トラジとブチ丸
八代 智
第1話
矢畑美里の前世は猫だった。
事実かどうかはわからない。だが彼女の中にその記憶が入り込んできたのは小学校三年生の時だった。
放課後に友達とかくれんぼをしていた彼女は、隠れた物置の陰で猫の喧嘩に出くわした。背をとがらせて唸る猫、迫り来る般若の表情、その興奮と鼓動がまるで自分のことのように体中を駆けめぐった途端、猫目線と思われる低い位置からの風景や様々な思い出が脳内に流れ込んできたのだ。
この記憶はなに?
荒い呼吸を押さえる自分の手を見たときに、その手が毛の生えていない五本指の人間の手だったことに驚いた。驚くことなんて何も無いはずなのに。
この手は毛むくじゃらのはずだった。土にまみれて固くなった肉球があるはずだった。九年間、この五本指の手を使ってきたはずなのに何故こんな気持ちになるのか。
私は昔猫だった。
それもただの猫じゃない。野良猫で、その地域のボス猫とされていた強くて大きくて凶暴な猫。名前はトラジ。誰がつけたかは知らないけど皆私をそう呼んでいた。
当時九歳だった美里は急に流れ込んできたトラジの記憶と今の状況を受け入れることができずに、その日は友人を放ったらかして家へ帰ってしまった。
おやつを用意していてくれた母親を無視し、一緒にかくれんぼをしていた友達が心配して訪ねてきても部屋から出ず、その日は布団をかぶって必死に混乱に耐えた。そのまま夜になったが一睡もできなかった。
翌朝、心配をした母親が学校を休ませてくれた。しかし頭の中では、今の家族は美里の家族ではあるけれどトラジは関係なくてでも私はとらじで、と訳のわからないことをぐるぐると考え続けていた。
結果、いつの間にか寝ていたらしい。
さすがに小学生に徹夜は無理だったようだ。気がついたら布団をかぶったそのままで、枕元の机には母親が持ってきたのであろう水筒が置かれていた。
美里はゆっくりと起きあがって水筒の蓋を開ける。蓋をコップ代わりにして中身を注ぐとそれは庭のミントで作られるいつものハーブティーだった。
つん、とする草のような香り。鼻に抜けていく清涼感。きっと庭のあの辺で採ったんだろうなあと考えていたら私は矢畑美里だ、いつもの私だという気になっていた。もしかしたら、トラジの事は気のせいかもしれないし私の妄想かもしれない。でもやっぱり本当かもしれない。どっちでもいいや、と。
心の整理がついたところで、美里はそのことを誰にも話さなかった。
家族にも、友人にも、先生にも。
そうやって嘘かもしれないし、本当かもしれないのスタンスで彼女は矢畑美里を生きていた。それは中学生になっても高校生になっても同じだった。
トラジの記憶は消えない。それどころか、そういえばあの時とさらに思い出すことすらある。私も妄想癖すごいなあと思いながらも自分だけが誰も知らない別の世界を知っているようで少し楽しかった。
高校二年生になった今もそれは変わらない、そのはずだった。
美里はこの春に高校二年生へ進級した。
ウエストのところで短く折られたスカートに地毛かどうかの微妙なラインで焦げ茶に染められた髪。それを横で一本に結び綺麗な水色のシュシュでまとめている。腕には星の飾りのついたヘアゴムをつけていた。
あまり素行のよい生徒の部類ではない。自分でもわかっていた。事実、一年生の時から体育科の教師は天敵だった。
仲のよかった友達も美里と同じようなタイプの女子ばかりで、教師達の目をかいくぐりいかにおしゃれをするかを楽しんでいた。
だが美里は今ふてくされている。透明がかった薄いピンク色に塗られた爪の先端が欠けていた。美里はその部分を乱暴にひっかく。
一年生の時に仲が良かった子達とは完全に離れてしまった。同じクラスの生徒もいるが、ほとんど話したことの無い子で今から話しかけに行くのはすがりつくようで絶対に嫌だった。
始業式のために体育館に並び偉い先生達の話を聞いているふりをしながら今後の事を考える。
幸いにも今日は初日なので、学校は午前で終わる。昼休みにお弁当を誰とどこで食べるという課題は明日にまで引き延ばせそうだ。
偉い先生の話が終わり、ぞろぞろと順番に教室へ戻っていく。
「ねえ」
ふいに制服の袖を引っ張られた。
振り向くと後ろに並んでいた同じクラスの女子が美里に声をかけたのだ。
「何?」
美里は怪訝な顔で聞き返した。相手の女子は優等生のような、でも念入りに身だしなみをチェックしているような子だった。丸っこいショートカットの髪が印象的だ。その子は美里に顔を近づけて小声で言う。
「体育館の出口の陰でね、山田が制服チェックしてるらしいの。捕まると面倒くさそうだから気をつけた方がいいよ」
山田、とは体育科の教師の山田先生のことだ。美里の天敵である。
「毎年、一学期の始業式でチェックしてるんだって。先輩が教えてくれたの」
その子はいたずらそうに笑った。笑うと目が細くなってなくなるタイプの子だ。美里は情報を聞けたことより今日から同じクラスの子に話しかけてもらえたことにほっとした。
「ありがとう。じゃあ今だけスカート戻さなきゃね」
「うん」
二年生は全部で八クラスあり、美里はそのうちの二年四組だった。
教室に戻った生徒達はホームルームで一人ずつ自己紹介をして担任の話を聞いた。授業の時間割を渡され教科書が配られる。いつもの流れだ。
さっき体育館で話しかけてくれた子とは席が離れていた。美里は窓際で彼女は廊下側だ。
私、愛想良く話すの得意じゃないんだよなあ。
ホームルーム後に近くの席の子同士が少しずつおしゃべりを始めるのを横目に美里は思った。昔からそうだった。仲良くなればいくらでも話せるし甘えられる。でも初めの一歩を踏み出すのが苦手だった。そのため「いつも機嫌の悪そうな人」と誤解されることがある。
「今回もそうなったら嫌だな」
窓から外をみて誰にも聞こえない声でぽつりと言った。
少し生ぬるい春の風が暑く感じた。
今日はホームルームだけなのでもう帰っていいのだが、皆新しい友人とのコミュニケーションに試行錯誤してなかなか帰ろうとしない。一部の男子生徒が少しずつ帰りの支度をして教室から出ていった。
もう帰っていいにも関わらず誰とも話さないくせに教室に残るのはつらい、そう判断した美里は今日は帰ろうと支度をした。
教室を出るときにさっきの子がこちらを見た。
「矢畑さん!また明日ね」
人懐こそうに美里に手を振る。ホームルームでの自己紹介で美里の名前を覚えてくれていたらしい。
「あ、うん。明日ね」
本当はとても嬉しかった。明日こちらから話しかけたらそのまま仲良くなれるんじゃないかとすら考えた。でもそれを表に出すのが恥ずかしくて素っ気ない返事をしてしまった。
嫌なやつに思われたかな。
教室から出て扉を閉めるときに小さく聞こえた。ほかの女子があの子に言っていた。
「矢畑さんて雰囲気怖いよね。不良の彼氏がいるって噂あるみたい」
いねえよ。と思わずつっこみそうになった。
誰だよそんな噂流した奴。そもそも彼氏なんていないわ。
今年は前途多難になりそうだとため息をついくと隣の教室から人が出てきた。
すらっとした長身で黒く長い髪をストレートにした子。モデルのようなオーラを出していた。隣のクラスもホームルームが終わっているらしい。
その色白な顔に見えるキリっとした視線と目があった時、美里にまたあの衝撃が走る。
視線、共闘、縄張り、白と黒のコントラスト。
脳内を記憶が駆けめぐっていく。
私はこの目を知っている。
獲物をねらう鋭いまなざし。人間に対しても、他の仲間に対してもそう簡単には心を開かなかった。ただトラジとは互いを認め合っていた彼。
美里があまりにも食い入るように見つめたため、その子は不思議そうに美里を見つめ返してきた。
「何?」
透き通るような声で言う。
彼女の声に美里ははっと我に返った。それはそうだ。この場に及んで彼女がニャアと言うわけがない。
浅い呼吸のまま、美里は答えた。
「おまえ、ブチ丸だよな?」
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