第三話 鳩屋 参

 鳩屋の主、伍平の寝所は、離れの奥にあった。

 まだ新築の離れは僅かに木の香りが残っている。おあきに先導され、晃志郎たちは板張りの廊下を進んだ。

「お父様、お加減はいかがですか?」

 ふすま越しにおあきは父を呼んだが、返事はなかった。しんと静まり返った中に、かすかに息遣いが感じられる。

 晃志郎はおあきを後ろに庇うようにふすまを開けた。

 部屋にのべられた寝具に包まるように年老いた男が震えている。

 目は開いていたが、何も見ていないようだった。顔は青白く、歯はかたかたと鳴っている。

「お父様?」

 手を差し伸べようとしたおあきに向かって、伍平は威嚇するように吠えるようにうなると、獣のようにおあきの喉元に向かって跳んだ。

 晃志郎は、おあきの手を引き後ろへ下げ、伍平との間に割って入る。

「おあきさんを」

 言いながら、膝を折る。そのまま伍平の腹に肩を入れて、ぐるりと伍平の体を宙にまわし、投げ飛ばした。

 どうっと、伍平の体は畳に叩き付けられたが、病人とは思えない力で跳ね起きて、そのまま晃志郎につかみかかる。

「御免」

 左腕一本で伍平を抑えつつ、そのまま腹に右手で手刀をいれた。

 どさり、と、伍平の体が床に落ちる。

 晃志郎はふうと、息をついて、意識を失った伍平をふとんに寝かせた。

「すごい」

 沙夜は思わず口にする。細身の晃志郎から繰り出された体術は目にしたことのない鮮やかさだった。

「見事な体術じゃ」

 源内の感心したような呟きを聞きながら、沙夜は晃志郎の姿から目を離せないでいた。

「まずいな」

 晃志郎は呟きながら伍平を見ている。先ほど獣のような瞬発力をみせた伍平であったが、こうして意識を失ってしまうと、体が病み衰えていることが見て取れた。

「おあきさん」

 目を見開いたまま固まっていたおあきを、晃志郎は呼んだ。

「おあきさん、たらいにお酒を入れて、持ってきてください」

「――お酒?」

 あまりのことに放心してしまったのであろう。きょとんとしたままのおあきに、晃志郎は口調を強めた。

「急ぎなさい。お父上の命に係わることだ」

「は、はい」

 はじかれたように駆けていくおあきを見送ると、晃志郎はゆっくりと部屋を見回した。

「入ってもよろしいか?」

 源内の言葉に晃志郎は無言で頷く。

 源内と一緒に部屋に入った沙夜は、背中をぞくりと刺すような冷気を感じた。

 はっと顔を上げたが、部屋には火鉢が置かれ、別段、寒いというわけではなかった。

 まだ新しい畳のあちこちに、獣がツメをたてたような跡がある。

 簡素でほとんど何もない部屋の中で目を引くのは、壁に掛けられた一枚の掛け軸であった。朱に塗られた寒椿と、一匹の黒い猫の絵だ。『夢鳥(むちょう)』という落款が押してある。その名に記憶はないが、描き手の技法の高さがうかがえる絵であった。

 しかし、心がざわついた。その猫の眸、椿の朱。その筆致に、何かが込められている。

「この絵……」

「目を合わせないほうがいい。強い呪いが込められている。油断すると惹き釣られる」

「まさに」

 晃志郎の言葉に、源内が頷いた。沙夜は慌てて目をそらした。

「しかし、これは単なる引き金じゃな」

「確かに。やっかいなことです」

 晃志郎は首を振った。

「引き金ですか?」

「非常に巧みな呪術を使っているけれど、これ自体は呪いの元凶ではありません」

 沙夜に答えながら晃志郎は掛け軸を外し、伍平の枕もとに広げた。

「玉は、伍平が?」

「そうですね。喰っていると思われます」

 晃志郎は伍平の胸と腹を指さした。

「出すこと自体は難しくないが……」

 晃志郎は唸った。

「あの……」

 おあきがたらいを抱えてやってきた。晃志郎はそれを受け取ると、先ほど伍平の枕元に敷いた掛け軸の上に置いた。

「ひとつ、お聞きしたいのだが、この掛け軸はどういったものでしょうか」

 晃志郎の問いに、外された掛け軸を眺め、おあきは首をかしげた。

「この離れが完成した折、材木問屋の熊田屋さんから改築祝いとしていただいたものだったように思います」

「熊田屋さんとは、どのようなお付き合いで?」

「大事な商談の折、うちをご利用いただいておりますお得意さまでございます。あちらの大旦那様と父が非常に親しい間柄で、二十年以上のお付き合いがあると聞いております」

 晃志郎は首を傾げた。

「熊田屋さんは絵に御興味がおありのかたですか」

「さあ。この絵は、若旦那様のご友人がお描きになったものだとうかがいましたが」

「ご友人、ですか……」

 晃志郎は呟くように言った。

「若旦那というのは、どんな方で?」

「ちょっと、変わった方です」

 おあきは、少しためらいをみせた。

「以前はよくお見えになりました。実はそのう」言いにくそうに言葉を紡ぐ。

「私を嫁に、と、おっしゃっていただいたことがあります」

「ほう」

「……ただ、私は既に言い交わした相手もおりましたので、お断りいたしました」

 よほどしつこく言い寄られたのであろう。おあきの言葉の端々に、苦々しさが感じられた。

「それは、おあきさんから直接お断りに?」

「いえ。父のほうから、大旦那様を通じて、角の立たないようにお断りしてもらいました」

 おそらくは、一人娘であるから嫁には出せぬという理由で断ったのだろうと、おあきは言った。

「ふむ。それで、その若旦那の名前は?」

「確か……平太さんです」

 晃志郎は懐紙に平太と名を記した。

「おあきさん、お父上は、玉をおそらくふたつ、飲み込んでしまわれたようです。今からそれを取り出します」

 晃志郎は、名を記した紙と、懐に入れていた星蒼玉を全部たらいの中に沈めた。

「沙夜さま、とおっしゃられましたか?」

 晃志郎は沙夜のほうに目を向けた。射るような視線に、沙夜はどきりとした。

「部屋の外へ出て、おあきさんをお願いします」

「わしは、よろしいか?」

「御隠居様は、御意のままに。ただし、お護りはいたしません」

「承知」にやり、と源内は嗤った。

 震えるおあきを安心させるように、微笑むと沙夜は部屋の外に出て、おあきを背に庇う。

 晃志郎は伍平の枕元のたらいに静かに黒塗りの笄を沈めた。

「舞え。酒宴の刻だ」

 晃志郎の言葉が発せられると同時に、たらいから朱金のまばゆい光が生まれ、大きく羽ばたく羽音が響き渡った。

 沙夜は思わず、はっと息を飲んだ。見たことのない美しい炎に包まれた鳥である。長い首に豪奢な羽。長い尾羽。すべてが朱金に輝いていた。

「なんて綺麗な朱雀……」

 封魔の術は、自らの霊力を練り、それを聖なる瑞獣にかたどって行使する。獣の種類は流派によるが、その描写の細やかさや鮮やかさは術者の霊力に比例する。沙夜はこれほどまでに見事な瑞獣を見たのは、初めてだった。

 朱雀はゆっくりと舞い上がると伍平の体内に飛び込んだ。

「いい子だ」

 一瞬、伍平の体内に溶け込むように消えた朱雀は再び姿を現し、くるりと反転するとバサリと羽音を立て、晃志郎の左腕にとまった。

 長い首をすっとのばし、嘴から黒い塊を二個、吐き出した。

「お見事」

「まだ、これからです」

 源内の賛辞にそう返すと、晃志郎はその塊をまた、たらいの中に沈めた。さーっと、たらいの中の酒が泡立ちはじめる。晃志郎は眸を閉じた。

 たらいはぶくぶくと泡を吹き、黒い気体を吐き出す。

「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」

 晃志郎は左腕に朱雀を乗せたまま、右手で、九字を斬った。

 噴き出した気体が濃密な濃度で形を模り始めた。塊は、巨大な黒猫の形状になり、朱い目にぎらりと晃志郎の姿を映す。

 ばっと、朱雀が宙に舞い上がると同時に、晃志郎は抜刀した。

 ギャーっと、黒猫が咆哮を上げ、熊ほどもある体躯で、晃志郎に跳びかかる。

「あっ」

 沙夜は、思わず目を伏せたが、晃志郎は床に沈むように体を落とし、黒猫の腹に向かって斬りつけた。が、黒猫は獣のしなやかさで刃をかわして、反転し、再び跳躍する。

 晃志郎はギリギリの位置で体をひねりながら黒猫をかわし、そのまま上から刀を振り下ろした。

 グワッと、黒猫が叫びをあげる。ジュワっとその体が湯けむりを吹きながら泡立つ。

「行け!」

 晃志郎の言葉を受け、朱雀がずぶずぶと溶け始めた黒猫に飛び込み、たらいの下の絵に沈んでいく。

「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王・三台・玉女」

 刀を突きたてたまま、晃志郎は再び九字を斬る。黒々とした液体がぼんやりと二つの人の姿をとりはじめた。ともに、若い男だ。ぼんやりとしているが、そのうちひとりは暗い鋭い目をしているのがわかる。もうひとりははっきりとした顔立ちが分かった。

「若旦那……」

 おあきの驚愕した呟きがもれる。

「我が名をもって命ずる。反転せよ」

 晃志郎の言葉で、世界がまばゆい朱金に輝いた。

 何者かが呻くような声が遠くで聞こえ、ゆっくりと世界が色彩を取り戻していくと、黒い液体はすっかりなくなっていた。

「虚冥よ。閉じよ」

 晃志郎は静かに命じて、眸を閉じ、息をついた。

 しん、とした静寂の中に、源内の溜息が漏れた。

「素晴らしい腕前じゃった」

「いえ」

 源内の言葉に、晃志郎は首を振った。

「絵師に逃げられました」

 畳に突き立てられた刀をゆっくりと引き抜く。そして静かに鞘に納めた。もう一度、ゆっくりと首を振りながら、たらいの中を覗き込んだ。黒塗りの笄に朱金で描かれた鳥の姿が戻っている。そして、美しい蒼に輝く透明な大きな玉がひとつ沈んでいた。沈んでいた黒ぬりの笄を拾い上げ、懐紙で拭くと丁寧に脇差しにしまう。

「おあきさん」

 放心したように見つめていたおあきに晃志郎は声をかけた。

「封魔は完了しました」

 その声にはじかれた様におあきは伍平のそばに駆け寄った。衰弱はしているものの、規則的な呼吸をしており顔に赤みが戻ってきている。

「じきにこの部屋も清浄に戻りますが、病人は一度、よそへ移したほうがいい」

 晃志郎は巻き取った掛け軸と拾い上げた透き通った星蒼玉を沙夜に渡し、伍平の体を抱き上げた。

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