚が赤くなっていた。激しく動かせば、皮がむけるだろうと思う。そうなる前に当て布を挟んであげようかとも思ったが、なんとなく面倒に思ってやめてしまった。それに、皮がむけるぐらいの痛みなんて、そのうち気にならなくなると思う。
男が言う。
「できるだけ、優しくしてほしいな」
僕は、その言葉に、からかわれているのかと思って顔を上げた。しかし、男の目にはおびえが見られた。まぶたのしたに隠されようとしている瞳の中には、はっきりと恐怖が見られた。
「優しくするなんてできないよ」
僕は無慈悲に言う。
「それに、優しくしたほうが痛いと思うよ。ひと思いにやったほうが、痛くないと思う」
乳歯を抜くときと一緒だ。根元を少しずつ動かして、歯茎からじりじりと抜くより、思い切り抜いた方が絶対に痛みが少ない。
「まあ、それはそうかもしれないけどさ……」
僕は手近においてあった、鉄でできた杭を空いた手で取った。先端を見る。金属のやすりが掛けられ、ろうが塗ってあって、なめらかに鋭くとがっていた。耐久性が少し不安だけど、今はこれしか道具がないから仕方がない。
僕は、杭を男の手のひらの真ん中にあてがった。男の指が震えている。こまかく。僕は僕以外に、もうひとり人間がいたらいいと思った。この男の手首を押さえつける人間がいたらいい。
「いくよ」
僕が言う。できるだけ、迷いが見られないように冷たい声で言った。男がうなずく。もともと色の白い顔が、ますます青くなっていた。僕は、杭がまっすぐ男の手のひらに刺さるように、杭の頭をめがけて、まっすぐ垂直に金槌を振り下ろした。鈍い音がした。杭が深く、肉に刺さる、確かな感触もあった。男がくぐもった悲鳴をあげる。寝かせた体をひるがえし、自由に動く左手で、右腕を押さえていた。痛みをこらえるためだろう。僕は男が痛みにうめく姿に動揺することなく、つづけて二発目、三発目と杭を打ち込んだ。僕が槌を振り下ろすたびに、男がそれに併せて悲鳴を上げた。女の、嬌声みたい……というには、ずいぶん声が低かった。ただ痛みにもだえ苦しむだけの悲鳴だ。
「もう、やめて……」
僕はその声に一度、槌を振り下ろす手を止めた。そして、男の顔を見つめる。男は眉根を寄せて、こめかみに汗をかいていた。顔を傾けたときに玉が流れ落ちてつながって、下に敷いた木の板に吸い込まれていく。僕は男に、はげましの言葉をかける。
「ごめんね。もうちょっと、頑張ってね」
僕は自分の心に生まれた、同情心のような物を消し去った。男の手に杭を打ち込まないと、困るのは僕の方だからだ。人は自分のためなら、他人に対してどこまでも冷酷になれる。僕はよりいっそう高く金槌を振りあげ、杭の頭目がけて、音高く、力強く振り下ろす。杭が更に深く手のひらに沈み込んだとき、ごりっと骨が砕ける音がした。
「ううっ……」
男の苦しそうな悲鳴が、部屋中に響いた。僕はその悲鳴を聞いて、たぶん笑っていた。僕のこめかみからも汗が落ちる。
それは、歓喜の汗だった。陽の光で、ダイヤモンドの粒みたいに輝いて散った。
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