4.2 朔月へのトランジット
その日の夕方、九木崎女史から松浦に電話がかかってきた。松浦は寮の部屋で靴を磨いているところだった。指の下の方を使って汚さないように携帯電話を開く。
「同伴を頼みたいんだ」女史は言った。
「どこへ?」松浦は答える。電話を耳と肩の間に挟む。
「船の上、と言っておこうか。二十分後、九木崎の玄関に。防寒だけはしっかりしてくるように」
松浦が支度をして山を下りていくと九木崎本部棟の車寄せの屋根の下に黒いスープラが待っていた。女史はリアに寄りかかって煙草を吸っていた。オリーブの作業服、ブーツという実用重視の恰好にロングコート。松浦を見つけると二口くらいで残りを吸い切って助手席のドアを開け、コンソールの灰皿に吸殻を押しつけた。
運転席には用心棒の鹿屋が座っていた。長身なのでちょっと窮屈そうだ。こちらは普段着に赤いジャケット。松浦と鹿屋は片手を上げて学生みたいな挨拶を交わした。
「私は後ろでいい」九木崎女史はそう言って助手席を倒し、ほとんどただの窪みといってもいいくらい狭い後部座席にするりと乗り込んだ。松浦はいささか遠慮がちに助手席の背凭れを戻す。車内には小さな音でラジオが流れていた。
「海自がF12を拿捕したって話は?」九木崎女史が訊いた。
「……いや。F12って、肢闘の?」松浦は訊き返した。
鹿屋が車を出す。九木崎女史は横向きに座って脚を伸ばし、背凭れの上に腕を置いて松浦に事情を教えた。空はどんどん暗くなり、いつの間にか日は落ちて円い月が昇り始める。灯りをつける。ヘッドランプがボンネットからせり上がる。
「
「青藍さんなら話が通じる?」松浦が訊き返す。
「機外に出られないっていうのは、確かに人が乗っていないからなのかもしれないね」
「無人機が亡命って……」松浦はちょっと可笑しそうに言った。「ある意味タイムリーだけど」
「うん。人が乗っているにしては潜水が長すぎる。さほどキャビンが広いとも思えないし」
「自律機だとして、亡命なんて判断はあまりに高度だ。そんなAIが育っているのだとしたら、日本はとてつもない後れを取っていることになる」
「そうだろう。しかし妙な感じもするね。今回のプログラムを主導しているのはうちじゃなくて陸自だからね。呼びつけるなら賀西の方が筋が通るはずなんだけど」
松浦は難しい顔をして中指と薬指の先で額をぐりぐりと擦った。そのままちょっと考え事をして「で、どうして俺が」と訊く。
「ロシア語の成績が一番いい」九木崎女史は答えた。
「情報部にはもっとできる人たちがいるはずだ。それに、成績がいいからって話せるとは限らない」
「肢闘のパイロットだ。相手も肢闘だよ」
そのうちラジオニュースも同じ話題になった。「海上自衛隊がロシア軍の潜水艇を拿捕した問題について政府は首相別邸に対策室を設置し……対してロシア側は駐露大使を呼び出して抗議するとともに……」といった速報扱いだった。
空自千歳基地のゲートをくぐり、まるで大富豪みたいにエプロンまで車で乗り込む。連絡機のMU-2が待っている。そこで鹿屋にスープラを任せて、九木崎女史と松浦はインカム付きのヘッドホンをしてMU-2に乗り込む。海峡を越え、大湊で海自のSH60対潜ヘリに乗り換えて日本海に出る。キャビンの中で黄色い救命胴衣を装着する。低い雲を抜けると上空は寝室のように穏やかで、満月が雲海を照らしていた。時折高い雲や雲の谷間の中に青い放電の光が見えた。
再び雲の下へ潜る。まず朔月の赤と緑の航法灯が見えた。着艦のためにSHが艦の周りを旋回し始めると、その前照灯に照らされて艦の航跡とドルフィンの白い姿が浮かんだ。ワイヤーで引っ掛けたまま曳航しているのだ。朔月にはドルフィンを水揚げするためのクレーンも甲板もない。
SHが飛行甲板に降り、ドリーが機体下部の突起を掴んでがっちり甲板に押し付ける。エンジン・カット。ローターの迎え角を大きくして抵抗で止まるのを待つ。海は真っ暗で波の形も見えない。そこに水があるのか、それとも底なしの闇があるのか、それさえ判別がつかなかった。分厚い雲の層が月を隠していた。
青い作業着の士官が出てきた。ドルフィンが浮上してきた時にロシア語で対応したのと同じ人物だ。艦長との引き合わせもなしに発見した時の状況を聞かせながら飛行甲板から艦尾へ下った。揺動はさほどのものではない。手摺に掴まらなくても移動できる程度になっている。
「この艦はどこに向かっている?」九木崎女史が訊いた。
「あと二時間ほどで海峡を抜けます」ロシア語の士官が答える。
「そのあとは」
「室蘭港に入る予定です」
士官が手持ちのランプをつける。霧の中に白いウェークに挟まれたドルフィン9がぼんやりと見えた。九木崎女史が双眼鏡を借りて細部を見る。すぐに松浦に代わる。
「有線電話が通じてます。これを」と彼はヘッドセットをひとつ渡す。
「ラジオでも言ってたが、ロシアが外務省経由で強制送還を要請してきたそうだ。いや、正確には亡命の拒否を要請してきたんだが」九木崎女史はヘッドセットをつけながら松浦に言った。
女史は通話スイッチを入れて声を吹き込む。
「聞こえるか」
「聞こえます」とドルフィン9は喋った。若い女の声だ。日本語だった。
横にいた士官と松浦が揃って「あっ」と呟いた。二人してロシア語を話す心の準備をしていたのだ。ドルフィンは曳航されている間にどこかから翻訳ソフトを拾ってきてインストールしたのだろう。
「九木崎青藍。そちらは」女史は訊いた。
「エウドキア・ロプーヒナ」ドルフィンは答える。
「それが名前か」
「はい」
「もう一人いるな?」
「エリザヴェータ。二十二時間前にイリューシン38型哨戒機の爆雷攻撃を受けてから意識が確認できない」
「浮上できないのか」
「整流用カウルの水タンクに穿孔して排水できないようです。領海に入ってから助けを求めるつもりでしたが、曳航していると私の方も喫水が深くなって発電できない」
「太陽光パネルか」
「左様です」
波が艦を揺する。九木崎女史は足踏みのように自分の立ち位置を確かめる。
「私を呼んだ用件は」女史はドルフィンに質問を続けた。
「ナゴフ博士が日本へ行って九木崎青藍に助けを求めなさいと言った」
「助け、とは」
「私たちの保護でしょう」
「なるほど」
「九木崎博士」ドルフィンが呼んだ。少しだけ改まった調子だった。
「どうした?」
「私たちは上陸の後の移動をそちらに委ねることになるのでしょうか」
「うん? 君に自走させないという意味であれば、それは確実だろう。陸送か空輸か、それは私もまだ知らないが」
「どこに陸揚げされるのでしょうか」
「小樽だよ」
それを聞いてロシア語の士官がぎゅっと眉間に皺を寄せた。さっき室蘭だと教えたばかりなのになぜ小樽なのか。女史が通話スイッチを切ったので一度だけ瞬きをしてすぐに表情を戻す。
「通信を使わせてもらえるか」女史は士官に訊いた。
「はい、ブリッジへ」
九木崎女史はヘッドセットを松浦に任せて艦橋に向かった。千歳に何か指示を出すつもりだろう。艦の無線なら暗号で送ることができる。
艦尾には松浦だけが一人残される。手摺に掴まり、目を細めて曳航用ワイヤーの先をじっと見定める。ドルフィン9の姿はほとんど闇に紛れていて、波に当たった時の飛沫でようやく存在が確認できる。厚い雲の切れ間から獲物を狙う猫の目のように時折月が姿を現す。手前に黒い雲が流れていて全体が見えることはほとんどない。大気の具合のせいで妙に黄色く見える月だった。
「そうか、肢闘そのものなのか」松浦はヘッドセットを耳に合わせながら訊いた。
「ええ」ドルフィン9が答える。
「つまり、体一つで逃げ出してきたことになる」
「あなたは」
「陸上自衛隊第七特科連隊第一肢闘中隊、松浦要曹長」松浦は軽く踵を合わせて敬礼。「レイテナント・ロプーヒナ、貴官の名は先程聞いた」
「どうぞ、よろしく」ドルフィンはちょっと戸惑ったように細切れに発音した。
「こちらこそ」
「……いえ、体一つじゃない。色々付属品があって。なにしろこれがないと海を泳げないから」
「それ、スクリューじゃないみたいだが」
「ポンプなの」
「ポンプ?」
「しかも生モノ」
「え、生き物が引っ張ってるのか?」
「引っ張ってるというか、入ってるのよ。両側のケースの中にイカの細胞を培養して作ったポンプが入ってるの」
そう聞いて松浦はまたワイヤーの先をじっと見つめた。
「上手くイメージできないな」彼は呟いた。
「どうして?」
「つまり、イカそのものじゃなくて、人造イカなんだ。それってすごい技術なんだろうし、というか、ちょっとグロテスクじゃないだろうか」
「生き物を弄ぶみたいで、グロテスク?」
「少し」
「スクリューやウォータージェットの方が普及していて、つまり、それが当り前じゃないからではなくて?」
「どうかな」
「ふうん」
「燃料は?」
「筋肉の塊みたいなもので、プランクトンの多い海なら勝手に食べて、あとは電気刺激だけで動いてくれるの」
「いまは休んでいる?」
「うん。弛緩している」
「なるほど」
松浦は手摺の支柱に掴まりながら一度しゃがんだ。だがすぐにまた立ち上がった。船の揺れが好きではないのだ。できるだけ揺れを感じない体勢を探そうとして結局立っている方がマシだと判断したようだった。
「何度か写真で見たことがあるけど、F12というのはなかなか綺麗なデザインをしていると思う」松浦はヘッドセットを直して続けた。少し寒いのか脇の下に指先を挟み込む。「制約のないのびやかなデザインだ」
「あなたは肢闘に乗るの?」
「パイロットだ。九木崎の肢闘はあくまで人間が乗って動かす。コンピュータの役割はまだ補助的なものに過ぎない。その点ではサナエフに一歩開けられていることになる」
「なぜ?」
「え?」
「もしかして私をAIだと思っていたの? ……AIって、コンピュータープログラムのことでしょう?」
「だろうね」
「人の手が加わっただけの生体脳はAIに含まないでしょう?」
「うん。でないと俺もAIになってしまう」
「それなら私もAIではない」
松浦はまた難しい顔をした。
「私はヒトの脳を持っている。どこにそんなに驚いているの?」
「人が乗っていなくて、脳は生身だというのは、肉体がなくて、神経系が直接肢闘に、というか投影器に繋がれているということなんだろうか」
「そうなるでしょうね。それにしても驚いた。あなたは相手がAIでも貴官だなんて呼ぶんだ」
「どちらにしろ君の方が階級は上だ」
「君、ね。それでいいよ。あなた喋りづらそうだったもの。それに私は軍隊の階級ってあまり面白いものだと思わないから」
「そうかな」
「私がどんな階級だろうと私の扱いは変わらないから」
「それは、今この状況で、という意味?」
「いいえ。軍隊の中で、という意味」
九木崎女史と、その後に少し遅れてロシア語の士官が戻ってくる。松浦が振り返る。
「時間みたいだ」ドルフィンは言った。「ねえ、電話番号を教えてくれない?」
松浦は自分の携帯電話の番号を思い出してマイクに吹き込む。
「またゆっくり話しましょう、松浦さん」
「俺もそう望んでいる」そう言ってヘッドセットを外し、マイクのスポンジを手で掴んだ。「青藍さん」と後ろに呼びかける。
「なに?」
「ドルフィン9は無人機じゃなかった。人間なんだ。少なくとも、もともとは」
「そう、だから人間の名前だったのね」九木崎女史は何の動揺もなく答えた。
「……知ってたのか」
「ん?」
「いや。何も」松浦は首を振る。
「まだドルフィンと話したい?」
「でも何か用事があるみたいだ」
「うん。夜食にしよう」
士官がヘッドセットを預かり、曳航ワイヤーから電極を外す。艦内に入って甲板を下り、士官食堂で席につく。松浦は下士官だが、どちらかというと九木崎女史の随伴という立場の方が強いのだろう。ちょっとふざけているのか給仕係はむしろ他より恰好をつけて松浦の前に皿を置く。白いクロスの上に青い縁の白い皿。二つ折りのオムライスとコップ一杯の牛乳。ほとんど真夜中なので部屋の中の空気はどことなくまどろんでいて誰も活発に喋ったりしないのだけど、ただ、一度哨戒機がドルフィンを捕捉してから見失ったのは海防体制の穴ではないか、という議論はあった。これには艦長が反論した。
「失探の報告の後に座標の指定があっただろう、あれはきっとかなり正確な接触予測で、実際はSSが追尾していたんじゃないか」
SSというのは潜水艦のことだ。確かに潜水艦は海面に出なければ通信もしないし、水上艦の方も滅多にアクティブ・ソナーは打たないから聴音頼みだ。つまり潜水艦の隠密性というのは味方にとってもそのレベルのものなのだ。ごく限られた部門だけが行動を把握していて、他の艦艇は手持ちの情報でだいたいの推測を立てるしかない。
その話題の後は肢機の開発や配備に関して九木崎の二人にいくつか質問が向けられた。こちらは出先でするいつもの話だ。まあ、相手にとっては新鮮な話かもしれなかったが。
寝室も士官用を割り当てられる。デスクもロッカーも空。元々空室らしい。女史がベッドの下段を取る。松浦は上段に登る。
「気は遣うなよ」と女史。
「はい」松浦も短く返事をする。
「四時間くらいは眠れるだろう。それではまた明日」
「おやすみなさい」松浦は枕の上にタオルを広げて寝そべり、体の上でベルトを留めてカーテンを閉める。
携帯電話を開く。左上の電波表示は圏外。タリスの声を聞くことはできない。左肩を下にして目を閉じる。体の下から伝わってくる物音もやがて消える。あとには天井のパイプを通る水や空気の震えと機関の遠く低い唸り、そして波の揺れが残る。いつまでも残り続ける。それが消えていくのを待つことはできない。その中へ溶けていくしかない。暗く重たい波の下に眠りの深度がある。ドルフィンもまた同じ波の下へ潜っていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます