2.ようやく死ねる

 アレックスの許に手紙が届く、その一月前。

 手紙の送り主――シンディは〝コッキング〟という名の地下酒場を訪れていた。


 真っ先に彼女を歓迎したのは、ドアの軋みとベルのやや歪んだ音色だった。次いで、クラシックの旋律が肌に沁みてくる。どことなく感傷的な響きだった。

 シンディには、それが却って慰めのように感じられた。自分の境遇を、嘆いてくれる誰かがいるような気がして。


「いらっしゃいませ」


 バリトンの声に迎えられ、シンディは我に返る。店内にまだ他の客の姿はない。グラスを磨くバーテンだけが、こちらを見て微笑んでいる。

 汗ばんだ首筋を撫で、シンディは艶っぽく笑った。自然と零れた表情ではなかった。染みついた習慣がそうさせたのだ。化粧っけのない自分の顔を思い出して、彼女は笑みを引っこめた。


「席はどこでもいいのかしら?」

「お好きな席にどうぞ」

「ありがとう」


 カウンターには向かわない。夜更けまでグラスを傾けるつもりならバーテンと話しこんでもよかったが、シンディは酒を飲みに来たのでも、甘い出会いを求めに来たのでもない。


 入口から見て、二番目に遠い円卓。

 その壁際の席は、聞くところによると曰くつきの席らしい。

 なんでもそこに腰を下ろすと死神の使い――メッセンジャーと呼ばれる存在が現れるのだという。


 半信半疑、シンディはその席に腰を下ろした。

 ちょうどバーテンと向かい合う形で。

 ところが席についた途端、バーテンとは目が合わなくなってしまった。まるで、舞台袖にはけた役者のように。彼女を観る目はなくなっていた。


 それにシンディは、心底ぞっとした。ドアを開けたときには、寂寞とした空間を心地好いとすら思ったのに。自分がこの世界から消えてなくなってしまったような気がして、いまさら怖気が込み上げてきた。


 手のひらに爪をたてると、しかし痛かった。

 シンディはゆっくりと胸を撫でおろした。


 ベルが鳴った。湿った空気が頬を撫で、すぐに途絶えた。戸口を見やって、シンディは首を傾げた。酒場にはとても似つかわしくない、少女がいたからだ。しかもその少女は、チープなピンクの髪留めを弄びながら真っ直ぐこちらにやって来るではないか。


「こんばんは!」

「こ、こんばんは」


 少女は誰の許可も得ぬまま、いきなりシンディの対面に腰かけた。

 困惑したシンディは、カウンターのほうに目をやったが無駄だった。バーテンは少女の姿も見えていないかのように黙々とグラスを磨き続けている。呆れて溜息を漏らすと、少女が左右に身体を揺らし始めた。


「お姉さん、いくつ?」


 この上なくストレートな質問だった。年頃の男が相手ならレディに年を訊くものじゃないと眉をひそめもしただろうが、好奇心むき出しの目に見つめられると、説教より笑いがこぼれた。

 

「四一よ。もうお姉さんじゃないわ」

「あたしより年上だからお姉さんじゃないの?」

「お姉さんはもっと若い子に言ってあげるといいわ。わたしはもうおばさん」

「エヘヘ」


 何が楽しいのか、少女は欠けた前歯をみせて笑った。不思議と嫌な感じはしなかった。シンディが瞬くと、少女は照れたように首をすくめた。そして目線をあっちこっちに飛ばして、最後にテーブルを見下ろすと突然、何かを思い出したように肩から斜めにかけたピンクのバッグをまさぐりだした。やがて現れたのは陶器の灰皿とピンクの蝋燭だった。


「なにを、しているの?」

「キャンドルを焚く準備だよ。とってもキレイなの」


 どうして突然?

 疑問が浮かんできたものの、訊ねても納得のいく答えは得られないような気がした。

 この短時間でも明らかだ。この子はちょっとおかしな子だ。でも、たぶん悪い子ではない。目当ての相手が来るまではどうせ暇だし、もう少し相手をしてみようか、とシンディは会話を続けてみる。


「それすごい色だけど、匂いとかするのかしら」

「ストックね、ケチだから匂いつきのは買ってくれないの」


 いまいち要領を得ない答えだが、とにかく匂いはしないらしい。

 相槌を打つと、ニカっと笑いが返ってきた。

 眩しいほどの無邪気な笑みに目を細めていると、少女は明かりが眩しいと勘違いしたのか、天井からぶら下がった照明を消してしまう。互いの間に、すとんと闇が落ちる。


「あ」


 闇はすぐに蝋燭の炎が払った。だが、そればかりではない。先程の少女まで、炎は消してしまったようだった。目の前の少女は、まるで別人のように表情を変えていた。無邪気な笑みはどこへやら。かすかに頬を緩ませた微笑みは、薹が立った女の目にも大人びて映った。細められた目の深遠な闇色に、炎の赤が揺らめく。


 なに、この子……? まさか。


 シンディは鳩尾に手をやった。ちょうど卓上を濡らす炎のように、痛みがじんわり広がりだした。

 少女は灰皿の下から一枚の紙切れを滑らせて寄越した。蝋燭の炎が揺れ、鼻先を熱がかすめた。シンディはふんだくるように紙切れをとって裏返し、そこに書かれたメッセージに目を走らせた。


『いらっしゃいませ、シンディ・カーク様。死神の酒場〝コッキング〟へようこそ』


 紙切れは、すぐ少女の指に摘まみあげられ、炎の餌と化した。歓喜に身もだえる炎の明かりが、シンディの泣き笑いめいた表情を照らした。


 この子だ。この子がメッセンジャー……!


 シンディは、妖しい笑みの少女に熱い眼差しを注いだ。

 次第に強くなっていく痛みに耐えながら。

 ようやく死ねる、と安堵しながら。

 

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