インチキ教師が教える聖霊術講義

黒足袋

プロローグ

1

 みんな、歌は好きかい?

 嫌いっていう人はあんまりいないと思う。俺も嫌いじゃない。

 今この緊迫した状況を歌で表現してみようと思うくらいには好きだ。

 ではこの不肖、相馬幸平そうまこうへい。歌わせていただきます。

 ある日、森の中、熊さんに、出会ったー。花咲く森の中、熊さんに出会ったー。

 と、脳内で歌ってみたわけだが。

 目の前にはグルルと鳴きながら荒い息を吐く獰猛な野生生物。

 身長は俺より高く、全身は黒い体毛で覆われている。

 やだやだ、どうせ出会うならもっとリラックスしたような、ゆるキャラ的な熊さんと会いたかった。

 俺は熊と真正面から対峙した状態から一歩でも動くことができない。

 今は相手と目を合わせているから辛うじて膠着状態を保っているが、背中を見せて逃げようものなら即座に追いかけてくるだろう。

 一般的な都会育ちのもやしっ子である俺は、一瞬で追いつかれ死亡確定なのは容易に想像がつく。だからさっきのような歌も脳内に留めるしかない。この状況で歌いだしたら喧嘩売ってんのかワレェとなることは明らかだろう。

 どうしてこんなことになったのか、と俺はここまで来た経緯に思いを馳せる。

 田舎って奴を舐めてたんだよ。まさかバスが半日に一本しかないとは。

 こうなったら学校まで歩いたほうが早いと思ってそこで地元の人に道を聞いたのさ。

 そしたら森の中を通れば近道だと教えてもらった。熊が出るとは聞いてねーぞ、命返せ!

 俺は冷静になって考える。

 もし俺がここで死んだとしよう。その後は幽霊界隈の弁護士を雇い、あの時道を教えてくれたお婆さんに命を返してもらうよう裁判を起こすだろう。

 だがあのお婆さんに返済能力があるのかというと疑問だ。

 そもそも死人を生き返らせる方法なんてないのだから返済能力がある奴なんて世界中探してもおらんわ。

 そんなことを考えてる時点で自分が全く冷静でないということに漸く気付きました、丸。

 落ち着け相馬幸平。クールになれ。

 心は波のように穏やかに、内に秘めたる魂は真夏の太陽のように熱く。自分でも何言ってんのかわかんない。

 俺は顔にかけた黒縁眼鏡の位置を直しながら、肩から提げたショルダーバッグを見る。

 バッグの中に手を入れたら、熊は警戒して襲い掛かってくるだろうか?

 もしそうなら勝負は一瞬。俺はバッグに手を入れて最初に掴んだアイテムを使用することになる。なんか役に立たない文庫本とか方位磁石とか引いたときは、幽霊界隈の弁護士雇ってこのバッグ作ったメーカーに訴えます。命返せ!

 勝負は一瞬! 俺は素早くカバンに手を突っ込む、同時に熊が動いた。

 自分の手が何をつかんだのかは感触で分かった。バッグから取り出したそれを地面に叩きつける。

「オラア!」

 瞬間、辺りを白い煙が覆い俺と熊の姿がそれに包まれる。

 これで俺は相手の視界から消えた。絶好の逃げるチャンス。こんなこともあろうかと用意しておいた煙玉を引いて良かったー。

 グアアアという熊の雄叫びをバックミュージックにして俺は足音を立てないようにしてその場から去った。

 はっはー、生きてるぞー! 俺は生きてる!

 あの熊から逃げて森の奥へ進むこと数分。これだけ離れればもう追ってこれまい。

 ざまあ味噌漬け! 森の熊さんごときに後れを取る幸平様ではないわ。

 改めて俺は鞄の中を確認する。多少の荒事に備えて色々用意してきたが、まさか野生動物に襲われるとは思ってなかった。

 バッグの中の黒い拳銃が目に留まる。さっきはこれを引かなくて良かった。流石に罪もない森の熊さんに怪我をさせるのは可哀想だ。

 しかし随分森の奥に来てしまった。やばいねコレ、来た道も行く道もさっぱりわからないもん。そう思っていた時、近くの茂みがガサガサと音を立てて揺れた。

 ひぃ。ごめんなさい、もう熊は勘弁してください。お願いします、何でもしますから!

 心の準備が整わない俺の前に、茂みをかき分けて音の正体が姿を現す。

 あれっ?

 そこにいたのは俺より遥かにでかい熊なんかではなかった。

 俺よりもずっと小柄な少女が、くりくりした瞳でこちらを見つめている。

 美しい闇色の髪を背中まで伸ばし、前髪を綺麗に切り揃えた彼女からは精巧な日本人形のような造形美を感じる。下はフリルのついた黒いキュロットパンツに、上は英字の書かれたパンクな白シャツに黒いベストを重ねたラフな格好。

 俺が今まで出会った中で三本の指に入るくらいの美少女なのではないだろうか。

 まあ一番可愛いのは間違いなく凛音りおんだけどね。

 さて、森で出会った美少女さんはまるで宇宙人にでも出会ったように不思議そうな顔で俺を見上げてくる。そしてその口から可愛らしいソプラノ声が響いた。

「今、何でもするって言いました?」

「いいい、言ってない! 言ってないよ!」

「はあ」

 咄嗟に誤魔化すも彼女はジト目で俺を見つめてくる。ううむ、さっきのは失言だった。

 ここは話題を変えるしかない。そう思った俺は日本人形ちゃんの肩を掴んで捲し立てる。

「それより大変だ! この森には熊が出るぞ! 危険だから早く帰りなさい。ついでに俺も出口まで連れてって」

 彼女の身を案じて忠告するも、相手は何だそんなことかと言わんばかりの態度で言葉を返した。

「知ってますよ、熊のことくらい。地元の人間ならみんな」

「マジで、俺に道教えてくれたお婆ちゃんは熊の話なんてしてくれなかったけど」

「じゃあそのお婆ちゃんは人間失格ですね」

「やめたげてよ、そんな簡単に人権を剥奪しないであげて!」

 俺が必死に訴えるも、少女は涼しい顔で森のある一点を指さして言葉を返す。

「あなたは地元の人じゃないみたいですね。森から出たいなら向こうへ真っ直ぐに進んでください」

 お、おう。出口を教えてくれたのは確かにありがたいんだが。

「キミは? 一緒に行かないのか」

 そう尋ねると少女は俺から視線を外し、冷たい言葉を放つ。

「私は私の用事があってこの森に来てるんです。貴方に付き合う義理はありません」

 はて、用事とはなんぞやと不思議に思いながら少女の視線の先を見てみる。

 そこにはいた。やたら殺気立った獰猛な野生動物が。

 はっきり言おう。熊さんが沢山いた。

 あのー、違うんですよ。僕が注文してたのはリラックスしたゆるキャラ的な熊さんであって、これ注文した商品と違うんで返品できませんかね?

「ふざけたことばかり言ってると、貴方の命が返品されてしまうかもしれませんよ」

 冷たい笑みを浮かべながら、少女はそんなナイスジョークをお見舞いしてくれた。

 HAHAHA、こいつはバカウケだ。おもしろおもももももももももも。

 あああ、なんか熊さん達が雄叫びあげてるし! どんどん仲間増えてきてるし。ヤバイヤババババババ。

 子羊のようにガタガタと震える俺に対し、少女は微塵も動じた様子なく言葉を投げ返してくる。

「カタログの写真と実際の商品が違うなんてよくあることです。こんな田舎の島に住んでると通販の類を利用する機会が多いですから」

「へー、キミは普段どんな買い物するの?」

 いやいやこの状況で世間話始めるってマジですか? 乗っちゃう俺も俺だけど。

「とにかくここは危険だ、早く森を出よう。うん、そうしようそれがいい」

 言いながら俺は鞄の中に手を突っ込む。ええっと、こういう時のために用意しておいた秘密道具があったはずなんだが。

 一方の日本人形ちゃんは、ニイっと不敵な笑みを浮かべながらポキポキと拳を鳴らしながら言った。

「私がこの森に来た目的は修行の為です。サンドバッグも揃ったようですし、ひと暴れさせてもらいますよ」

 言葉とともに彼女は両手を前に突き出す。その指先から赤い光が生まれ、虚空に魔方陣を描き出す。そしてその魔方陣の中心から漆黒の影が渦巻き姿を現す。

 これはまさか聖霊せいれいの召喚! この子は聖霊術師だったのか。

 ということはさっきの言葉もあながちハッタリではないのだろう。

 あの魔方陣からすごい強い聖霊を呼び出して、熊さん達をバッタバッタと薙ぎ倒してくれるはずだ。

 なんといっても聖霊術師と言えば、将来この国を守るガーディアンとなる存在。

 野生動物なんかに負ける筈がない。

 そんなことを考えていると魔方陣から黒い影が飛び出し、少女の目の前に着地した。

 黒い体毛のモフモフした小さな動物だ。

 ニャーゴ。鳴いた。猫だ。可愛い。強そうには見えない。

「おーい、お嬢ちゃん」

「そこから先を言う必要はありません」

 俺の言葉を遮り、彼女は視線をちらりとこちらに寄越す。

「あなた今、こう思いましたよね? この聖霊弱そうって」

「いやいや、あまりの可愛さに癒されておりました」

 そう答えると、コホンと彼女は咳払いをする。

「教えてあげます。聖霊の強さは見た目では決まらないんですよ」

 おお、そうか。腐っても聖霊術師。無意味な召喚なんて行うわけがない。

 あの猫もきっと小さな体に無限のパワーを秘めていて、熊ごときが百頭乗っても大丈夫って感じなのだろう。

 聖霊術師の少女は熊たちを指さし、猫に命令を下す。

「いけ、サイレント・アサシン! その漆黒の爪であらゆる敵を切り裂け」

 命令を受けてニャーっと猫が熊へと飛び掛かる。

 だが悲しいかな。猫ジャンプで突撃したものの、その高度は熊さんの目線と同じ高さ。

 熊は宙を飛んできた猫に熊パンチをお見舞いし、墜落させてしまう。

 地面に叩きつけられた猫さんは熊の影の中で痛みに震えていた。

 ああっ、可哀想に。

 そんな猫には構わず、熊はこちらに一歩踏み出す。その時、歩き辛そうに後ろ足を引き摺ったように見えた。

「うわあ、弱っ」

 と、正直な感想を口にしたのは俺じゃない。

 こともあろうに聖霊を呼び出した少女本人だ。

 自分の聖霊が弱いと率直に言ってしまったのだ。

 彼女が手を前に突き出すと、黒猫の体は光の粒子となって少女の体に戻っていく。

 どうしようこの状況。

 と、そんなことをやっていたら、にゃんこを叩き落とした熊さんが苛立った様子で少女へと近寄ってくる。

 やばい! そう思ったのは一瞬だった。

 熊は二本の足で立ち上がり、少女の可愛らしい顔めがけて熊パンチを打ち込む。

 それに対し、聖霊術師の少女は体の位置をずらし最小限の動きでそれを躱すとすかさず熊の懐には入り反撃の拳を抜き放つ。

 接近することでリーチの差を埋め、彼女の拳は熊の頬を捉え殴り飛ばした。

 グラリと熊の巨体が揺れ地面に仰向けに倒れる。

 目の前の光景に対して、脳の処理が追いつない。熊に素手で殴り勝つとか、ちょっと意味が分からない。若者の人間離れもここまできたか。

 熊を一体倒した少女は手をひらひらさせて、ふーっと息を吐く。

「やっぱり聖霊なんかに頼らず自分の拳で殴ったほうが早いですね」

 この子、聖霊術師の筈なのに意外に武闘派だ。

 俺はそんな彼女におっかなびっくり声をかける。

「お嬢ちゃんお嬢ちゃん、キミさっき修行と言ったかね?」

「はい、そうですが」

「つまりキミは常日頃から罪もない野生動物に暴力を振るってるわけだな」

 この森の熊さん達がやたら殺気立ってたのはそのせいか。

 武闘派少女は、痛いところを突かれたという顔を見せる。

「えーっと、それはなんというか」

 彼女が目を泳がせながら言葉を濁す。

 とはいえこの状況に収拾をつけないと生きては帰れなさそうだ。

 そして俺は一つの提案をしてみる。

「なあお嬢ちゃん、キミの腕っぷしが強いのはわかったけど修行というからにはやっぱり苦手分野を克服したほうがいいんじゃないか?」

 俺の言葉に、うげっと少女は露骨に嫌そうな顔を見せる。

「つまり、この状況を聖霊を使って切り抜けるというのはどうかな」

「貴方、さっきの私の聖霊を見てもそれ言えるんですか?」

 さっき見た彼女の聖霊は到底強いとは呼べない、可愛らしいにゃんこだった。

 けどそれは聖霊の真の力を引き出せていないだけだろう。

 折角聖霊術師に会ったわけだし、彼女の力の底を見てみたい。

 俺は人差し指を立てて、レクチャーを始める。

「まあ聖霊術師さんには今更説明するまでもないことだろうけど、聖霊っていうのは術師の歌によって力を増幅させることができる。キミは歌は好きかい?」

 その質問に彼女は苦々しい顔で答える。

「嫌いではないですが、戦場のど真ん中で歌えるほど脳内お花畑ではないです」

 ふむ、確かに今俺たちは四方八方を殺気立った熊さんに囲まれている。

 この状況で歌う精神的余裕なんて普通の人間にはないだろう。

 だが聖霊術師はそれをしなければならない。

「なら俺が時間を稼ぐから、キミは歌に集中してくれ」

 言いながら俺は鞄から拳銃を取り出し片手に持つ。

 それを見て少女が息を呑んだのがわかった。

 まあそりゃ銃なんて珍しいだろうね。

「魔法使いが呪文を唱える間、援護するのが騎士の役目だろ」

 そう言って俺は、ニッと笑って見せた。そして彼女に背を向けながら尋ねる。

「そういえばまだ名前を聞いてなったな。俺は相馬幸平、キミは?」

深山みやま静佳しずかです」

 躊躇いがちにそんな答えが返される。静佳ちゃんか。いい名前だ。

 彼女を背に庇う形で俺は熊軍団と対峙し、銃を構える。

 二重の弾丸デュアル・バースト。撃鉄を二つ持つ特殊な構造の黒い拳銃を俺はそう呼んでいる。

 右の撃鉄を起こし引き金を引くと弾丸が放たれ、左の撃鉄を起こして使うと――

 まあ今はこちらを使う必要はないか。

 戸惑った少女の気配を背後に感じながら、俺は銃口を熊さん達に向ける。

 右の撃鉄を起こし引き金を引く。

 銃口から鉛玉が放たれ、熊軍団の間を掠めていく。

 まあ威嚇射撃だ。流石に当てるのは可哀想ですし。

 だがこれで熊さん達の注意は静佳から俺へ引き付けられた。

 熊軍団から視線を逸らさないようにしつつ、俺は静佳から離れ横へ移動する。

 だがそれを黙って見過ごしてくれるほど熊さん達も気が長くない。

 すぐに彼らは地を蹴って俺の回りを取り囲んできた。

 俺は後退って逃げようとするも、背中に固い大樹の感触を感じ足を止める。

 その間に熊達はグルルと興奮した様子で俺を包囲する。

 あーらら、完全に逃げ場が無くなっちまったか。

 でも奴等をこの場所に誘導出来たのだから十分だ。

 俺の背後には背の高い大樹が聳え立ち、青々と生い茂った枝葉が太陽からの光を遮っている。

 熊軍団達は全員、大樹の作る影の中にいた。

 熊ファミリーが今にも俺に襲いかかろうとしていたその時、離れた位置から透き通った歌声が響く。

 その歌は静かな出だしから始まり、やがて激しい曲調へと変わっていく。少女の闘志をそのまま投影するかのような熱い歌詞が森に響いた。

 その歌が最高潮まで盛り上がった時、静佳のいる方向から赤い光が生まれる。

 俺の視線も自然とそちらを向いた。彼女の正面に浮かぶ赤い魔方陣、そこから無数の黒い影が飛び出す。

 十体、二十体、いやそれ以上か? 数え切れないほどの影は熊達の周辺の地面へと吸い込まれていく。

 なんだ? 何が起こっている。

 そこに静佳の声が響いた。

「これが私の魂に宿る聖霊、闇夜の暗殺部隊サイレント・ナイツ・クロス

 言葉と共に、熊達の足元の影から闇色の手が何本も生まれその体を影の中に飲み込んでいく。

 熊達はもがき苦しむが、無数の手に体を押さえつけられては抵抗もままならない。

 そうして熊軍団はたちまちのうちに全員動けなくなり地面へと縛り付けられた。

「ストップ」

 静佳のその言葉で闇色の手は動きを止め、気絶した熊の体を開放する。

 やがて影から伸びた手は熊達から離れ一か所に集まり、姿を変化させる。

 にゃーご、と可愛い鳴き声が聞こえた。

 それはさっき熊パンチで倒された黒猫だった。

 どうやらあの恐ろしい腕は、この猫が化けた姿だったらしい。

 これが彼女の聖霊の真の力。影を操る能力か。影に入り込み、影の中から闇へと誘う。

 もし静佳が止めていなかったら、あの熊達は影の中に引き摺り込まれ、一体どうなっていたのか。

 俺は彼女の方へ振り返り、ニッと笑う。

「はっはっは、やるじゃん静佳ちゃん。俺の目に狂いはなかったね。キミはやればできる子だと思ってた」

 俺の言葉を受け、静佳は腑に落ちない様子で問いかけてきた。

「ひょっとして気付いていたんですか? 私の聖霊の特性に」

「おやっ、何のことかな?」

 そう言って惚けてみせるも、彼女は神妙な面持ちで言葉を紡ぐ。

「私のサイレント・アサシンは影の中に潜んで攻撃するのを得意とします。熊達が木陰に集まってくれたお陰で、狙いをつけやすくなった。貴方はそれを計算してわざと熊を誘き寄せたんですか?」

 そこまで察しがついてるなら隠すこともない、俺はそれに頷きを返した。

「まあな、さっきキミの可愛らしい猫さんが熊に叩き落とされた時、猫が熊の影に倒れてると熊さんが歩き難そうにしてたのよ。

 だからそいつの能力は影を使って相手に干渉するものなのかなって予想がついたわけ」

「たったあれだけの攻防を見て、ですか」

 感心したように彼女は息を吐き出す。

 まあこの程度の観察眼はないと、この先の仕事をやっていけないんでね。

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