5.愛ゆえにさ

 辺りはすっかり暗く、街灯の疲れた明かりだけが住宅街の隅を濡らしている。時折、通りをはしる車のランプは暗闇を恐れるように忙しなく、けれど闇のなかへと消えていく。


 ストックとマグの二人は、旧式のフィガロの中で時が来るのを待っている。


「今回の仕事は楽そうだね」


 片手でピンクのキャンディを舐め、空いた手で膝にのったクロームシルバーのアタッシュケースを撫でるマグ。この少女はいつ如何なるときも笑顔を崩さず、表情を失くせば死んでしまう呪いにでもかかっているかのようだ。


「まあな。セキュリティも用心棒もねぇ。も必要なさそうだ」


 対するストックには表情がない。そもそも暗闇とウエスタンハットの影が重なり、その相貌を窺い知ること自体容易ではなかった。


「そろそろピッキングとか勉強しないのー?」

「殺し屋はタマが撃てりゃいいんだよ。それにちまちましたのは性に合わねぇ」

「だからタマ代かかるんじゃん」

「うるせぇ。じゃあ、お前が勉強しとけ。それよりメンテはちゃんとしたのか?」

「抜かりなし!」


 マグは敬礼のポーズをとって、ない胸を張る。ストックから返事がないと見るや、キャンディをぺろぺろ舐めて言った。


「ていうかさぁ、そんなに心配なら自分でメンテすればいいじゃん。昔は銃なんか触らせてもくれなかったのにー」


「お前が触らせてくれって言うから、任せてやってんだろうが。分業だ、分業。それにもう三年ばかしいじってるじゃねぇか。いまさら文句いうな」


 そこでマグはニタリと笑って、殺し屋の鼻先にキャンディを突きつけた。


「ブッブー! 五年ですぅー!」


 ストックは肩をすくめる気にもならず、唇に触れるがそこにシガーはおろかシガレットすらない。クソだ。


「三年も五年もさして変わらん。それより、あんまデカい声だすな」

「あ、ごめんなさーい……」


 マグはキャンディを口許に戻して、口をつぐむポーズを作った。たちまち沈黙が闇と手をとりあう。マグにはこのような時間がどうにも我慢できない。忍耐という忍耐を駆使して唇をぬいつけるが、その代わりに身体のいたるところがモゾモゾと動きだすのだった。


「……はあ」


 見かねてストックのほうから口をひらいた。


「今、何時だ?」

「デートまで残りわずか!」


 待ってましたとばかりに敬礼のポーズ。


「何時だって訊いてんだ、アホ」

「十二時の十分前です!」

「そろそろだな」

「装備はどうするの?」


 不意に生真面目な顔つきになってマグが訊ねる。


「打ち合わせしたろ。今日はそいつの厄介にはならねぇ」


 そう言ってストックは、アタッシュケースをあごで示した。


「じゃあ、今日のあたしの仕事は?」

「それも打ち合わせ通りだ。玄関に突っ立ってろ」

「へいへい、リョウカイ」

「あともう一つあるぞ」

「え、なになにっ?」


 マグは思いがけぬ言葉に瞳を輝かせた。


「さっさとキャンディを食え」


                 ◆◆◆◆◆


 コンコン。コンコン。


「んん……」


 コウナーは、ノックの音で目覚めた。濡れ雑巾のような瞼をどうにか持ちあげて、薄闇のなかを見渡す。酒と金の海ではない。空き缶と薄闇におぼれた、見飽きた部屋だった。


「んあぁ……」


 今日は昼間から飲んでいたせいか最悪の寝覚めだ。胸の奥で大蛇がのたうち、頭のなかでは雷が鳴っている。けれど窓外の闇には、ぽっかりと空いた黄金の穴が窺える。月のきれいな、皮肉な夜だった。


「……コウナー。コウナー」


 ノックとともに呼び声。

 くぐもったアルバの声。

 借金のことで大喧嘩して以来聞いていなかった旦那の声だ。


「なによぉ?」


 コウナーはうんざりしながら、酒にやけた声で答えた。

 するとアルバはノックを続けて「とにかく開けてくれ」と言う。


「……どうして?」

「いいから頼む。開けてくれ」


 意味が解らなかった。酔いが残っているせいで、判断力が鈍っているのか。アルバが何をしに来たのか、何をしようとしているのか、てんで見当がつかない。


 だが、このままずっとノックの音で安眠を妨害されては堪らない。

 コウナーは疼くあたまを押さえ、苛立ちはそのまま舌打ちに、足でコロンコロンと空き缶を蹴ってドアの鍵をあけた。


「入ってもいいかい?」

「勝手にしなさいよ」


 ふらつく足でベッドに腰かけると、何年ぶりになるのか、自分以外の人間が部屋のドアを開いた。明かりのない室内には、けれど眩しいほどの月光がさしこんで、アルバの姿が青白くきらめき浮かび上がるようだった。


「やあ」

「なによ?」


 アルバは弱々しい笑みを浮かべ、ドアの前に立ったまま近づいてこようとはしない。足の踏み場もない、空き缶とゴミにまみれた部屋へ入るのを躊躇しているのか。堕落した妻へかける言葉を探しているのか。その真意は計り知れなかった。


 ただその手許には、シルバーのプレートとクロッシュが見てとれた。


「なにそれ?」


 訊ねると、アルバは照れくさそうにはにかむ。


「料理を作ったんだ」

「いつも作ってるじゃない」

「違う。君に作ったんだよ」

「どういう風の吹き回し?」


 コウナーは顔をしかめ、二の腕をさすった。


「昔……君に婚約を申しこんだとき、ぼくは言った。素敵な店をもって、君に最高の料理をふるまうって」


 アルバが空き缶をよけながら、一歩部屋のなかへ踏み入る。


「でも、いざ結婚したあとでこうも言った。ぼくの納得する最高ができあがるまで、中途半端な料理を君にたべさせるわけにはいかないって」


「憶えてないけどね……。それで、最高傑作ができあがったってわけ?」


 訊ねると、アルバは小さく肩をすくめる。


「わからない。だけど、ぼくにできる最高の料理を作ったつもりだ」


 そう言ってアルバがクロッシュをとると、中から現れたのは、闇のなかにあってなお黄金と判る玉子の山だった。その肌を優しく包み込むようにかかっているのは、クルミ色のソース。プレーンオムレツだ。


 コウナーは鼻で笑った。


「なにかと思ったら、オムレツ? わたしを何だと思ってるの?」

「いつか、食べさせてやりたいと言ってたから……」


 アルバの声はひどくかすれ、ほとんど聞きとることができなかった。だが聞きとれたところで、この涸れた心を潤す雨になったとは思えない。コウナーがアルバと言葉を交わすとき、そこには常に茨のような苛立ちがつきまとった。


「わたしはオムレツなんかより、酒のほうが好きよ。どうせなら料理なんか作らずに、あんたの店でだしてるワインを持ってきてくれたほうがよかったわ。とびきりシブいやつ」


「そうか……。でも、せっかく作ったんだ。冷める前に一口だけでも食べてくれないか?」


 コウナーは「ハッ」と侮蔑的な笑いを吐いた。


「いらないわよ。気分が悪いの。今は食べ物なんか見たくもない」


 一瞥すると、アルバが傷ついているのが判った。その茫洋とした眼差しに、たしかな悲哀が融けていた。


 それでも食べる気にはなれなかった。本当に気分が悪かったし、卑しい復讐心が邪魔をした。


 アルバは夢を叶えたのだ。「素敵な店」を手に入れ、満足しているのだ。子どもを作れない身体のくせに。傍にいて欲しいとき、いつも独りにしたくせに。この男だけは、すべてを手に入れようとしている。それが許せなかった。

 

「……わかった。邪魔して悪かったね」


 そしてアルバは去っていくのだ。踵をかえし、また置いていくのだ。


 コウナーは足許の空き缶を手にとり、その背中に狙いをさだめた。


 わたしは、あんたに謝って欲しかったんじゃないわ。


 沸々と怒りが湧いてくる。この男の手に入れたものすべてを、壊してやりたいと思う。


 しかしコウナーの手から、ついに空き缶が投げだされることはなく、ドアは重くとざされた。


「くそっ……」


 アルバに抱えられたオムレツ。

 あれを想うと、どうしてもできなかったのだ。


 すべてを否定したいけれど、


『いつか子どもができたら、オムレツを作ってあげて。そしたら、きっと喜ぶから』


 否定したくなかった。

 もし、それができたなら、きっと今のような自分もいないだろう。


「遅すぎたのよ……なにもかも」


 コウナーは頭を抱えうつむく。自分たちの歩んでこられなかった、たくさんの時間について思いを馳せる。だがそれは果てしなく虚しいことで、運命の神は自堕落な女にも慈悲深かった。


 泥沼の思考へおぼれかけたコウナーの耳を、突如、呼び鈴の音が叩きつけたのだ。


「……誰よ、こんな時間に」


 イライラして空き缶を蹴飛ばすと、もう一度呼び鈴が鳴った。それも無視していると、また聞こえてくる。


「もうっ!」


 コウナーはしびれを切らして立ちあがる。ドアをあけ「アルバ!」と呼ばうが、反応がない。


「ねぇ、アルバったら!」

「……」


 やはり何の声も返ってこない。

 

「ったく……」


 コウナーは仕方なく玄関へ向かった。

 呼び鈴の音。うるさい。

 苛立ちながらドアスコープを覗く。


 するとそこに、予想だにしない姿があった。


「夜分晩くにごめんくださーい!」

「え、ちょっと……!」


 外の小さな人影が声をあげた。

 コウナーは大慌てでドアを押し開けた。

 そこにいたのは〝コッキング〟で出逢ったメッセンジャーの少女だったのだ。


「ちょっと、何してるのあんた……!」


 家に来られるのはマズい。バカでも判るはずだ。だがこの子どもは、そういえば脳みそが溶けている。アルバに殺し屋を雇ったことがバレたら、借金どころではない。ブタ箱送りだ。


 いや、これからアルバを殺すのか?

 いやいや、まだ半年も経っていない。ひと月が経ったかというところだ。


 コウナーの困惑をよそに、少女はニコニコと笑っている。


「ご依頼について、お話しておかなければならないことができたので、お伺いしましたー」


「話? 話ってなに? いや、ここじゃマズいわ。場所を変え――」


「いや、その必要はねぇ」


 突如、ガシとドアの縁が掴まれた。

 陰から現れたのは、


「……ッ!」


 見間違えようもない――ウエスタンハットにロングコートの偉丈夫。〝コッキング〟の死神だった。


 悲鳴をあげる間もなかった。殺し屋は、その体格から想像もつかないしなやかさで中へ押し入り、ともに滑りこんだ少女がドアを閉めた。月光の忍びこむ余地なく闇がすべてを支配する。


「ンッ……!」


 たちまち巨大な黒手袋に口をふさがれ、床へ押し倒された。額におもく冷たい感触が押しあてられ、セーフティレバーがチャキと鳴き声をあげた。コウナーは鉄を呑んだように固まる。「エヘヘ」と少女の笑い声。


「安心してくれ。仕事はちゃんとこなす。アルバ・ハーセンには死んでもらうさ」

「ンン……ッ!」

「報酬もいらねぇ。あんたから貰うモンは何もねぇからな」


 そう言うと殺し屋は、不意に口許から手をはなした。しかしすぐに頸部を絞めつけられ、声を殺される。


「だが、色々あってね。あんたにも死んでもらう事になった。どうしてこんな事になったか、解るか?」


 解るはずがなかった。

 コウナーは動かせる範囲で首を左右に振り、涙でもって命乞いをした。


 すると殺し屋は、無感情に「だろうな」と吐き捨てた。

 そして、こうも言ったのだった。


「……愛ゆえにさ」


 ピュンと風を切るような音があった。

 それを知覚できたかどうか。

 コウナーの意識は、たちまち闇と同化した。

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