第一章 冬鷹

第1話

 ゆらゆらと水面に浮かぶなか、郡司ぐんじ冬鷹ふゆたかはゆっくりと目を開いた。


「あー、やっと起きた」


 逆さまな顔に覗き込まれていた。垂れ落ちる髪の間を、雪海ゆきみの小さな溜め息が吹き抜ける。


「お兄ちゃんから遊ぼうって誘っておいて寝るのはナシだと思う」


 中等部一年生らしからぬ幼げな顔が僅かにしかめっ面に歪む。普段、ビー玉の様なクリッとした瞳も、今は細められ文句を伝えていた。

 慌てて起き上がり、冬鷹はプールの壁に背を預けた。


「あ、すまんっ!」

「まあいーですけど……というかさ、寝言で『助け』って言ってたけど、もしかしてまた昔の夢見てたの? 最近多くない?」


 雪海の顔が思案気に歪む。心配させてしまったのかもしれない。


「ああ。まあ『軍』に入るきっかけだからな。自然に考えちまうのかもしれ――ぶッ!」


 突然、水をかけられた。


「ぶわッ! 何をすん――ばッ、だからっ! やめッ――、」

「寝落ちした罰だよ」


 そう言って、尚も水をかけ続ける雪海は満面の笑みを浮かべていた。


「わかった! すまん! だから――、」


 止まない猛攻から非難するべく、冬鷹はプールから上がる。

 ――が、プールサイドには雪海が立っていた。


「逃がしませーん」

 トン、と両肩を押される。


 背中から落とされるとプールに待ち構えていた方の雪海にすぐに羽交い絞めにされた。

 プールサイドの方の雪海は解ける様に水に変わると、すぐ目の前の水が盛り上がり雪海を形作る。

 目の前の雪海が水をかける構えを取るなか、後ろの雪海が訊いてきた。


「どう? 降参する?」

「降参だ、降参。降参します」


 雪海と水で作られた雪海の分身。

 実兄の冬鷹ですら見分けがつかないほど精巧で、違和感がない。そんな高度な異能を雪海はいたずら感覚にいとも容易く繰る。


 この場所――室内のほとんどがプールサイドになっている雪海の自室では、雪海に勝てるわけがない。

 ――というより以前に、冬鷹が『妹』に勝てるわけがなかった。


「ふふん。よし、じゃあダーゲンハッシュのラムレーズンで許しましょう」

「〝エヌ〟に買いに行けってか。しかも高いアイス」

「だって私、街の外行けないし。それに寝落ちしたのは誰ですかぁ?」

「…………あー、わかったよ」

「やった」


 喜ぶ声も束の間、背中にあった妹の身体がスッと無くなる。支えを失い、冬鷹は水に沈んだ。

 すぐ浮き上がる、雪海はすでにプールサイドに腰を掛けていた。パレオとフリルが特徴的な水着が歪んだと思うと、一瞬でホットパンツとTシャツというラフな格好に変わる。


「このあと訓練なんでしょ? はい」


 差し出された借り、冬鷹はプールから上がった。

 訓練の時間まであと三十分弱。着替えや準備の時間を考えるとギリギリだ。

 身体を拭き、真黒な『軍』の制服に袖を通す。

 必死の思いで手に入れたこの軍服も、二ヶ月が経った今ではだいぶ着慣れてきた。


「あーあ、私も早く働きたいなぁ」

「気が早いな。まだ中一だろ。今は勉強を――、」

「何言ってんの!?『もう』中一なんだよ? あと三年したら何するかちゃんと考えないと」

「いやいや、ダメだダメだ。バイトは良いが、働くならせめて高等部を出てからだ」

「お兄ちゃんは『軍』で働き始めたじゃん」

「俺は高等部にもちゃんと通ってる」

「う~ッ! じゃあ私も『軍』に入るし!」

「あのなー……まあ、その話はまた今度な」


 雪海はまたふくれっ面になってしまった。機嫌が変わり易いお年頃に、冬鷹は少々手を焼いていた。


「それより、宿題終わらせておけよ。じゃないとアイスはお預けだからな」

「フンっ! 昨日の内に全部終わらせたし。土日はもう予定が真っ白ですー」


 雪海はそっぽを向いてしまった。


 冬鷹が部屋を後にする頃になっても雪海の機嫌は回復しなかった。だが、「散歩してくる」という事で、パーカー・ミニスカート・キャップ帽、そしていつもしているツインテールという出で立ちに変身して、ぷりぷりとした様子で途中まで付いて来た。


「じゃあな。くれぐれもバレないように気を付けろよ」

「わかってるし。お兄ちゃんも、お仕事がんばってね。あと、アイスよろしく」


 不機嫌な妹が軍本部の裏玄関に向かうのを見送り、冬鷹は訓練室へと廊下を進んだ。

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