第七話 熊田屋 後篇

「いかん!」

 龍之介の叫びを耳にするより早く、晃志郎は笄を抜き左手に構える。土屋の放った赤銅色の光の粉が、壁にかかった掛け軸に僅かに降りかかると、ぐわんっと大気が歪んだ。

「術者に悟られた」

龍之介の顔が厳しくなった。

 晃志郎と龍之介、そして土屋は番頭を下がらせ、部屋に進み出た。急速に部屋の温度が下がっていく。

平太の背後に重なるように黒い影が蠢く。

 ゆらり。平太は、痩せ衰えた身体で、のろのろと立ち上がった。目は開いているが、視点は定まっていない。

 平太の意志ではない。平太の身体は、晃志郎が還した呪術だけではなく、何者かの悪意に蝕まれている。

 彼の病んだ心は、見えぬ糸で術者とつながり、虚冥の力を送り続けていると思われた。彼の心がすべて虚冥に取り込まれれば、平太に死が訪れ、術者は暗黒の星蒼玉を手に入れるであろう。

「術者から切り離しましょう。このままではこの男は虚冥に喰われます」

「馬鹿な! 切り離したら、術者を追えなくなる!」

 晃志郎の言葉に、土屋が反論する。

 土屋の言うことは正論だ。術者を切り離すということは、手がかりを放棄するに等しい行為である。

「今ならまだ間に合う。切り離さねば、この男は死ぬ」

 晃志郎は、龍之介の顔を見た。

 四門の使命は、術者を追う事だ。しかも、平太は罪なき市民ではない。鳩屋の親子を恨み、呪術によって苦しめた本人である。その生命を積極的に救わなければならない義理はない。

「救えるか?」

 龍之介は、晃志郎に問う。晃志郎は静かに頷いた。

「水内様?」

 土屋が抗議の声をあげた。

 龍之介は、土屋を手で制す。

「目の前で虚冥に喰われては、目覚めが悪い」

 言いながら、龍之介は懐から数珠をとりだす。

「それで、どうする?」

 晃志郎は、部屋に歩み出た。塵一つないはずの畳に滑らせた足の裏に、ヒリヒリと刺すような痛みが走る。部屋の温度がぐんぐん下がり、畳に霜が降り積もってきた。

 救うと決めた以上、後戻りは許されない。

「切り離すと、場がゆらぎます。結界を強化しておいてください」

「承知」

 龍之介の応えを聞く前に、晃志郎は、笄を額に当てた。

 そして、笄にふっと息を吹きかけた。

「断糸」

 晃志郎の言葉とともに、まばゆい光が、部屋に弾けた。


龍之介は、晃志郎の言った『場の揺らぎ』を感じた。軽い立ちくらみのような感覚を感じつつ、土屋の作った結界に自らの念を絡ませる。

 弾けた光は、収束して一羽の瑞獣の姿を象った。

 それは、ひらりと旋回すると、そのまま晃志郎の肩に舞い降りる。

 源内と沙夜から聞いてはいたものの、四門の封魔士でもこれほど見事な朱雀を扱う人間を、龍之介は知らなかった。

 最初は晃志郎に侮蔑の念を抱いていたはずの土屋は、朱雀のあまりの美しさに言葉を失っている。

 瑞獣の美しさは、術者の能力に比例する。赤羽晃志郎という男の霊力は、朱雀を見るだけで桁外れだとわかった。

――しかし、どうする? 平太は既に虚冥に喰われる寸前だ。

 龍之介は、黒い影をまとった平太を見る。

 彼の全身は、星蒼玉に蝕まれている。

 星蒼玉は、この世と虚冥を区切るための結界の欠片だと言われている。その力は、虚冥を封じるためにも、開くためにも使用されているものだ。

 いつ飲んだのか、どのような経緯なのか、そんなことは既に問題ではない。外からの悪意だけではない。平太自身の内側からの怨嗟の念が、石を暗黒に染め、虚冥を引き寄せている。

 単純に石を取り除けば終わる、そういう状態ではない。

「その絵を、こちらに」

 晃志郎は、龍之介に掛け軸を指さした。

 自らは、のろのろと間合いを詰めてくる平太から目を離さない。

 龍之介は、肌を刺すような痛みに耐えながら、じりじりと掛け軸へと移動する。

「がっ!」

 言葉にならない叫びを平太が発し、黒い塊が龍之介の方へと吐き出された。

 シャン、という音とともに、晃志郎の刀がその塊を断ち切ったが、塊は礫となって、そのまま龍之介へと飛んできた。

「蛟よ」

 龍之介が叫ぶと、青い鱗をまとった巨大な蛟が現れ、盾となって礫を受け止めた。青き鱗に触れた礫が、じゅっと音を立てて消滅する。

「土屋、結界強化!」

 叫びながら、龍之介は壁にかかった女の絵を剥ぎ取る。

 結界内で、虚冥が大きく開きつつある。大気にこの世でないものが満ちはじめた。肌がジリジリと痛む。

「ぐわっ!」

 再び平太が吐き出した黒い塊を晃志郎は、薙ぎ払った。砕けた礫が晃志郎の頬を掠め、一筋の血が流れ出た。

「手間が省けた」

 ニヤリと、晃志郎が口の端を上げて嗤う。

「赤羽殿!」

 龍之介は巻き取った女の絵を晃志郎へ投げた。

 はらり、と、波を打ちながら掛け軸が晃志郎の目の前に舞い落ちた。

「虚冥よ。そなたに、現身を与えよう」

 晃志郎は、頬の血を懐紙で拭うと、それを女の絵の上に投げ置いた。

「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」

 晃志郎の九字に合わせるかのように、平太につきまとう影が、女の絵に吸い込まれていく。全ての影が吸い込まれると、立ち上がっていた平太は、がくりと膝をついた。

「何が?」起こったのかと土屋が問おうとした瞬間、全てを吸い込んだ絵がぶくぶくと盛り上がって、ひとのかたちを象った。

 ひとといっても、顔はない。しかし、長い髪を振り乱し、一糸もまとわぬ女性の淫らな白い裸身がゆらめきながら現れた。

――虚実の呪法。

 龍之介は驚愕した。晃志郎が使ったのは、虚冥に肉体を与えるものだ。もちろん、封魔士は「知識」として、この呪術を習得する。しかし、この呪法は大きな念力を必要とする。そうでなければ、何ものかの生命力を代償に捧げる必要がある。ゆえに、四門の封魔士はもちろん、四門に敵対する呪術師でも、これほど簡単に、この技を使うものは、会ったことがない。それを晃志郎は、平太を蝕む虚冥をその身体から引き出すという、ただそれだけの為に、いとも簡単に行使してみせた。

――恐ろしい男だ。

 不気味でありながら、淫猥なそれが腕を滑らかに上げると、黒い闇の風が刃となって晃志郎を襲った。

「赤羽殿!」

 刃に切り裂かれるかと思った晃志郎は、紙一重でそれを交わすと、そのまま女の身体に刃を振り下ろした。

 女の身体から、血ではなく、闇が噴き出した。

「行け!」

 晃志郎の命に、朱雀がパサリと羽音を立て、女の頭上から身体の中へ飛び込んでいく。

「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」

 晃志郎は印を結び、九字を斬る。

 グワンと、大気が大きく振動し、稲妻のような轟が響いた。

「穢れを焼き払え」

 バサッという羽音ともに、朱金の光が部屋中に降り注いだ。

 女の身体がのたうち、光とともに消失していった。

「虚冥よ、閉じよ」

 晃志郎の言葉とともに、静寂と薄闇が戻ってきた。



「さて。今度は、平太の方ですね」

 空気に清浄さが戻ってきた。気温も徐々に元に戻っていく。

 晃志郎は、ホッとして、刀を鞘に納め、笄をしまうと、龍之介に結界を解くように言った。

 足元には、『夢鳥』という落款だけが入った掛け軸と、透き通った星蒼玉がごろりと転がっている。晃志郎は、それを拾い上げた。

 晃志郎の繰り出した大技に度肝を抜かれ、土屋は呆然自失としたままだ。龍之介は、苦笑を浮かべながら、部屋の襖を開け、外の光を部屋に迎え入れた。

 平太は、意識はないものの、規則正しい呼吸をしている。

「どうする?」

 龍之介は晃志郎に問う。

「焔流は攻撃を得手としておりますが癒し、救済は苦手とするところなので、お願いできると有難いのです」

「世渡りがなかなかに上手いな」

 龍之介は苦笑した。焔流が封魔の流派の中で最も攻撃的なのは事実であるが、晃志郎ほどの実力者なら、わざわざ他人に頼る必要はないように思える。

 ここで龍之介に委ねる晃志郎の意図は、あくまで自分が『今回限りの助っ人』で、この事件が四門の手にあるということを理解しているからだ。

「しかし、救えると断言した立場ですから、やれ、と言われれば、やりますが」

 晃志郎は、龍之介の顔を見ながら肩をすくめてそう言った。

「いや、俺がやろう」

 龍之介は、番頭を呼んだ。



 白い敷布の上に、平太を寝かすと、龍之介は番頭に用意させた柊の小枝に数珠を絡ませて、その額にのせる。

「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」

 龍之介が九字を斬った。

 ギラリと、青い鱗を煌めかせ、美しい蛟が平太の額の中に溶けていく。

 龍之介は瞼を閉じる。脳裏に一筋の光の欠片が浮かぶ。

「萌芽更新」

 柊の枝が青白い光を放った。

「ん……」

 平太が、小さく呻く。

「ふう」

 龍之介は、小さく息をついた。

「土屋、家のものに医者を呼びに行かせろ。それから、酒だ」

 龍之介の言葉に、弾かれたように土屋が部屋を飛び出していく。

「さすがは、樹鱗流じゅりんりゅうですね。お見事です」

 晃志郎は、赤みのさしてきた平太の頬を見ながらそう言った。

「我が流派が、精神を癒す呪法を得意とするのも、当然承知というわけだな。赤羽殿。いったいそなたは何者だ?」

「浪人ですよ。ただの」

 晃志郎は肩をすくめた。

「恐ろしい男だな」

 龍之介は、ふーっとため息をついた。



 番頭が持ってきた酒を、平太の口に流し込む。いささか強引ではあるが、強引に断ち切った術者の情報を少しでも早く手に入れるためだ。

 ごふっと、むせながら、平太は覚醒した。

 両の眼に意志の光が戻っている。

「……ここは?」

 ゆっくり起き上がり、怯えた表情で、みなれない人間を見回す。

「ここは、おぬしの家。そして、おぬしはようやく長い悪夢から解放されたところだ」

 土屋が、静かに口を開いた。

 平太は、状況がまだ飲み込めないようで、視線を泳がせている。

「封魔四門の水内と申す。質問に応えよ。素直に応えれば、鳩屋伍平への件は不問と致すが、嘘偽りを申せば、ただではすまぬ」

 龍之介に威圧的に問いかけられ、平太は震えあがり、こくんと頷いた。

「夢鳥という絵師とは、いつ、どこで出会ったのだ?」

「……奴とは、『桃楼郭とうろうかく』という廓で会いました。出おうたのは、昨年の夏だったと思います」

 平太は素直に答えた。

「桃楼郭……」

 晃志郎が苦い顔で呟く。問いたげな、土屋を、龍之介は目で制した。

 平太は、たどたどしく、記憶を紡いでいく。昨年の夏の初め鳩屋のおあきに縁談を断られ、廓で女を侍らせ、やけ酒を煽っていたところに、ふらりとその男は現れたらしい。

 恋を成就させてやると言って、平太の前でおあきの姿絵をさらりと描きあげた。酔った勢いで、二百文もの金を出して手に入れたものの、当初は、平太も半信半疑であった。

 しかし、姿絵は、ただの似姿ではなかった。

 夜になると絵からおあきが現れて、平太に抱かれたのだ。

 思えば、そのころから記憶が途切れるようになり、夢とうつつの区別がつかぬようになり始めたらしい。

「夢鳥から、薬のようなものを飲めと言われませんでしたか?」

 晃志郎の言葉に、平太は首を傾げた。

「絵を買った時に、変わった味の酒を飲まされました」

 龍之介は、舌を巻いた。晃志郎は巧みに夢鳥の呪術を聞き出していく。絵を買った折、星蒼玉の混じったものを飲んだとすれば、絵から女が現れたというのは、平太の幻覚で、使われたのは、「夢おくり」という術だ。先ほど、晃志郎が使った「虚実の呪法」とは違う。

「あなたは、鳩屋に夢鳥から渡された石を捨てましたね?」

 晃志郎は、曖昧な記憶をたどる平太に話を促した。

「はい。新築祝いの際、鳩屋さんに掛け軸をお渡しし、床下に石を捨てれば、夜だけ現れているおあきさんが、四六時中、私の傍に来てくれると……」

「夢鳥とは、どのような男だ?」

 龍之介が口をはさむ。

「ちょうど旦那くらいの年のお武家の方です。金回りは悪くなさそうで、上等な着物を着ておりました」

「会ったのは、どういうきっかけで?」

「お蝶という女郎が、売り出し中の絵描きの絵を買ってほしいと、そう言って」

 かなり親しい客だったようだ、と平太は付け加えた。

「最後に夢鳥と会ったのは?」

「病に伏する前に、桃楼閣で。その時もお蝶が一緒でした」

 晃志郎と龍之介は顔を見合わせた。

 もはや平太に聞くことはなさそうである。

「土屋」

 龍之介は、控えていた土屋に声をかけた。

「熊田屋の全方位に、浄化の札を張っておけ。それが終わったら、お前は先に戻って穴平さまに報告しろ」

「水内様は?」

 土屋は不思議そうに龍之介を見る。

「俺は、桃楼郭に行く」

「では、私も」

 ついていくと言いかける土屋を、龍之介は苦い顔で制した。

「お主みたいなマジメな役人がおると、聞ける話も聞けぬ」

「しかし、危険では?」

「案ずるな。赤羽殿が一緒だからな」

 ニヤリ、と龍之介が晃志郎を見ながらそう言った。

 土屋は、一瞬、不満げな顔になったが、晃志郎の術を目の当たりにした後で、否と言う気はないようだ。

「俺は行くとは……」

「廓では役人は嫌われるが、封魔士は歓迎される。それがわからぬ赤羽殿ではあるまい」

「四門の名は出さぬと、おっしゃるので?」

「可能であればな」

 龍之介はそう言って、大きく息をついた。

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