第七章 精霊

第48話

 揺れる地面は、橋の大損壊による不安定さが原因ではない。


 橋の下を流れる外河川。

 幅三百メートルあるその大きな川は、普段ならば穏やかな水面を作っている。

 しかし、今は見るからに荒れていた。


 局所的な高い波があちらこちらに次々と生まれては消える。

 それらは次第に自然の流れからは逆らうようになり、天に向かって高く吹きだし水柱を、あるいは大きな渦を作っていった。


「兄さん! 兄さんッ! ねえ、兄さんッ!」


 怜奈は街の異常に目もくれず兄を呼び続けている。

 だがその姿は、もう彼女の兄のものではない。

 そして、雪海のものでもなかった。


 人らしい色ではなく、青みがかる透明の身体。

 水面のように仄かに揺れる濡れた肌。

 長い髪を持つ、美しい女性の姿。


「……ウンディーネ?」


 雪海が融合させられた水の精霊。

 冬鷹はその姿を見た事がない。しかしそれ以外に考えられない。


「どうなってんだッ!?」

「知らない! 知らないわよッ!」

「知らないって、怜奈ちゃんがしたんだろッ!?」

「知らないッ、わかんないッ! 兄さんッ!」


 突然、ウンディーネの瞳がガッと開いた。

 そこには生物らしい輝きがなく、ハイビームのように強烈な光を放つ。

 そして、ウンディーネが口を開くと――。


「========!」

「うっ!」「なん、だ……これ、」


 怜奈と冬鷹は耳を塞ぎ、思わずその場にひざまずく。


 声――なのだろうか。

 しかし人のそれと明らかに違う。

 ガラスや黒板をひっかく音よりも遥かに不快な、複数の楽器による高音域の不調和音のような怪音。


 ザザザッ――と、軍服の襟からノイズを流れる。襟で塞ぐように耳を抑えた。


『東部地区――ザザッ、班、緊急――。東部外河川――ザザ、――運河ぜん――が、原因不明――です。至急、おうえ』

『南部――二班です――ザザザッ、同じく街中の――、荒れ氾濫してるザザザ――』

『西区――――ッ、』


 街中で起きてるのか!? ――原因は明らかに目の前のこれだ。


 怪音が轟く中、怜奈はよろよろと立ち上がると、ウンディーネに手を伸ばす。


「兄、さん……戻っ、て」


 しがみつこうと握るように手を閉じる。

 だが、できた拳はウンディーネの身体を掴んではいなかった。


「兄さん……兄さん」


 何度も何度も手を出しては、空を切るようにしてを繰り返す。

 ウンディーネは怜奈を意に返さず、目を光らせ叫び続けていた。


 だが突然の事だった。

 水の手が怜奈に伸び、首を正面から掴み上げた。


「かはッ! に、兄、さ――、」


 持ち上がる少女の身体。

 水の手は途端に形を大きく崩し、怜奈の頭ごと覆ってしまった。

 怜奈はウンディーネの腕を剥がそうともがく。だが、少女の手は水の腕を虚しく通り過ぎるばかりだ。


「離せエェッ!」


 冬鷹は飛びだし、ウンディーネの腕を引き剥がそうとした。

 しかしダメだ。冬鷹の手は水の腕をすり抜ける。


「雪海、ごめんッ、」


〈黒川〉を構え、振り切る――しかしダメだった。

 一瞬、切り離されたものの、瞬きをする間も無く腕は再結合し、状況を変えさせない。


 ウンディーネの腕が冬鷹にも伸びてきた。

 冬鷹は咄嗟に後ろに下がり躱す。すると、それ以上は追ってこなかった。


 怜奈が苦悶が濃くなってゆく。


 冬鷹はウンディーネに再接近し、怜奈の掴む腕に再び〈黒川〉を振り下ろした。

 すばやく、二刀、三刀、と切り刻み、水の腕はバラバラになる。だが、それでも再生は一瞬。怜奈は解放されず、もう一方の腕が襲い掛かる。

    

 紙一重で躱すと再び連撃を加え、さらに切り離れた腕が繋がらぬように間に〈パラーレ〉をしかける。

 だが結果は変わらない。

 腕は両端が求め合うように広がり〈パラーレ〉ごと取り込んでしまった。


「くそッ! いくら斬っても水だから――、」

 ――ん?


 焦りのなか、冬鷹は自分の発した言葉に気を止めた。


 水、だから…………そうか――ッ!


「怜奈ちゃん、聞こえるか!?」


 ウンディーネの怪音は攻防のなかでいつの間にか消えていた。だが、頭が水中にある怜奈にはどこまで聞こえているのか判らない。

 冬鷹は聞こえてくれと願い、声を張り上げた。


「いいかい!? 聞こえてるなら、ウンディーネの前腕部を凍らせてくれ!」


 怜奈は力一杯瞼を閉じて、頷きはしなかった。

 しかし、その手は自らを掴み上げる水の手に伸びる。


 次の瞬間、ウンディーネの前腕に霜が掛かった。

 凍った――それを確認すると冬鷹は素早く切り落とす。


 ウンディーネの再生が止まったのか怜奈が地面に落ちる。だが斬られたところとは別の、凍っていない箇所から新たな腕が生え触手のように冬鷹に襲い掛かる。


 冬鷹は〈パラーレ〉で触手を何とか躱しつつ、地面に落ちる怜奈を素早く抱きかかえ、間合いの外に出る事ができた。


 興味が失せたかウンディーネはその場に静かに佇み始める。

 するとようやく、怜奈の顔を覆っていた水が形を失った。

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