12.2 自分のもの、かつ客観的身体(下)
そしてエウドキアはドルフィン8に目を移した。
ドルフィン8も九木崎に移されていた。潜水装備は外して、手足を伸ばした状態で床にうつ伏せに寝かされている。
「リーザ」エウドキアは機体の頭や胸に触れる。ゆっくりと外板を撫で、埃を払う。そうして滑らかになった表面にまた指先を触れる。両手を押し当て、耳を近づける。返事はない。
エウドキアはドルフィン9の前を回って舞子のところまで歩いた。舞子は組んだ腕の上に額を置いて顔を伏せていた。座ったまま眠っているみたいだった。
「煮雪さん?」
舞子はびくっと体を起こした。足音が聞こえなかったらしい。エウドキアを見上げる。目が覚めている時より瞼の皺が深いように見える。
「なに?」
「リーザの状態を聞きたい」
「循環器も動いているし、脳波もある。眠っているのよ」舞子は前髪を直しながら答える。「でもコクピットまで水が入っていたし、洗うには洗ったけど、目覚めるかどうか、障害が残るかどうか、それはわからない」
エウドキアはドルフィン9の機体の踵の横に立って昇降用の取っ手や足がかりを見上げたあと、何度か手を握って結局キャットウォークの階段を上がった。登る自信がなかったようだ。
ドルフィン9のコクピットに頭を突っ込んで空になった砂時計のパネルを確認する。それは引き出されたまま虫の抜け殻のように放置されていた。外部からの操作が効かない以上仕方がない。今このF12は誰の機体でもなかった。
エウドキアはシートに腰を下ろし、「今の私になら、まだこの機体を動かすことができるでしょうか」と首筋の後ろに手を当てて訊いた。そこには窩がある。「彼らと同じように」
「潜るのは構わない。でもその体がきちんと自分のものになるまで待った方がいいわ」舞子はキャットウォークの段付き桟橋に座って待っていた。両膝を機体の方へ倒してコートの裾を脚の上にかけている。
「なぜ?」
「なまじっか他の体の感覚が入ってくると本来の体に戻るのが難しくなる」
「戻る?」
「一種の意識障害。少なくとも実際潜る人たちはよくそういった表現をするの」
エウドキアは腰を上げ、シートに膝立ちして背凭れに抱きつく。ちょっと気づいてヘッドレストの匂いを嗅ぐ。
「煮雪さんは松浦さんのことに詳しいですか」
「どうかな。私がここへ来て以来四年の付き合いになるけど」舞子は体の前で手を組み合わせる。「何を聞きたいの?」
「彼は人間なのですよね?」
舞子はちょっと吹き出した。
「いえ、純粋に」エウドキアは冷静に切り返す。
「純粋に。ええ、全く」舞子も調子を戻す。
「社交的な性格なのでしょうか」
「社交的……かな。付き合いは悪くないけどあまり自分から話しかける方ではないわよ」
「積極的ではない」
「ええ」
エウドキアは質問をやめた。でも舞子はちょっと振り返る。何のために訊いたのか気になったようだった。
「だとしたら懐いているのだ、と思ったのです。私がこっちへ来てから、彼ほど私に懐いている人間は他にいない」
「なつく」舞子は低い声で平板に復唱する。首を傾げながら顔をやや俯けてエウドキアの目を見返した。
「多くの人間は私との間に隔たりを設ける。多かれ少なかれ。そしてそれはたぶん正しく、事実に即している」
舞子が何か言おうとしたところで誰かが連絡通路の扉を叩いた。舞子が立ち上がって扉を開けに行く。
「青藍さんの部屋に行こう。電話が来たよ」
エウドキアもコクピットをロックして二人のところまで歩いてくる。それから所長室へ歩くまでの間、エウドキアはドルフィンが装備していた水中推進器のことを訊いた。
その調査は九木崎ではなく中隊の受け持ちになっていて、確かに彼女の言った通り船殻の中にダイオウイカの怪獣みたいな生体ポンプが仕舞ってあった。海中のプランクトンを餌にして消化できる器官があるというのも本当で、どうやら燃料や空気を気にせず使える動力の研究の産物らしかった。でも結局調べている間に中身がだんだん弱ってきて、そのうちいくら電気で刺激しても動かなくなった。最終的にとてつもない異臭を放ちながら腐ってしまった。解体作業は内部公開されたけど、みんなマスクとゴーグルをして鼻声で喋りながら、白くつるつるしたゴム状の塊をマグロ用の長竿みたいな包丁で切り分けていた。聞いた話ではそのあと風下に民家のないどこかの演習場に運んでガソリンをまぶして焼却処分したらしい。辺りは縁日の屋台と同じ匂いがして、焼け残った肉にトビとワタリガラスが群がって取り合いながら食べ散らかしていたそうだ。
所長室に入った時、部屋の中にいるのは用心棒の鹿屋だけだった。ドアを開けてすぐ横が彼のデスクだ。彼はコントローラ型のゲームパッドを置いて挨拶代わりに右手を軽く上げた。日に焼けた赤いヨットパーカーを着ている。平日でもかなりラフな私服だが、今日は一段とラフだった。女史は煙草を買いに出ているそうだ。
「腕の調子は」松浦は鹿屋のデスクに尻を片方乗せるくらいにして訊く。九木崎女史はまだ帰ってこなさそうだった。「こういう仕事だと困るよな」
「お前が言うのか、それ。まあ、動かしても耐えられるくらいの痛みになってきたよ」鹿屋は答えた。
「今は痛まないのね」舞子が訊く。
「うん。痛み止めを飲んでいれば何も感じないくらいだな」
エウドキアはその腕の上に手を置いてギプスの感触を確かめるように撫でる。
「かわいそう」エウドキアは言った。
「それはどうも」と鹿屋。
「傷、見てみたい」
「傷?」
「撃たれたでしょ」
腕は固められているが銃創と骨折が一緒になっているので外傷のところに窓がついている。鹿屋は少しガーゼを外してみせる。エウドキアは顔を近づけ、ぐるりと角度を変えて覗き込んだり、匂いを嗅いだりする。
「痛むの?」エウドキアはまた鹿屋に訊いた。
「消毒の時はね」
「勝手に治るって便利ね」
「治るまでが辛いんだよ。機械みたいに交換できたらいいのにな」
「腕ごと?」
「そう」
「でも小さな傷だったら気にしないでしょ」
「ちょっとした火傷とか、浅い切り傷くらいならな」
「そう、そういうのがすごく気掛かりなんだ。勝手に治らないとなると」
「機体の?」
「うん。擦り傷つけたくないなってずっと気にしているの。特に足回り」
「うちにも口うるさい教官がいるわね、そういえば」舞子はちょっと苦笑する。
「おまえも整備士に小言を言われてたのか?」鹿屋はエウドキアに訊く。ガーゼで傷に蓋をして袖の捲りを元に戻す。
「ううん。傷があろうとなかろうと塗り直すから。私は自分で気にしているだけ」エウドキアはそう答えて自分の掌を目に近づけて注意深く表面を観察した。
「この肌なら刃物には注意してもらいたいけど擦るのはあまり気にしなくていいと思う」と舞子。
九木崎女史が扉を開けて入ってくる。鹿屋を残して三人は奥に進んで、対面置きのソファの片側に松浦とエウドキアが並んだ。
「ごめん、工場にいるって聞いたからもう少し時間がかかると思ったんだけどね」女史はデスクの向こうに回って煙草の箱をとりあえず引き出しに入れる。それからその場でエウドキアの顔をしばらくじっくりと眺めた。「見違えるじゃないか。それなら人混みに混じってもわからないよ」
エウドキアは首を振る。謙遜ではない。否定だ。
「人の形を手に入れたんだ。どこか行きたいところがあるかもしれないが、しばらくはここに留まってもらわなきゃいけない」
「当面はここに置いてください」
「うん。世話人は彼に頼んでいいね?」
「はい」
「いい?」女史は松浦に訊く。それからデスクの上のノートパソコンを二人の方へ向けた。ディスプレイの上についた埋め込みカメラの作動ランプが青く光っていた。「あと、紹介しておこう。タリスだ。肢闘の運用データ収集と子供たちのカリキュラムの管理をこのコンピュータに任せている」
「あなたにはブロンドの方が似合うと思っていましたけど」とタリス。
「いいの。あまり目立ちたくはないし」エウドキアが返す。
九木崎女史は短く首を傾げた。眉を少し持ち上げる。この両者はどうも初対面ではない。
「あの、九木崎さんに訊くのが正しいのかわからないですけど、私の追手はどうなったんでしょうか」
「死んだ三人のことなら、遺体はきちんと国へ帰ったよ。政府間の交渉が上手くいかなかったから樺電経由だけど。ああ、樺電というのは海底通信なんかをやってるうちの親会社で、ロシアと日本の資本が入っててコネクションがある」
「あ、いえ、まだ身の危険があるのかと思って」
敵対していた相手とはいえ、エウドキアは人間の命なんか気にも留めていなかったのかもしれない。そういう口調だった。喋り慣れていないせいではないだろう。
「ああ、そう」九木崎女史はちょっとはっとして口を開けた。「それなら心配ないと思うね。先方とはきちんと取引したからね。きちんと。やはり樺電がよく根回ししてくれた」
「取引き?」
女史はちょっと微笑する。「それをきちんと話すのは骨が折れる。とにかく、もう追われることはないし、サナエフの研究についてこちらがこれ以上詮索することもない。少なくとも詮索した情報が表に出ることはありえない」
九木崎女史は話に区切りをつけるために一度背筋を伸ばし、机の袖から紙っぺらを何枚か出して二人の前に並べた。仮上陸許可証、在留資格認定申請書、難民認定申請書、九木崎から入国管理局に宛てた紹介状。
「この国で亡命というと、難民の扱いになるんだね。騒ぎが収まったら帰りたいという気持ちもあるかもしれないが」と女史。
「どうでしょう」エウドキア。
「実際、しかし難民申請なんて通るものじゃないんだ。ぽっと乗り込んできたロシアの軍人にひょいひょい出したらさすがに角が立つ。クルド人コミュニティが黙っちゃいない」
「わかります」
「だから滞留資格にしておこう。普通の難民が頼むにしてもこっちの方が通りやすいんだ。入管へ行って、まずこれで証明書を貰って、在留カードを交付してもらう」
エウドキアはペンを取る。でも手を浮かせたまましばらく下ろさない。松浦が裏紙のボックスから何枚か持ってきてエウドキアがそこに試し書きする。ペンではなく自分の手を確かめている。初めて字を書くのか。キリル文字のブロック体と筆記体、ローマ字、カタカナと色々試す。
「エリザヴェータは」エウドキアは試し書きの間にふと気づいて訊いた。
「彼女の存在をロシア側に打ち明けられない事情があるからね。少々搦め手を使うけど、お役所のトップには話を通しておくから」
「入管と法務省のローカルネットワークに……」エウドキアは少し驚いていた。
「他人には内緒だよ」
エウドキアは頷く。書類に本番を書いてペンを置く。結局キリルのブロック体だった。
「九木崎博士」とエウドキア。
「何?」
「エリザヴェータにも私と同じように義体を作ってくれませんか」
「うん。私はいいけど、舞子は」
舞子も何度か肯く。「私は以前からそのつもりでした。改めて頼まれるようなことではないと思っていたけど……。ただ義体の造りが彼女のもののままでいいのか、もちろん私自身もういくつか課題は見つけていますけど、本人に使い勝手の良い悪いを多少とも聞いてからにしたくて。なので並行では製作しなかったの」
「わかった」九木崎女史はちょっと笑った。舞子の反応が面白かったようだ。「幸い樺電は君に恩を売っておきたいようだからお金は出してくれるよ。ただ昏睡のまま体を移すのは勧めないな」
「私もそう思います。でも、移さなければいけない時がいつか来るかもしれない。それか、体を動かしてやって、脳に刺激を送れば目覚めるかもしれない。それなら人の大きさの方が扱いやすい」とエウドキア。
「一理ある。体が損傷したままだから目覚めないのかもしれない」
「健全なら目覚める、というのでもないでしょうけど」
「どちらにせよ、彼女を救うには君の力が必要だね」
「わかっています」
結局、あらゆる意味でエリザヴェータに最も近いのはエウドキアなのだ。
「ただし舞子は明日明後日と休みにしなさい。それから、今言った通りエリザヴェータの義体にはエウドキアのフィードバックを十分に行うこと」
九木崎女史の部屋を出てすぐのところでエウドキアは「外に出たい」と言った。三階から山と反対側、二階の屋上に出た。傾斜に合わせて階がずれているから、平屋の建物がほんの少しずつ重なっているような造りなのだ。
「空が遠い」エウドキアは上空を見上げてそう言った。雲のない晴天だった。白い太陽が全天にまんべんなく光を放射している。その傍にあるはずの月の影は蒸発して見えない。
松浦と舞子の二人もつられて真上を見る。そこだけ大気のヴェールが薄いみたいに天頂だけがぼんやりと深い紺色に透けている。深い海と同じ。今立っているのが世界の天井で、その深みに向かって真っすぐ落ちていけるような。
「世界がこんなに大きく見える」エウドキアは呟く。彼女にしてみれば世界は本来もっと小さなものだった。「前はもっと遠くのものが見えていた。もっと遠くの音が聞こえていた。今ではもうそれが感じられなくなってしまった」
「不安なのね」舞子。
「あるいは、少し」
舞子は松浦の視線を窺って、ほんの少し迷ったあとエウドキアの肩に後ろから手を触れた。エウドキアには舞子の肌の感触もその熱も伝わらないだろう。でもどうやらそれがわかっていても舞子は行動しなければならなかったようだ。もしかしたら松浦が同じように、あるいは何かしら別の形で、エウドキアに慰めを与えるところを見たくなかったのかもしれない。
その時松浦が何を考えていたのかはわからないけど、結果的に彼は横に立って両手を自分の脇に差し込んで温めているだけだった。
エウドキアは肩にある彼女の手に指先を触れる。でも顔はやはり冷たく正面を向いていた。
「エリザヴェータのための義体にはもっと性能のいいセンサーをつけるわ」舞子はエウドキアの耳元で言った。そして離脱。松浦を見る。「じゃあ私は研究室に戻るから、あとはよろしく。何かあったらすぐに電話して」
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