5.ここへ来た

「ボクはそろそろ足洗いたいんですけどねぇ」


 ダークグリーンのスーツに身を包み、シルバーフレームの眼鏡を押しあげたその男の名はエリック・カークナー。表の顔は〝コッキング〟で働くバーテンの一人だが、一方でかれは死神と依頼人を中継するメッセンジャーでもある。


 ゆえにローケンクロゼの死神は、彼を『エリック』とは呼ばない。

 彼に与えられた裏の名は『バレル』だ。


「おい、バレル。ようやく次の仕事が決まったところだぜ。今辞められるちゃ困る。解るだろ?」


 ローテーブルをはさんで、死神とバレルは向かい合う。

 蝋燭に灯った明かりを受け、謎めいた微笑を浮かべると、バレルはソファーに背を沈めた。


「もちろん解ってますよ。でも今回の仕事で最後にしたいなぁって思ってるんです」

「なんだ、女でもできたか?」

「いえ、女性には平等に接する主義なので。恋人も妻ももちませんよ」

「色男には、いちいちイライラさせられるな」


 死神は煙草をふかし、眠るように目を細める。


「ハハ、撃たないでくださいよ?」

「お前の身体に金が詰まってりゃ、今すぐ撃ってたが」

「残念ながら食の足しにもなりませんね。死神さんもそこまで野蛮じゃないでしょ」

「まあな。食うのは女だけで充分だ」

「同感です」


 いつの間にか、辞める辞めないの話は有耶無耶になっている。死神との会話はいつもこうだ。口は達者でないはずなのに、主導権を得るのは上手い。この手の話題を、もう何度受け流されたか分からない。


 しかしこの日の死神は、あえてその話題に触れ直した。


「新しいパートナーが見つかるまで頼めねぇか?」

「構いませんよ。候補が見つかったんですか?」

「いや、まったくだ。だが、辞めてぇと言ってる奴を置いておいてもな」

「足手まといになります?」

「そういうことだ」


 バレルがメッセンジャーを務めて、もうそれなりに長い。受け身の死神から、色々と聞きだしたこともある。彼が死神になった理由も知っている。だから、それが彼の本音でないことも解っていた。


 素直でない人だ。そして不器用な人だ。

 そうでなければ、バレルも未だここに座っていない。命懸けの仕事に、信用ならないパートナーを選ぶバカはいない。男も女も、刹那的に身を任せれば、破滅をまねき寄せるだけだ。


「タバコ、一本いただけませんか?」


 バレルはふいに上体を起こし、ニコリと笑った。

 死神は目を眇める。


「煙草なんか吸うようになったのか?」

「いえ、なんとなく」

「そうかい」


 死神は多くを訊ねない。

 こういうところも嫌いではなかった。


 バレルは煙草を受けとると、優雅にそれを咥えた。

 ジッポをとり出す気にはなれなかった。

 色男は一人の女など愛さないのだ。

 今日の口づけの相手は、弱々しいほうがジンとくる。

 バレルは蝋燭から煙草に火をうつした。


「……死神さん」

「あん?」


 バレルは一度紫煙を吐きだしてから、愉快げに死神を見つめる。


「どうしてあの子の依頼を受けたんですか?」


 真昼間にやって来た、マロウとかいう少年のことだ。

 死神は、依頼人の大切なものを対価として頂戴する。だが。あのせいぜい十二、三年しか生きていないであろう少年からは、貰う価値のあるモノも金もあるようには見えなかった。


 それでも死神は依頼を受けた。

 少年の指定したターゲットは、ホーマー孤児院の職員――そのすべてだったにもかかわらずだ。


 死神からは一笑もなく、感情の読めない眼差しがバレルを見返した。


「ガキは弱い生きモンだ」

「おっと、慈悲ですか?」


 バレルはおどけるように言った。


「んな奴が殺し屋なんざしねぇよ」

「それはそうだ」


 バレルは軽く膝を叩いて笑う。

 その上で訊ね直した。


「では何故?」

「弱いから、殴られりゃビビる。カメみてぇに肩竦めて閉じこもるのが普通だ」

「まあ、そうですね。ボクも殴られれば痛いし怯えますよ」

「だが、あいつはここへ来た」

「……なるほど」


 死神の言葉は少なかったが、バレルには彼の言いたいことがよく解った。あえてそれを確かめる必要もない。ただ、ふかく煙を吸いこんだ。慣れない味は舌にも肺にも痛かった。


 そういえば、タバコってこんな味だったな……。


 バレルは死神を信用しているし、彼のやり方に賛同もしている。

 一緒にいればスリルもある。

 今更、命が惜しいと言うつもりはないし、引き金をひくのに躊躇いもない。自分のような人間には、むしろ向いた仕事なのだろうと思う。


 それでも時折、考えてしまうことがある。

 こんな日々が一生つづくのだろうかと。 


 依頼人と向きあい、ターゲットを殺し。

 誰かが幸福になって、誰かが不幸になる。あるいは誰も幸せにならず、あとには銃の手入れが待っている。


 今回の仕事は、善か悪か。


 それを一口に決めつけてしまえれば楽だろうに。それもできない。不要と理解したはずの葛藤が、ふとした瞬間につきまとう。


 畢竟ひっきょう、人生とは、そういうものの繰り返しなのかもしれない。それでも死神の周りに付きまとうそれは、あまりに濃厚で判然としないのだ。

 バレルはそんな生き方に疲れてしまったし、どっちつかずの自分に飽いてもいた。


「あの子は幸せになれるでしょうか」


 それなのに曖昧な自分は、またくだらない一言に酔おうとする。


 マロウに対しては興味もなければ執着もないのに。

 彼はただの子どもであり、一人の人間であり、どんなに細い糸でも一度は交わってしまった相手だと、自分のなかの深い部分が声をあげている。


 無論、不器用な死神から慰めなど返ってこない。

 耳に届くのは、至極真っ当な一言だけである。


「それを決めるのは俺じゃねぇさ」

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