孝行息子になれない俺は~異世界召喚八犬伝~

斧寺鮮魚

序幕、『孝』と『忠』の章

序章 森を駆ける

 駆ける、駆ける、駆ける。

 森を駆ける。木々の間を駆ける。

 息が上がる。手には刃がある。


 刃――――そう、刃だ。緩やかに弧を描く、ひと振りの刀。

 美しい刀である。

 誰もがそう評するであろう。素人ですらも。妖しく煌めく白刃は、夜空の月にも似た美貌を湛えている。

 その美しさは、しかし同時に危うさが同居していた。人殺しの道具としての……血を吸う鋼としての、ゾッとするような魅力を。


「ハッ、ハッ、ハッ……!」


 だが、関係はない。

 彼にとって、それは関係の無いことだ。

 だって、その美しさは彼を救わない。

 刃は刃だ。敵を斬る包丁だ。美しくて困ることはないが、美しくて助かることもない。

 切れ味、頑健さ……それだけだ。そういったものだけが、関係のあることだ。


 ぐるる、と唸るような声が聞こえた。

 ……否。ではない。

 が、聞こえた。

 獣の声だ。獣の唸り声だ。獰猛な獣の吐息が、少年の背を追っていた。


 少年は――――刀を手にした少年は、時折背後を振り向きながら必死に駆けている。

 短く結わえた黒髪のポニーテールが、それこそ駿馬の尾のように揺れていた。

 着崩した学ランが、彼が学生であることを示していた。


「おい、小童こわっぱ! 逃げるばかりでは修行にならんではないか!」


 声が聞こえる。

 少女の声だ。幼い少女の声。少年が発したものではあるまい。当然、獣でも。

 声の主の姿は見当たらない。ただ、その鈴のような声が、少年を叱咤しているということだけが確かな事実だった。


「無理、言うなよっ! クソッ、クソッ、死ぬぞマジで……!」


 少年が声に返したのは悪態だ。

 それも当然だ。振り向けば獣が……死が迫り、理不尽にもそれに追いたてられている。悪態のひとつやふたつも吐きたくなる。


「たわけたわけたわけっ! そんなことで儂を使えると思うておるのか!」

「俺はお前を使いたいとはひと言も言ってねぇ!」

「なんじゃとぅ!」

「だいたいお前のせいで既に全身バキバキなんだよ!」


 ぎゃあぎゃあと、姿の見えぬ少女と言い争う。背後から獣の吠え声が聞こえた。恐怖から後ろを振り向いた。

 言い争いに意識が割かれたのが悪かったか、振り向いたのが悪かったか。

 少年は露出した木の根に足を引っかけ、転倒した。


「どわっ!」


 咄嗟に受け身を取る。前転、膝立ち。怪我は無い。が、足は止まった。

 手に刀は握ったままだ。乱暴に扱うな、と少女の罵声が聞こえた。しかしそれどころではない。

 今度こそ、後ろを見る。

 ……いる。

 灰色の毛皮、鋭い牙、爪、ぴんと立った耳、凶悪な眼光――――唸る四足獣、狼。

 少年に死を与えんと追い立てた、獰猛な捕食者。

 近い。

 今から逃げるのは……もう、難しいだろう。

 彼我の距離は目測10m。狼の健脚ならばひと跳びだ。


「まったく……観念したか?」


 少女の声に、少年は嘆息で返した。

 慎重に立ち上がり、不格好に刀を構える。

 狼が、様子を伺うように低く唸った。


「……やるしかないんだろ」

「最初からそうと言うておろう。お主はもう、儂を使わねば生きて行かれぬのじゃ」

「勘弁してくれ……」


 刀を構える少年の右手の甲には、奇妙な紋様が刻まれていた。

 よく見れば、刀の根元にも似たような紋様が刻まれている。

 少年には、その紋様の意味するところが不思議と理解できていた。


「さぁ、往くぞ小童。危なくなれば代わってやる故、安心せい!」

「ったく、もっと殺陣タテ勉強しときゃよかった……!」


 ――――――――少年の手には、『孝』。


 ――――――――刀の根元には、『忠』。



 少年は、遥か遠くにいるはずの父を想い――――狼目掛け、飛び掛かった。

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