どうして。なんで。どうしたら。
チャイムを押すときっと音が鳴る。押す寸前、深呼吸。空気が満たされた肺が高まる心臓の鼓動で振動する。ような気がした。気のせいかも。とにかく。私は緊張していた。初めて鳴らす彼氏の家のチャイム。押す理由が私を好きか確かめるためなんて、どうかと思う。彼女のすることかそれ。もう彼女なのに今更すぎるだろう。だけど、しょうがない。もう押すしかない。だから、押した。ピンポーンと音が鳴る。待つ。ただ待つ。
なんの応答もない。チャイムを離れ、家を見上げる。戸建ての一軒家。一階は真っ暗で、二階の部屋のひとつに電気がついているのが見える。あそこが悠の部屋だろうか。家の前までは来たことがあるけれど、家の中に入ったことはない。
もう一度チャイムを押す。ピンポーン。反応なし。
また、チャイムを離れ、家を見上げる。明りがついた部屋に一瞬、悠が見えた。でも、私に見つかったことに気づいたのか、すぐに隠れた。なにしとんじゃあいつ。こら。出てこいや。窓に石投げたろか。
まあ、投げませんけど。ガラス割れたら大変だし。
私はまた、チャイムを押す。一度押せばもう何度押しても同じこと。だから、押す。ピンポーン。反応なし。押す押す押す。ピンポピンポピンポピンピンピンピピピピピンポーン。
『わかった! わかった!』
やっとインターホンから悠の声。
「私だけど」
『わかってるよ』
でしょうね。見てましたもんね。
「話がしたいの」
『なに?』
こいつ。インターホン越しで済ますつもりか。彼女がわざわざお宅訪問しているというのに、顔を見せずに、インターホンについているカメラで私の顔を見ているだろう。自分だけ顔を見ている。それはちょっとずるくないですかね。変顔したろか。まあ、しませんけど。
「顔見て話したい」
『……やだ』
やだ。って本当にこいつは子供か。
「お願い」
『やだ』
「一生のお願い」
これでもう死ぬまで悠に他のお願いすることはできなくなった。
『……ちょっと待ってて』
やっぱり一生のお願いは強いなぁ。すごい効き目だ。機会があったらまた使おう。
「うん」
私は待つ。悠がちょっと待ってと言ったから待つ。これではどっちが犬なのかわからない。もっとも子犬に待てなんて通用しないけれど。
待ち時間というのは長く感じるもので、それは今回も、いや、今回は特にそう感じた。髪。変じゃないかな。服は――。私は自分が着ている服を見る。そうでした。私はお姉ちゃんと希に言われるまま、着の身着のままここまで来たのだ。
いつもと同じなのは眼鏡くらいで、髪は悠のことを考えてかきむしりまくってたからきっとぐしゃぐしゃだし、服は部屋着のまんまだ。上下とも中学時代のジャージ。しかも膝のところにはお姉ちゃんが「破れてたから直しといたよぉ~」と勝手に縫い付けたウサギのアップリケ。しかも縫い目がめちゃくちゃ。私ならもっとキレイに縫えた。いや、今はそんなことはどうでもいい。いや、この際見た目だってどうでもいい。というかどうにもならない。悠だって部屋着で出てくるだろうし、まあいいとしよう。これはデートじゃない。でも、髪くらいはなんとかならないかな。手ぐしでなんとかならんかな。
私が必死に髪をなでつけていても、悠は中々出てこない。いくらなんでも長いな。インターホンから玄関まで何百メートル離れてるんだ。見た目に反して奥行きがものすごいのかこの家は。なんてしょうもないことを考えていると、ようやくドアが開く音がした。
「おまたせ」
出てきた悠を見て、私は言葉を失う。こいつ。髪をセットしてやがる。服も絶対部屋着じゃない。だって、デートのときに着てたの覚えてる。なにデニムロールアップしとんじゃい。靴下は差し色の赤。やかましいわ。脱いでこい。でも、やっぱり、悔しいけれど、かっこいい。
悠は私の格好を見て、頬を一瞬ぴくりと動かす。そして、一度大きく息をついてから、「近くに公園あるから」と言って歩き出す。今絶対笑うの我慢しただろ。
でも、私は黙って悠の後ろについて歩く。本当は隣を歩きたかったけど、我慢した。
そこは小さな公園で、街灯はひとつしかなかった。その街灯はベンチを照らしている。かすかな光の中でブランコとか滑り台とかがうっすらと見える。私たちはベンチには座らず、街灯の下で向かい合っている。
「……座らないの?」
「座らない」
拗ねた子供のように俯いて悠は言う。つま先で地面を蹴っている。
「……なんで、デート行ってくれないの?」
本当はそんなことを言いに来たわけじゃない。別に座らなくてもいいし、デートだって行けなくてもいい。いや、行きたいけれど、今はそれより大事なことを言いにきたはずだ。
「……だって、手繋いでくれないし。友達は彼女と手を繋いで帰ってたのに……」
悠は私を見ようとせず、つま先で地面を掘りながら言う。どこまで掘る気なのか。地球の反対側に行く気なのか。
「……俺だって手繋いで帰りたいのに」
悠は本当に子供だ。小学生のまま高校生になっている。
「だから、私のこと嫌いになった?」
自分の言葉に胃がきゅっとする。私の手のひらは汗びっしょりだし、心臓ももう限界ですって感じでバクバクしている。でも、少しずつ言いたいことに近づけるように頑張る。この感じだといきなり本題に行くと私は多分死ぬ。
悠は私の言葉に動きを止める。地球の反対側に行くのは諦めたらしい。ただ俯いている。
「……手を繋いでくれないのは嫌い」
嫌い。という言葉に私の心臓はもう早鐘打ちまくり。空襲かなって感じになっている。
「ねえ。私の顔見てよ」
そう言っても悠は俯いたまま。
嫌いなら嫌いでもいい。いや、よくないけど。でも、せめて、ちゃんと顔を見て言ってほしい。
「顔見て話したいって言ったじゃん」
「……やだって言った」
「私は……私は悠のそういう子供みたいなところ嫌い」
悠ははっと顔をあげる。涙目だった。でも、泣いてはいない。下唇を噛んで堪えている。本当に子供みたい。
「でも、嫌いでもいい。だって、私は悠が好きだもん」
やっと、言えた。悠はなにも言わない。だから、私は続ける。
「悠の顔が好き。背が高いところも、成績がいいところも、センスがいいところも好き」
「……そうじゃなかったら嫌いになるの?」
ようやく悠の口から出た言葉。そりゃ私だってこんなこと言われたらそう思うだろう。悠の顔が変わって、背も縮んで、頭も悪くなって、ダサくなっても悠のことを私は変わらず好きでいられるか。
「そんなのわかんない」
そう。わかるわけない。そんなこと。仮定のお話にはお答えできない。悠が子供っぽくなくなったらもっと好きになるのかだって、わからない。なんにもわからん。
「なんだよそれ……」
ごめんね。でもわからないものはわからない。
「悠が私のお弁当を美味しいって食べてくれるところも好きだし、すぐ手を繋ぎたがるところも好き。でも、悠がなんで私のことが好き……なのかはわからない」
好きだったのかはわからない。という言葉はなんとか飲み込む。
「悠が私の背が低いから、髪が短いから、胸が小さいから、性格が卑屈だから、スキンシップが苦手だから、高校生だから、眼鏡だから、服がダサいから、どの私のことを好きになってくれたのかはわからない。どうして、結婚してくれないのかもわからない。美人じゃないから、可愛くないから、小学生じゃないから、妹じゃないから、社会人じゃないから、姉じゃないから、やっぱり、背が高いほうがいい? 髪が長いほうがいいのかな。胸は大きいほうがいいのかな。性格が明るいほうがいいのかな。でも、手は結婚したら握るよ。キスだってする。服だって今日はたまたまダサいだけ。デートのときは頑張ってる……つもりだよ。でも、次からはもっと頑張る。悠が着てほしい格好したっていい」
悠は何度か口を挟もうと口をパクパクさせるけれど、私はそれをさせず、一気に喋り倒す。息が切れる。しんど。
私は一度、呼吸をする。
「でもね。私だってなんで結婚したいのかわからない。でも、したいの。悠と結婚したい」
悠は何も言わない。
やっぱり、高校生で結婚するなんておかしいだろうか。もっと大人になって、働いて、ちゃんとお金も稼いで、お互いのことをもっと知って、それからでもいいのだろうか。でも、それはいつになるのだろう。何年待てばいいのだろう。その間、私はずっと悠を好きなのだろうか。悠は私が好きなのだろうか。そんなのわからない。わかるはずもない。人生なにが起きるかわからない。でも、そんなのは今結婚しても同じ話な気もする。結婚したからって一生一緒にいるとは限らない。離婚する夫婦なんていくらでもいる。それならそれでいいと思う。だって、離婚は結婚しないと出来ない。
お互いに好き同士ならお付き合いをする。じゃあ、どうなれば結婚できるのだろう。私がどうなればいいのだろう。どうすれば悠と結婚できるの。誰も教えてくれない。いや、違う。教えてもらった。そうだった。忘れてた。
私は悠の前に片膝をつく。悠が涙目のまま驚いた顔で私を見ている。薔薇はない。だから、代わりにこんなこともあろうかと持ってきた婚姻届を悠にそっと差し出す。
そして、言うのだ。
「貴方を愛しています。結婚してください」
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