第5話 グラフィティコンテスト

 二日後、僕らは星原の家の前に立っていた。


 僕ら。正確には僕と星原と、もう一人。


「それで? 私に壁に絵を描いてほしいっていうことだけれど、詳しい理由をまだ教えてもらっていないよ?」


 そう尋ねたのはゆるいウェーブのかかった巻き毛の少女、僕と同じクラスの美術部員の荻久保優香おぎくぼゆうかだ。彼女には前に日野崎の妹、巴ちゃんがトラブルに巻き込まれたときにも協力してもらったことがあった。


 今回も「謝礼はするから助けてほしい」と頼み込んで来てもらったのである。


「見てのとおり、星原の家はいま落書きの被害にあって困っているんだ。そこで、まずこの張り紙をする」


 僕は学校のパソコンで作ってきた張り紙を見せた。内容はこうだ。


『この壁をストリートアートのスペースとして開放します。この壁にグラフィティを描いていただいて、最も芸術的なものには賞金五千円を進呈します。二日ごとに審査をしますので描いた方は連絡先を紙に記載して備え付けの箱にご投入ください』


 荻久保はよくわからないという顔で首をかしげる。


「つまり、落書きを止めるのではなくて好きなだけ描かせるっていうこと?」

「最初のうちはね。でもただ好きなようにやらせていたら今まで通りになってしまう。そこで荻久保にサクラの役割を演じてもらって、場の空気を誘導したいんだ。つまりここに美麗なグラフィティを描いてもらって、低俗な落書きをやりづらい雰囲気を作ってほしいんだよ」

「……ああ、そういえば聞いたことがあるよ。この手のストリートアートには、すでに描かれているものの上に描くにはさらに完成度の高いグラフィティを書かなくてはいけないという暗黙の了解があるって」

「そういうこと。だからこの壁にグラフィティを描いてほしいんだ。それも今日一日で」


 荻久保はたしなめるように僕をにらんだ。


「簡単に言ってくれるなあ。そもそも私の専門は油絵とキャラクターイラストで、こんな大きいもの描いたことないし、スプレーを使ったグラフィティやタギングは専門外なんだけどねえ」


 普段おだやかでのんびりした雰囲気の荻久保だが、流石に今回は僕の唐突な頼みごとに困惑したらしい。


「無理言ってごめんなさい。完璧なものでなくともいいの。できる範囲のものでいいから」


 それまで黙って横で話を聞いていた星原が荻久保に軽く頭を下げる。


「ああ。いいよ、いいよ。私の腕を見込んでくれたのはうれしいし。……それとこの私に『完璧なものでなくてもいい』なんていうのは無理な注文だよ。どんな形であれ、自分で描いたものを人に見られるんだからさあ。ましてやここに描いたものはたくさんの通行人に見られるんでしょう。なら手は抜けないよ」

「それで、できそうか?」

「さっきも言ったけど私は何メートルもある大きさの絵を描いたことはないからね。だから、こういうものを用意した」


 荻久保はカバンの中から何やら機械を取り出した。何かの授業のときに見たような気がするな。なんだっけ。


「OHPね。それ」

「そ。オーバーヘッドプロジェクター。学校にあったのを借りてきたの」


 荻久保が取り出したそれは授業の時に使う画像を投影する機械だった。普通はスクリーンなどに写すのだが、今回荻久保は違う使い方をするようだ。


「図柄は昨日サンプルをいくつか星原さんに渡したと思うけど、どれがいい?」

「お父さんに見せたらこの人魚と帆船が一緒に描かれているのが良いと言っていたわ」

「了解。それじゃあ電源は延長コード使って星原さんの家のものを借りるつもりなんだけどかまわない?」

「ええ。大丈夫だけど」

「それじゃあ、月ノ下くん。手伝って」と荻久保が指示をした。


「わかった」と僕は荻久保に従い、延長コードで電源を星原の家から引っ張って、OHPに接続する。荻久保は図柄が描かれた透明なシートを機械の光源の上に乗せた。すると。


「……おお。すごいな」


 僕は目を見開いて感嘆の声を漏らした。


 ちょうど夕刻で、空は暗い青色になりかけている。街灯が灯るほどではないが、一日の終わりを予感させ始めた街角で、煌々とした光が帆船とそれを眺める人魚の線画を幻想的に写し出した。元は縦横十数センチ程度の小さなイラストが拡大されて数メートルもの大きさになって、落書きされた星原の家の壁の上に現れているのだ。


「ふむ、こんなものかな。じゃあ月ノ下くん、ちょっとこのままOHPを持っていて。なるべく動かさないでよ」

「ああ。わかった」


 僕は荻久保に渡された機械を持って、そのまま壁に絵を投射し続ける。


 荻久保はチョークを取り出してその線画をなぞっていった。人魚と帆船、逆巻く波と戯れる魚をチョークでラフに描いていく。


「よし。もういいよ」

「大丈夫なのか?」

「下書きはこれでOK。あとはスプレーで基本になる色を塗っていって、順々に仕上げていく。今回は頼まれていた通り水性のカラースプレーを用意したよ。これなら水で流してこすればすぐ落ちるから。ちょっと待っていて」


 そう言って荻久保は星原の家に入っていった。二人だけになったところで、僕は何となく星原に聞いてみる。


「今回の話、お父さんは納得してくれたのか」

「最初はあまりいい顔しなかったけど。……なにせ、せっかく綺麗にしてもらった壁を落書きされたところなのに、そこにさらに絵を描こうっていうんだもの。でもこれで被害を最小限にできるならって納得してもらえたわ。……もっとも『私のクラスメイトの男の子が考案してくれた対策だ』っていったらちょっと渋い顔をしていたけどね」

「そりゃ、高校生の思い付きともなれば、上手く行くか心配にもなるだろうな」

「……そういう意味じゃないと思うんだけれど」


 星原がうつむき気味にそっぽの方を向いて呟いた。


「お待たせ」


 荻久保が戻ってきた。ジャージの上に作業用のエプロンをしている。どうやら汚れてもいいように服を着替えてきたようだ。


「それじゃあ、いっくよー」


 そこからの荻久保の動作はまさにプロ顔負けと言ってもいいほど見事なものだった。


 ベースになる海の青い色や人魚の髪の亜麻色と肌の小麦色を塗っていき、その上に光の照り返しや波の泡立ちを表現する明るい色をのせていく。元々あった落書きは完全に覆いつくされた形だ。


 何よりもすごいのはその速さだ。描き始めてから一時間程度で壁半分を埋め尽くすほどの大きさの見事なグラフィティが浮かび上がっていた。


 誰かが何も知らずに通りすがったら、一瞬立ち止まって目を奪われるのではないだろうか。


「すごいな」

「ええ。正直感心するわ」

「ふふ。それほどでもないよ」

「それじゃあ、今回の分渡しておくわね」


 星原は千円札を財布から取り出して荻久保に渡した。


「どうも」と荻久保は笑顔で受け取る。

「それで? この後はどうするの?」


 そういって巻き毛の少女は壁を見上げた。


「まあ、とりあえずは様子見だな。次は二日後にまた書いてもらうことになるんだけど大丈夫か?」

「いいよ。とりあえず、これも美術部の活動の一環だということにしてあるから」


「上手く行くといいのだけど」と星原も壁の絵を見上げながら呟いた。

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