内藤 良美(39)


 8-①


 その日、私は巳道線の電車に乗って、仕事から帰る途中だった。


 約二週間前、上司が帰宅途中に突然失踪してからというもの、私が上司の仕事の一部を引き継ぐ事となってしまい、やるべき事が倍になってしまった。おかげでここ数日、会社を出るのが終電ギリギリになってしまっている。

 仕事の疲れが溜まっていたのだろう。私は不覚にも終電だというのにウトウトしてしまい、目を覚ましたら、電車は知らない名前の駅に止まっていた。

 乗り過ごしたと思って慌てて降りたは良いものの、ここがどこなのかさっぱり分からない。駅名表示を見ても、誤植なのか意味不明な文字が並んでいる。どこなんだろう『り3ノへd連』……駅って?

 給料日前の出費は厳しいが、タクシーを拾って帰るしかない。やたらと長いエスカレーターに乗って、地上に出た。おかしな事に、エスカレーターは地上の出口に直結していた。改札を通ってないけど大丈夫なんだろうか?

 だが、ふと、空を見上げると、そんな事がどうでもよくなるほどおかしな事が起きていた。


「空が……赤い……!?」


 写真で見た事がある。どういう理屈かは知らないが、大きな地震が起きる数日前とかに、空が異様に赤くなるという気象現象だ。でも私の知る限り、それらは全て昼間や夕方に起きる現象のはずだ。今は……深夜0時を回っている。

 とにかく、家に帰ろう。私はタクシーを探して歩き始めた。歩き始めて数分、私はおかしな事に気付いた。深夜とは言え、人の気配が微塵もしない事、そして……町中が意味不明な言葉で溢れている事だ。


『い戦ミョ888対兎』『7=鎮36ッと#』『死メキ0¥4』など、まるでパソコンのキーボードをめちゃくちゃに叩いたかのような文字の羅列が、コンビニの看板にも、道路標識にも電柱に貼られたチラシにまで並んでいる。


 ………この街には私の理解出来る言葉が存在しない。


 言葉の全く通じない異国に突然放り込まれたような不安が私を襲う。ここは本当に日本なのか、いや……それ以前に現実なのか?

 近くにあったコンビニに入ってみる。やはり誰もいない。雑誌コーナーに置いてある雑誌を手に取ってめくってみる。『÷÷1日マれ人のaQりり月年ぴ………』やはり、まるで意味不明な文字の羅列だ。不安がどんどん膨らんでゆく。


「あんた……人間か?」


 知っている言葉に反応して、思わず声のした方を見ると、二人の男が立っていた。一人は作業服を着たヒゲモジャの中年男性、もう一人は黒いパーカーを着た二十歳前後の若い男だ。

 中年男性が再び聞いてきた。


「あんたは……人間か?」

「ああまどろっこしい、腕の一本でも斬り落とせば分かるでしょうが」


 意味不明な質問に答えあぐねていると、若い男が隠し持っていたナタのようなものを取り出した。それを見た私は慌てて人間ですと答えた。


「そうか…家に帰りたかったら一緒に来い」


 そう言うと、男達はスタスタと歩き始めた。迷ったが、私は男達について行く事にした。


 7-②


 中年男性の方は朔田さくた 秀徳ひでのり、若い方は出渕でぶち 陽介ようすけと名乗った。二人はもう一か月近くも前からこの街にいるらしい。私は朔田さんに聞いた。


「あの……ここはどこなんですか?」

「分からない。ただ……我々人間の住む世界じゃないのは確かだな」

「えっ、いや……人間の住む世界じゃないって言ったって……電車も走ってたし、ビルだって……」

「ふぅん、まだ奴らに遭遇してないんだ。ラッキーだったね」


 出渕君が話しかけて来た。見た目はどこにでもいそうな好青年だが、平然と私の腕を斬り落とすと言ってナタを取り出すあたり、どこか頭のネジがブッ飛んでいるに違いない。


「奴らって一体……きゃっ!?」


 二人に突然自販機の陰に引き込まれた。驚いて朔田さんの方を見たら、人差し指を唇の前に当てて、『静かに』というジェスチャーをしていた。出渕君が『ホラ、アイツだよ』と言わんばかりに指を指した。出渕君が指を指した先には一人のスーツ姿のサラリーマン風の男性がこちらに背を向けて立っていた。別にこれと言っておかしな所はなさそうだが……

 首を傾げていると、朔田さんが出渕君に無言でハンドサインを送った。すると、出渕君が自販機の陰から飛び出して猛然とダッシュしたかと思うと、あのナタを何の躊躇ちゅうちょも無くサラリーマンの後頭部に叩き込んだ。

 後頭部にナタの一撃を喰らったサラリーマンが崩れ落ちる。それを見て私は慌てて逃げ出そうとした。コイツらは狂人だ。


「待て!!」


 逃げようとしたが、朔田に手を掴まれた。力が強くて振りほどけない。そうこうしている内に、出渕が得意げな笑顔でさっきのサラリーマンの襟首を掴んでズルズルと引きずって来た。


「内藤さーん、見て見て!! コイツコイツ!!」


 出渕が私の足元に引きずってきたサラリーマンの体を置いた。どさりと無造作に転がされたサラリーマンの顔を見て私は凍りついた。


「さ……佐藤さん!?」


 目の前に転がっているのは、二週間前に失踪した上司の佐藤さんだった。佐藤さんもこの街に迷い込んでいたのか!?


「あれ? もしかして知り合い? でも安心してよ」


 安心? 何を安心しろというのか?


「ソイツ、人間じゃないからさ」


 言うなり出渕は佐藤さんの胸にナイフを突き立てたが、傷口から出てきたのは血ではなく、どろりとした真っ黒なスライムのようなものだった。

 私の思考は混沌の坩堝るつぼに叩き落とされた。失踪した上司は人間ではなかった? そんな馬鹿な話が……


「ど、どういう事なの……佐藤さんが、人間じゃない……!?」

「いいや、そうじゃない。これは奴らがあんたの知り合いに化けた姿だ」


 朔田さんが “奴ら” について教えてくれた。


 ……奴らは、人間になりすまそうとしている事を。

 ……奴らは、人間の文明を模倣しようとしている事を。

 ……奴らは、その為に世界の裂け目を生み出し、人をさらっている事を。


「奴らの中には特別知能が高く、他の個体をまとめている個体がいる。私達は頭脳ブレインと呼んでいるんだが……世界の裂け目を作れるのはどうやらブレインだけらしい。この不気味な街もブレイン達が意味も分からず、ただ闇雲に人間の世界を模倣した産物だ」

「私達はどうすればこの世界を出られるんですか?」

「アレだよ」


 朔田さんが街の外れに屹立きつりつする、いびつな巨塔を指差した。


「私はあの塔を密かに観察し続けて、ある事を確信した。あれは……世界の裂け目を作る為の装置だ。あれが遂に完成したらしい。この世界のバケモノ共はあの塔の元へ続々と集結している。あの塔が作り出す裂け目は一人や二人が通れるのがやっとのものじゃない、一度に何百何千と通れる裂け目を……ガハッ!?」

 突然、朔田さんが倒れた。背中には深々とナイフが突き立っている。出渕がナイフを突き立てたのだ。朔田さんが何かを言おうとしたが、口からはゴボリと血が流れただけだ。

 出渕は朔田さんを見下ろしてニヤニヤと笑っている。あまりの出来事に私は腰を抜かしてしまい、その場にへたり込んでしまった。


「何……で? どどうし…て?」


 朔田さんが必死で絞り出した問いにも、出渕はあっけらかんと答えた。


「やだなあ、そこまで僕達の事を分かっているのに〜」


 そこまで言うと、出渕は急に真顔になった。


「………仲間が入れ替わっているのに気付かなかったのかい?」


 出渕の皮膚がドロドロと溶け落ち、中から紅い目をした真っ黒な怪物が現れた。

 怪物はもはや虫の息の朔田さんの背中をナイフで滅多刺しにしてトドメを刺すと、ゆっくりと私の方に向き直った。私は手足をバタつかせて後ずさりながら、命乞いした。


「た、助け………」

「やだ」


 何の躊躇もなく、私の脳天にナタが振り降ろされた。

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