わたげとしんごうき

琴月

舞い降りる天使

少年はお散歩をするのが好きです。本当はいけませんが、校区外を一人でこっそり歩きます。お忍びってやつです。体力もそこまでないので、限られた範囲になってしまいますが。たまに貯めていたお小遣いを使って遠くに行く時もあります。

少年は七分丈のズボンをはいています。膝小僧は幼くみえてしまうので隠してしまうのです。少年の額には汗が浮かんでいます。太陽さんが元気になり始める季節。暑いですが我慢します。少年は実年齢より大人にみられることが多いのですが、それでもまだ子どもの領域。だから、精一杯大人っぽく振るまうのです。




今日はどこに行こうか、と少年は迷いません。ぐるぐる悩んでしまっては、楽しさが半減してしまいます。自由気ままに自分が満足するまで歩き続けます。遠足というよりは旅なのです。ゴールを決めない、行く宛のない旅。自分を確かめるために、間違っていないんだと自分を肯定するために行くのです。

この旅にはルールがあります。

その一、バスやタクシーを使ってはいけません

その二、自分を否定してはいけません

その三、絶対に楽しみましょう

とても簡単で、とても難しいルール。少年は自分と約束しました。ルールを破ったその時は――。




今日は少年にとって特別な日。なので電車に乗ってお気に入りの場所に行きます。

駅は少年の家の近くにあります。といっても、少年の歩くスピードでは数十分かかりますが。

往復チケットを買い、売店で朝食を吟味し、自動販売機からココアを取り出して、待合席に座る。それが少年のルーティンです。




がたん、ごとん

揺れる車内と共鳴するように少年の首も動きます。目まぐるしい景色が優しさに包まれ、少年は夢を見ました。

お友だちに名前をつけてまわっている夢です。

真っ直ぐに伸びた飛行機雲には“えいえん”の名前を。

雨上がりの揺れるみずたまりに映る幻想には“ただしさ”の名前を。

荒れた海を漂う小さな小瓶には“しあわせ”の名前を。

切り取られたファインダー越しの世界だけが、少年の遊び場でした。




やけに鮮明なアナウンスの音が響きます。夢から覚める合図なのか、夢を叶えるための合図なのか。

目が覚めた少年は首に下げていた重さがないことに、さみしさを感じました。ぽっかりと空いたドーナツの穴みたいです。

理由はよくわかっています。きらきらの特別を発見できなくなったことも。毎日が退屈だと感じてしまうことも。全部、知っているのです。




目的地に着きました。足早に通り過ぎる人波に気後れしてしまいそうです。そんな時少年は「よしっ」と自分に活をいれます。もちろん、小さい声で。

一歩外に踏み出した少年の瞳が輝きます。

ざわざわと話しかけてくる木々の間。淡い青と紫の綺麗なお花。緑にあふれた公園。大きな石が見え隠れする小川。光を集めたアスファルト。ひらひら飛ぶ蝶を追いかけて、少年は走ります。遮断機に途中邪魔されたりしながら。




さすがに疲れたと少年は木陰に座り込みました。リュックサックから水筒を取り出して、休憩の時間です。深く深呼吸をして息を整えます。

服についた白いふわふわに気づいた瞬間、少年の胸にじりりと灼けるような痛みが走りました。焦がれる気持ちによく似た痛み。少年は必死に思い出そうとします。

たしか、たしか。禁断の果実を齧ってしまったような気分。……禁断の果実といえば美味しそうなりんご。りんごといえば、赤。

「そうだ! 信号は赤だった!」

少年は咄嗟に声を出しました。周りに人がいないか、なんてことを気にするのも忘れて。


お天気のいい日。

電車に乗って一番遠いところにお出かけして。新調したカメラを持ってわくわくする気持ちを抑えきれなくて。容量がいっぱいになりそうなほどたくさん写真を撮って。


次々と少年の記憶が鮮明に蘇ってきます。


夕暮れ、綿毛が赤信号を無視するように、車は迷わず進んできました。わたげがあっさり吹き飛ばされるように、お姉さんも空に舞いました。そして、そして。



天使が舞い降りました。



わたげがふわふわの羽にみえたのは、幻ではありません。少年はその光景を写真に収めたのですから。

茜色に染まる世界は綺麗でした。これ以上、少年の追い求める世界はないと思うほどに。




少年は道の脇にあるわたげを手に取り、願いを込めて大きく息を吹きかけました。

わたげが飛び交うそこに、天使はいません。

少年は静かに泪を流しました。


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