ROCKSTEADY

秋永真琴

眠るように生きて

 山奥に建っている、高い高い塔のてっぺんで。

 想子そうこ未明みめいとあたしと、三人揃って、わんわん泣いていた。

 風が強かった。髪が乱れて顔にからみついた。それを払いもせずに、けだものみたいなうなり声をあげて、あたしたちは涙を流しつづけた。


 ――という夢を見た。


 号泣していた理由は忘れた。顔に触れたけど、濡れた痕はなかった。

 はじめから、前後の脈絡なんてなかったのかもしれない。夢は唐突で、不条理なものだから。寝て見る夢だって、起きて見る夢だって。

 ただ、胸がいっぱいになって、喉がふさがって、瞼の裏が熱くなる感覚は、身体のそれぞれの箇所にはっきりと刻まれていた。ほんとうに泣いていたみたいに。

 だから、しばらくのあいだ、ベッドのなかでぼんやりしていた。

 夢の名残がゆっくりと冷めていって、脳も身体も百パーセントこの世界に還ってくるのを待ってから、あたしはかけ布団を押しのけた。


 部屋は明るかった。カーテンから太陽のひかりが透けている。

 我ながらおそろしく片づけがなっちゃいない空間に、ドアが三枚。それぞれ、キッチンと玄関、トイレと浴室、もうひとつの部屋に続いている。あたしの小さなすみか。いつもの風景だ。

 壁の時計を見やって、ため息がもれた。十二時を回っている。もう昼じゃん。伊東いとうまひるちゃんが真昼を迎えました。

 床にはストロングなチューハイの空き缶が十五、六本、まぁるく並べられて、その中央に放り出されたタブレットを宗教的なモニュメントみたいに見せている。何してんだ、あたし。

 昨日の夕方から明け方までネット配信のアニメを肴にこれだけ飲んでいたのだから、寝坊するのもあたりまえだわね。のろのろと、スーパーのビニール袋に空き缶をまとめた。

 ふと、パジャマがわりのTシャツをつまんだ。襟元や胸元がぐっしょり湿って、肌にはりついている。

 かつて、自分でデザインした――スタッフにさせられた――Tシャツだった。あたしの実に味のある筆跡で印刷されている文字は、


 LYRICAL BEAT SYSTEM


 こんなもんを着てるから、あんな夢を見たのかな。

 苦笑しながらTシャツと下着を脱ぎ捨てて、浴室のドアを開けた。



     ♪



 十代の終わりからから二十代の半ばまで、めちゃくちゃ楽しかったし、それ以上にしんどかった。とにかく、がむしゃらに、無我夢中で駆け抜けた。

 毎日が人生の分岐点だった。運命を変える瞬間が絶えず舞いおりた。多くのひとが望んでも叶わず、いざ叶えてみればおそろしい重さが伸しかかる、濃密な季節がめぐった。

 すべては過去の河に流れ去って。

 いま、あたしは怠惰な生活に首までつかっている。

 ここまで抜け殻になれるとは、我ながら驚きだった。何か心の病なのではと思って診てもらったけど、特に異状はなかった。もともとの性格ですか。つらい。

 同業者の友だちや事務所のひとには「そろそろ、なんかやりなよ」とせっつかれる。メールで。食事や飲みの席で。あたしが彼ら、彼女らでもそうするだろう。


 ごめん。

 もう少し。

 あと少しだけ、休ませて。

 すさまじい闘争と祝祭の渦中へふたたび魂を投じる熱情が、このちっぽけな生命の芯にふつふつと満ちてくるまでは、眠るように生きていさせて。


 そう祈ったのは、神さまでも仏さまでもなく。

 夢のなかでともに泣きじゃくった、ふたりの戦友に対してだった。



     ♪



 ポロシャツにミニスカートを合わせて、セルロイドフレームの伊達めがねをかける。何かのコスプレみたいな、こういう恰好が似合っちゃうのだから仕方がない。リュックを肩に引っかけて、外に出た。

 あたしが住んでいるのは、八階建てのマンションの二階だ。築年数が古いわりに家賃は高い。最寄りの私鉄の駅まで徒歩五分、そこから電車と地下鉄を乗り継いで都心まで十五分という交通の便利さが理由のひとつだった。

 電車はがら空きだった。平日の昼間だもんね。これに慣れちゃうと、朝晩、決まった時間に通勤する仕事だけはもうできない気がする。

 手近な席についたとき、目の端っこに引っかかるものがあった。

 見上げると、ファッション誌の広告が吊られている。「これで夏の『キレイ』は制覇! 本命コスパ服一〇八」という煩悩たっぷりの見出しの背後に、緒川おがわ想子の姿があった。

 ふわふわの巻き髪に、白いノースリーブのフリルシャツ。ベタなテイストの雑誌のカバーだからか、あたしたちといっしょにいたころとはちがう雰囲気のおしゃれをして、困ったような微笑みを浮かべる想子は、それでも、爆烈にガーリィな魅力を湛えていた。


 リリカルビートシステムというバンドをいちばん愛していたのは、ボーカルのこいつだった。

 解散に最後の最後まで反対したのも、こいつ。

 その一方、解散したらすぐにソロ活動を始めて、こういう芸能の仕事を増やしていったのも、こいつだ。

 そのときどきで湧きあがる感情に対して残酷なほど正直な緒川想子は、確かに、エモーショナルなボーカリストの資質の持ち主だった。

 四年の休学を経て、いまは大学に復帰しているはずだ。大変だと思うけど――想子が起きあがれないほど人生につまずく姿は、あたしにはまったく想像できない。たぶん誰もが。



     ♪



 あたしは一年浪人して、けっきょく大学には進まなかった。もともと、勉強したいこともなかったし。

 親にはずっと「お前、どうするんだ」と責められていたけど、デビューして三年めの大晦日を境に、何もいわなくなった。これが遊びでなく娘の仕事なのだと、紅白歌合戦でドラムを叩いているあたしを見て、しぶしぶ納得したらしい。

 あのころは、学校に行ってる暇なんかまったくなかったよ。

 高橋たかはし未明だってそのはずだったけど、だれでも知ってる有名な国立大学をろくに通ったようすもないくせにきっちり四年で卒業したのだから、どんな魔法を使ったんだか。天は二物を与えずっていうけど、三物や四物は与えるらしい。

 作曲もできる、編曲もこなせる。ギターだけでなくベースも鍵盤も弾ける、文字どおりのマルチプレイヤーである。詞はあたしと想子が半分ずつ担当していたけど、ほんとうは書けるし、歌もうたえる。ひとりでぜんぶ、できるんだ。


 でも、あの子は。

 バンドを結成することを選んだ。

 バンドだけが放つことのできるエナジーを、信じた。


 持っている雰囲気そのままの、ひとをたまらなく惹きつける緒川想子の天性の唄声を支えて、この三人で作りあげてゆく音は、最っ高にきらきらしていた。

 自分が特別すごいドラマーだとは、ちっとも思わない。

 でも、あたしがいて、ピースの一片として機能していたリリカルビートシステムは。

 世界でいちばん輝いていたバンドのひとつだと、断言できるんだ。



     ♪



 ターミナル駅で降りた。

 おしゃれなお店が点在する高級住宅街は、のどかな雰囲気だった。ひとも車もひっきりなしに行き交っているけれど、どこか半眼になってまどろんでいるような空気は、いまのあたしにふさわしく思えた。

 スマホで地図をみながら、表通りから中に折れて、住宅街の細い上り坂を進む。それだけで、たいして暑くもないのにおでこや背中に汗がにじんでくるのは、アルコールが抜けきっていないからか、単純に肥えただけか。体重計に乗るのが怖い。

 坂を登ると、コンクリートむき出しのサイコロみたいな建物があらわれた。

 看板に「COSMOS CAFE」の文字を確認して、ここが目的地であることを知る。

 プラスチックのタイルをたくさん用いた、ブロックで組みたてたような内装だった。そんなレトロフューチャーなカフェの奥の席に、高橋未明はひっそりと座っていた。

 自分の身体を抱くように腕をからめ、宙に視線を向けている。ぼーっとしているようにみえるけど、その目には静かな意志がみなぎっていて、思索の世界に身を置いているのが、あたしにはわかった。

 テーブルに置かれたコーラのグラスにはびっしりと水滴が浮いていて、口をつけたようすはない。


「ういーっす」

 のんきに声をかけると、未明は目線をちょっと動かして、うなずいた。

 それがあいさつだった。表情はいっさい変わらない。

 スタジオやステージでは言葉を重ねることを惜しまないけど、いつもは極端に感情をあらわさない女である。

 あたしは向かいの椅子にかけて、店のひとにジンジャーエールを注文した。

「元気してた?」

「病気はしてない」

 これだよ。かえってほっとするね。未明らしくて。

 軽口ってわけじゃない。正直な自己分析といえるだろう。もともと小ぶりな顔が、もうひとまわり縮んだようにみえる。痩せたというより、やつれたって感じ。

 野暮ったいおさげ髪に、着古したジャージとジーンズは、お馴染みの姿だ。二、三日着替えなくても、ソファや床で仮眠をとっても、気兼ねしない格好ってこと。

 レコーディングの仕事は佳境に入っているらしい。

 こっちから連絡をするのは遠慮していたんだけど「ちょっと出てきて」と、未明のほうから誘ってきたのだった。

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