エデンの大空
ひじりじろう
1.時のまにまに
遥かなる昔。人類の始祖アダムとエヴァは、禁断の果実を食べた罪により「エデンの園」を追放された。現代、その楽園を見た者は何処にも存在しない。
・・・
春が終わり、夏の始まりを感じられる季節。ゆるやかな風が流れる、晴れた朝。
一戸建てが建ち並ぶ住宅地を、一人の少女が歩いていた。
少女の名は、御剣忍(ミツルギシノブ)。ダークブラウンのショートボブ。大きな垂れ目には黒い瞳。整った容姿から「癒し系の美少女」という言葉が似合いそうだ。身長162センチ、16才の高校二年生。
紺のジャケット、青と白のチェック柄スカート、標準的な制服を身に付けている。背中に背負った大型の赤いリュックが、ぺこりと凹んでいた。どうやら、通学途中のようだ。
忍は、ある家の前で立ち止まり、表札の横にあるチャイムを押した。
「今、開けたわよ。上がって」
インターホンから優しい女性の声が返ってきた。
玄関のドアを開けて、家の中へ。
廊下の先から女性の声がする。
「まだ起きてこないのよ。忍ちゃん、お願いね」
「はーい。おじゃましまーす」
忍は、目の前にある階段を駆け上がり、突き当たりの扉まで移動した。背中のリュックをそっと床に下ろして、指先で髪を整える。ドアノブに手を掛けて、ゆっくり扉を開けていく。カーテン越しの優しい光が室内を照らしていた。
部屋の様子を確認するように、左から右へ視線を移動させる。壁に埋め込まれたクローゼット、使い込まれた木製の机、窓際に置かれたセミダブルのベット。
爪先歩きで、静かにベットへ近付いて行く。枕の上に転がっている寝顔を覗き込み。
「⋯⋯アホ面だねぇ」
小さな声で呟いた。
「よし」
忍は、軽く気合いを入れる。掛け布団の端を両手でしっかりと掴み、力一杯、真上に持ち上げてから素早く引っ張った。剥ぎ取られた布団の下からアホ面をした少年が現れる。
「そーらーっ。朝だぞーっ」
忍の声にも、まったく反応がない。
「もう、しょうがないなぁ⋯⋯」
ショートボブの髪を軽くかき上げ、自身の顔を少年の顔にゆっくりと近付けていく。あと数センチの所で止まり。
「ふぅーっ」
耳に向かって、息を吹きかけた。
「ひゃあ!」
突然、少年が飛び起きる。と同時に、忍は「わかっていたわよ」と言わんばかりに、後方へ避けて見せた。
「んぁ。おはよぅ」
アホ面の少年は、寝ぼけた口調で挨拶した。ゆっくりとした動作でベットの端に腰掛ける。寝起きの顔を両手で挟み、頬を叩いて自身を目覚めさせた。
枕元に置かれたデジタル時計が、7時15分を指している。
「おはよう、忍。相変わらず、時間ピッタリだな」
「ったく。高二にもなって、起こされるまで寝てるって、ありえなくない?」
軽く注意したのだが、ただ言ってみた感が強い。
少年の名は、天童天(テンドウソラ)。黒髪のショートヘア。大きな目には黒い瞳。顔立ちとしては童顔に分類されるだろう。一見、大人しそうな普通の少年に見える。身長172センチ、16才の高校二年生。
・・・
忍と天は、幼馴染である。
16年前。大親友である二人の母親が、同時期に新たな命を授かり、偶然にも同じ12月25日に生まれた。
家が近かった事もあり、姉弟同様に育てられて、何をするにも二人でワンセット。高校生になった今でも、二人でいるのが当たり前で、別行動をする方が珍しい。
同じ環境で育ったとは言え、個性は大きく違っていた。
忍と言えば、学業も運動も学年トップクラス。性格は明るく、いつも元気で、姉御肌な一面を持っている。学校の中でも、ちょっとした有名人だ。
ギャップ萌え、と言うのだろう。癒し系の外見に反して、アクティブな性格と行動力。同年代の男子にとって、本能的に魅力を感じさせるのかもしれない。
最も身近な異性である天にとっては、全く理解できない事だったりする。
おまけに。小学校へ上がった頃から、祖父の道場で古武術を学んでいる。正しく文武両道なのだ。
天と言えば、容姿は普通、学業も普通。これと言った特徴が無いのが、特徴である。生まれて此の方、忍と比べられて育ったことで、彼女にコンプレックスを持っていた。
本人いわく。
「出来のいい姉を持つと、弟は平凡になるんだよ⋯⋯俺は普通がいい」
得意な事を問われれば。
「体力と運動神経には、自信があるかな⋯⋯」
しかし、自己主張が苦手な性格から人前で本気になる事など無かった。
忍いわく。
「私と違って、気が利くんだよねぇ」
空気を読むことに長けているのだろう。状況を把握して、適切な行動を選択していく。意図して普通でいるためには、それなりの能力が必要なのかもしれない。
・・・
「そろそろ、着替えるかな⋯⋯」
天は、ベットから立ち上がった。
「ねぇねぇ。これって駅前にあるスイーツ店の箱だよね?」
目を輝かせた忍が、机の上にあったケーキの空箱を両手で持っていた。
「ああ、昨日の夜に食ったけど」
「えーっ、いいなぁ。私も食べたいなぁ、ケーキ⋯⋯」
ケーキの空箱を胸の前で左右に揺らしながら、猫なで声で訴えた。
(忍って、スイーツへの執着がハンパないからなぁ⋯⋯)
仕方がないと諦めた顔で。
「わかったよ。学校帰りでもいいなら」
「うんうん」
大きく頷いて、了解の合図をして見せる。
「俺、着替えるから⋯⋯」
「そうだねっ。下で待ってる」
ケーキの空箱を机に戻した忍は、ゆるんだ顔を両手で押さえながら部屋を出て行った。
「さて⋯⋯」
天は、着ていたTシャツとハーフパンツをベットへ脱ぎ捨て、あっという間に制服の装着を終えた。黒いバックを左肩に背負い、自分の部屋を後にする。
一階に降りると、忍はリビングのソファーに座っていた。まだ、ゆるんだ顔を両手で押さえている。嬉しさが顔から溢れ出して、「隠したいのに隠せない」と言った感じだ。
忍の様子を眺めながら。
(今日は一日、ご機嫌なんだろうな。ケーキを食べる約束だけで、こんなに喜ぶんだから。単純というか、子供っぽいというか⋯⋯)
そんな事を考えながら、微笑んでいる自分に気付いていなかったりする。
「忍、お待たせ」
「はーい」
ソファーの座面を両手で押して、忍は勢い良く立ち上がった。
「行ってきまーす」
二人が、ハモりながら挨拶をする。
「行ってらっしゃーい」
これが、母からの最後の言葉になるとは知る由もない。
・・・
天の家から高校までは、電車を使って30分。玄関を出た二人は、最寄り駅へと向かっている。
道すがら。忍は、下を向きながら歩いていた。どうやら、モバイル端末で友達と連絡を取っているようだ。当然ながら、歩も遅くなる。
天は、周りに気を付けながら、忍の三歩前を歩いていた。当然のように、歩く速さを忍に合わせている。
結果、いつもより3分遅れて最寄り駅に到着したのだった。
「2番ホームに電車がまいります。白線の内側までお下がりください」
改札の手前で、駅のホームアナウンスが聞こえてきた。
「やばい。忍、急げ!」
言うなり、自動改札をタッチ・アンド・ゴーして、ホームへ駆け出した。
「あっ、待って!」
焦った忍が、後を追いかける。
ダッシュで階段を駆け下り、二人がホームへ着くと同時に車両のドアが開いた。発車のメロディが鳴り、一番近いドアから電車に乗り込んで行く。
「間に合ったな」
「だねっ」
お互いの顔を確認して、安堵の表情を浮かべる。
さすがにラッシュの時間帯。二人の後から次々と人が乗り込み、車内はすし詰め状態になった。天のバックは宙に浮き、胸に抱えた忍のリュックも潰れている。二人は、忍のリュックを間に挟んで、向き合い立っていた。
「いつもより、人が多くない?」
忍が、いかにも不機嫌な顔をしている。
(それは⋯⋯駅に着くのが遅れただろ。いつもと違って、階段に近い車両は混むんだよ)
と言いそうになった言葉を飲み込んで。
「そうだよなぁ⋯⋯」
苦笑いして、ごまかすのだった。
電車が駅を発車して、2分ほど経過した頃。運転手は、線路の前方に次の停車駅を視認した。運転席の速度計が、時速70キロを指している。
突然、電車の進路を妨害するように、怪しい物体が現れた。直径10メートルはある黒い球体である。
危険と判断した運転手が、急ブレーキを掛ける。減速が間に合わず、電車は黒い球体に突っ込んで行った。
「うわぁーっ!」
運転手は、咄嗟に目を閉じた。
だが、衝突による衝撃は感じられない。電車は、黒い球体を突き抜け、走り続けている。
車内では、急ブレーキによって発生した強い力が、容赦無く乗客を襲う。急減速したことで、車内の人や物が、進行方向へ押されていく。車両に固定されている壁やポールに、ぶつかり、押し付けられ、あちこちで悲鳴が上がる。
天と忍も例外ではない。特に、二人の乗った車両はすし詰め状態である。車両後方から押し寄せてくる人達に巻き込まれ、車両前方へと押し潰された。
「忍⋯⋯」
天は、彼女を守ろうとする。だが、この圧倒的な力に逆らう術はない。
「んっ⋯⋯」
忍も、ひたすら耐える事しか出来ない。
黒い球体と二人の乗る車両が近付いて行く。黒い球体が天と忍に触れた瞬間、二人の体は黒い球体の中に取り込まれてしまった。
減速を続けていた電車が、ようやく停車する。周囲に、黒い球体は見当たらない。白昼夢の出来事かのように、忽然とその姿は消えていた。
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