第47話

 冬鷹は固唾を飲む。

 怜奈もじっと一点を見詰めている。

 不穏な沈黙が場を支配した。

 遠くの戦音も、外河川の静かなしぶきも、今は耳に入ってこない。


「……雪海?」


 多分の願いを込め発した声は、酷く震えてしまっていた。

 不安や恐れや焦りが言葉を鈍らせる。


 雪海は起き上がった。

 ゆっくり、すうっと状態を起こし、台座から静かに足を下す。

 とても穏やかな表情だ。どこか優しげな雰囲気すらあった。


 だが、冬鷹の心は黒い泥に包まれた。


 雪海、じゃない――。


 姿は確かに妹のもので間違いはなかった。

 しかし、仕草が、作り表情が、普段見ているものと少しずつ違う。

 何より、頭で理解するよりも先に、心が『あれは雪海ではない』と言っていた。


 それを示すかのように、妹の手はゆっくりと怜奈に伸びる。

 リボンを手渡すとそっと頭を撫でた。

 ――瞬間時、雪海の姿が不意に崩れる。

 妹の身体は、瞬く間に、青年のそれへと変貌した。


「兄さん……兄さんッ!」


 今にも泣き出してしまいそうな笑顔を浮かべた怜奈は、力一杯に兄へと抱き付いた。

 先まで見せていた高飛車でも、偽ってきた健気な快活さでもない。

 ただ、兄に焦がれ再会に涙する妹の姿が、そこにあった。


「兄さん、兄さんっ、兄さん! やった! 帰ってきた! 兄さんが帰って――、」

「返してくれッ! 雪海を返してくれッ!」


 怜奈には冬鷹の叫びなど届かない。


「行こう、兄さん。大丈夫、兄さんならすぐにその身体を使いこなせる。そうすれば無事にこの街から出られるはず。本当は、安全のためにちゃんとした場所で儀式したかったんだけど、でも大丈夫だから。街を出さえすれば、逃走経路は確保してある。そうしたら、私が密かに用意した場所で――あっ、私ね、一人で異能補助施設作ったんだよ。確かめたら、軍のものとそう変わらなかった。それにね、ちゃんと観察してきたからもうちょっと良いものにできそう、どう?」


「ああ。すごいな」

 怜奈の兄は穏やかな表情で妹の頭を撫でる。


 怜奈は兄に褒められると嬉しそうに瞳を輝かせた。


「研究所の連中は気にしないで。お父さんや兄さんの研究を横取りしたんだから、裏切られて当然。そもそもあっちが裏切って来たんだし。あ、でも、もし復讐したいなら手伝うよ。でも、その前にしばらくはゆっくり暮らそう? 何処か私たちのこと誰も知らない場所に行って。そこでのんびり研究を続けて、いつかはお父さんとお母さんを蘇らせてもいい。私とお兄ちゃんならできるよ。いつか絶対――、」「怜奈」


 兄の声に一瞬言葉を止める怜奈は、「なに?」と首を傾げた。


「ありがとう、俺のために。だけどな…………お兄ちゃん、行けないみたいだ」

「……え? え、どういうこと? どうして?」


 幸せに綻んでいた表情が、途端不安気に歪む。


「悪い事をしたのは解ってるよ。でも、時間がなくて、こうするしかなかったの。兄さんの魂はもうすぐ――、」

「違うんだ」


 兄は穏やかな表情で首を横に振る――だが、様子がおかしい。


 表情とは裏腹に、身体は忙しなく動いていた。

 しかし『じっとしていない』とは根本的に違う。

 体内の何かがうごめくかのように、身体が歪み始めたのだ。


「逃ゲ、て……どコ、か、アんぜン、な……場しョに」

「兄さんッ!」「雪海ッ!」


 きょうだいを想う二人の叫びは重陽町の夜を駆け抜ける。

 ――かと思われた。


 しかし、突如起きた大きな揺れが二人の想いを飲み込んでしまった。

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