かがみ姫 ―呪いの竜に囚われし、悪魔の姫君―

春瀬りつ

序章

始まりと終わり①


 ウィルが父に呼び出されたのは、午前の教練を終えた後だった。


「イタタ……」


 剣の指南役であるモーリウスは、今年で60歳になるが、剣の腕に衰えはない。

 ウィルだけでなく彼の父親のり役でもあった彼は、父の相談役であり、よき友でもあった。


 ただし、ウィルには容赦がない。


 先日12歳になったばかりの少年は、頬を抑えながら毒づいた。


「くそぉ……あのジジィ……」


 今日も徹底的にしごかれた。

 基礎鍛錬として腕立てや走り込みはもちろん、様々な訓練をさせられた。その上で打ち合いの稽古。

 訓練だけでもヘトヘトの体に、モーリウスは容赦なく木剣を叩き下した。


 打たれ続けた体を撫ぜながら、いつかやっつけてやると思うものの、そんな日がくる事など想像できない。


 ウィルは、剣術がそれほど好きではなかった。


 ……父の元へ向かう廊下、吹き抜けになった窓から空を見上げた。

 まだ昼になったばかりなのに、空はまるで夕方のようにも見えた。

 決して夕焼けなどない、穏やかな青い空であるにも関わらず。


「……お腹減った……」


 父の用は何だろう?


 教練後すぐに呼びつけられた。本当は父の元へ向かうよりもまっすぐに食堂に向かいたい。

 そう思った途端、腹の虫が鳴いた。

 ちょっとだけ待っててと、ウィルは自分のお腹を撫ぜながら思った。


 ◇


 父の部屋は鍛錬所のある城の中庭から3つほど上の階にある。

 コンコンと扉を叩いた余韻が消えるより先に、「入れ」と声がした。


 父の声だった。


 だが、ウィルは一瞬ビクリと肩を震わせた。


 慣れ親しんだ父の声。生まれてからずっと聞いてきた父の声である。

 それなのにウィルは、なぜか一瞬、知らぬ音を聞いた気持ちになる。


 この先にいるのは誰だ?


「失礼します」


 恐る恐る扉を開ける。

 その先にいるであろう部屋の主を、伺うように見上げる。


 父だった。


「ウィル! 来たか」


 紛れもなく、父・ディン・アイゼムがそこにいる。

 ウィルの姿にディンは破顔する。


「ん? どうした?」

「い、いえ、父上」


 ウィルは我知らず顔を赤くした。

 父の声に、何を怯えたんだろう?

 紛れもない、優しく強い父の声に。


「なんだ、またモーリウスにやられたか?」


 頬の傷をみとめ、父は軽快に笑った。


「いえ、父上」

「じゃあどうした」

「……転んだのです」


 下手な嘘をついたと、自分でも思った。

 それでも、なぜかウィルは本当の事を言いたくないと思った。

 剣術は苦手だ。

 この先どんなに鍛錬を繰り返したって、モーリウスに敵う日はこないかもしれない。


 それでも。


 ……それでも。


「そうかそうか」


 父は満足そうに笑い、ウィルの頭をクシャクシャと掻いた。


「泣かなかったか?」

「泣きなどしません」

「そうかそうか」


 泣くなど心外だ――そう思ったウィルの胸を、少し、温かい物が通り過ぎていく。

 それは、父の手の温もりだったのかもしれない。

 父の手の大きさだったのかもしれない。


 12歳の少年の頭をスッポリ覆う、その手は、彼にとって絶対であった。


 かけがえのない――生涯、少年はこの手の大きさと温もりを忘れないだろう。


「ウィル、使いを頼まれてくれぬか? 姉君の所だ」


 その言葉にウィルは声を弾ませた。


「グリス姉上の元ですか!?」

「そうだ」


 ウィルは、年の離れたこの姉が大好きであった。

 小さい頃母親を亡くしたウィルにとって、ただ一人の姉は、母親同然でもある。


 彼女が嫁いだのは昨年。その際は、嬉しい反面淋しくてたまらなかった。


「これをグリスに届けてくれ。中に書がある」


 そう言って渡されたのは、アイゼム家の獅子の紋章を象った包みであった。


「今たてば夕刻には着けるだろう。ゆっくりしてくるといい」

「父上は、」


 行かれないのですか? 不意に問いかけ、ウィルは黙った。

 察したように、ディンは笑う。


「グリスによろしく伝えてくれ。今年の葡萄酒は、おそらくよい出来になるぞと」

「はい」

「……気を付けて」


 もう一度、父はウィルの頭を撫ぜた。

 先ほどより優しく。

 触れるのは、まるで風であるかのように。


「ウィル、」

「……え?」

「いや……何でもない」


 ――強く、な。


 そんなふうに言われた気がしたが。

 父はそれ以上何も言わなかった。

 ただ笑って、少年を見送るばかりだった。


 幼いウィルは、ただ、父の笑顔が嬉しかった。

 ……それ以外、何も感じようがなかった。


 ◇


「ウィル様、急がれませ!」


 姉の元へ向かう準備は、予想以上に慌ただしいものだった。


「待って、待って」


 と言っても、誰も待ってはくれない。

 特に急かしたのはモーリウスである。

 父の命で一緒に来ると知り、ウィルは心底ゲッソリした。


「僕一人で行くからいいよ」


 と言っても、


「何を仰せか」


 一蹴される。


「夕刻までにはエイリーヴ領へ参りましょうぞ」


 エイリーヴ領は、姉が嫁いだ所である。

 大好きな姉君に会える……! モーリウスがついてくるのは不服だったものの、姉の笑顔を思い出して、飲み込む事にする。


 手早く昼食をとり、荷物をまとめる。

 パンパンになった横掛けの鞄に、最後に、父から預かった荷物を詰める。


 これは一体何だろうか?


 小箱のようだった。ウィルの両手を合わせても少しはみ出る大きさだ。

 中身は気になるが、もちろん開けたりはしない。


 大事な物なのだろう。ただそれだけを思った。


「ウィル様! 参りますぞ」


 押しかけて来たモーリウスに追い立てられるように部屋を出る。


「あ、待って」


 扉が閉まる間際、ウィルは思いついたように部屋に戻った。


「馬車を待たせておりますぞ!」

「うんうん」


 部屋の隅にある机の写真立てを掴む。

 そこには父と母、幼い姉、そして歩き始めたばかりのウィルの姿が写っていた。

 姉に見せてあげようと、それだけを思った。


 写真立ては鞄には入りきらなかった。中身を抜いて、丁寧に隅に差し込んだ。


「行こう」


 もう振り返らなかった。

 足早に行くモーリウスの後を必死に追いかけ、馬車へと向かった。


 ◇ 



 ウィルとモーリウスを乗せた馬車は、城の裏口から滑るようにして走り出した。

 父は走りゆく馬車をそっと見送る。

 滑走の中、ほんの少し振り返り見た生まれ育った城は、やはり夕の日差しを浴びているように思えた。

 

 今日の最後の、名残日のような。


 家路を急ぐ、人々の姿と。

 帰りを待つ人の姿。

 温かいご飯と。

 安らかな温もり。


 ……帰りたいと、ウィルは思った。


 遠くなっていく父の城を見ながら少年は少し不安に襲われた。


 残しゆく父と。

 残しゆく故郷と。


 二度とは戻れぬ、今という時間に。

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