Lady Anne

星孔雀

Lady Anne ~One day~



 盛りを迎えた夏の日差しがどこまでも暑い、街並みが蜃気楼に歪んで見えそうなその日、花はいつもより二時間ほど早くに出勤した。目覚めたときから外の太陽があまりにも眩しすぎて虚しさをおぼえ、一人暮らしの部屋に居ても何もやる気が起こらなかったのだ。花の勤務先はバーなので、店に行けばグラスを磨くなり掃除をするなり、何かしら手をつけることがある。ひかえめに煌めくグラスや飴色をした木のカウンターを黙々と磨くのが、花は好きなほうだった。

 バー、レディ・アン。そこそこにぎわう駅前のビルの六十五階に入居する、穏やかな店である。フードメニューも充実しているので、夜の浅い時間からそこそこ席は埋まるけれど、さして広い店でもないために、賑やかになりすぎることもない。従業員が個性豊か、というよりにこやかな営業スマイルの下で個性ねじ曲がったバーテンダーと調理スタッフで固められていても、花にとっては案外に居心地がよかった。たぶん、大多数に紛れるために個性を殺して生きるより、多少社会から逸脱しているように感じても、自分をはるかに上回る個性的な面子に囲まれて彼らに揉まれているほうが性にあっているのだ。

 店の入り口まで来て、花はいつも使っているキーホルダーにぶら下がるいくつかの鍵のなかから、今の時代これでセキュリティは大丈夫なのかと思いたくなる古びたシリンダー鍵をつまんで鍵穴に差し込んだ。ビル自体はさほど古くないのに、この鍵が古めかしいのはドアのデザインを選んだマスターの趣味である。曰く、こんなに懐かしいドアに最新の鍵なんて似合わないじゃない? マスターは人目を惹く美しいかんばせに透き通った水晶のような清い笑みをひそませて言った。多少おとなの自覚がある人間が子どものような顔をするとこうなるのだろうな、と思わせる、懐古の滲む邪気のなさだった。

 そうは言いつつ、壁に埋め込みで暗証番号式の電子キーも設置してあるのはさすがにマスターの危機管理能力が馬鹿になっていない証左であり、ドアの横の壁の目立たないくぼみを押せば小さな扉が開いてセキュリティシステムを主張するタッチパネルが現れる。ようするに店のドアの施錠は二重鍵なのだが、電子キーを解除してからシリンダー鍵を探して開けていたのでは電子キーのアンロック時間を過ぎてしまう、なかなかにややこしい設定の鍵なのであった。

 初めこそ手間取ることもあったものの、数年も勤めていれば慣れるもので、花はほとんど意識することなく一連の解錠動作をこなしてドアノブを押し下げた。カランカラン、と懐古趣味じみたドアに似つかわしくややくぐもって経年を感じさせるドアベルの音が鳴る。店に一歩立ち入ってすぐ、花はカウンター席で頬杖をつく人物を見つけた。彼はドアベルの音にこちらを振り返っていて、出勤時間よりよほど早くやってきた花をみとめたのに、そこに特に言葉を差し挟むことなくやわらかく笑む。

 その人こそ、このレディ・アンのうるわしきマスター、高瀬真赭であり、彼の見た目における最大の特徴と言えるであろう、清くも、また妖しくも見える美貌が、何気ない笑みを惜しみなく極上のものへと変えていた。見とれるような薄紅の唇が歌うように花を呼ぶ。

「こんにちは、花」

「ああ、真赭……早いな。どうしたんだ?」

「うーん、ちょっと、お仕事。うちにいても進む気がしなかったからね、ここに来たの」

「手伝うか?」

「ううん、これ、みんなのボーナス査定だから。さすがに、ね。ふふ、部屋にひとりでいたときにはぜんぜん思いつかなかったのに、ここでぼーっとしているとここ最近のみんなのようすがすぐ浮かんでくるんだ。いつも楽しかったね。査定、なんて堅苦しいこと、僕たちには似合わない気がしてしまうよ」

 そう言う真赭の前のカウンターテーブルには書類らしき紙が数枚重なっている。花にも覚えがある。少し前に提出した自己評価シートだ。けれども真赭は、もう何度も繰り返し見たからだろうか、まばらに重ねられたシートの束にはあまり目をやらず、カウンターの内側、酒のボトルが並ぶバックバーあたりに視線をさまよわせている。

 真赭が見ているそこは、花や万里、そして真赭自身が常日頃立っている場所だ。真赭は今、そこに自分たちの姿を思い描いているのだろうか。カウンターの外側から見る自分たちは、どんなふうに映るのだろう。

「毎年思うんだが、その自己評価シートって何か役に立ってるのか?」

 花は自分の仕事に誇りを持ってはいるが、そうはいっても店の規模に対して従業員が多いレディ・アンはオーナーの趣味で経営が成り立っているようなものだ。ボーナスの査定などオーナーの気まぐれひとつにすぎない。そしてオーナーは、よい意味で、従業員の通り一遍堅苦しい自己評価にはとらわれないひとでもある。

 真赭はそれも承知のうえで、おそらくはそんなオーナーを思ってだろう、八重咲きの薔薇の花弁を思わせるやわらかで匂うような笑みをうかべた。

「オーナーが、自分が拾った子の成長を見たいんだよ。たぶん、項目はてきとうだから、何を書いてもあのひとはよろこぶんじゃないかな。なのに総括をしろって言うのだから、なかなかに意地悪だよね」

 真赭の手もとにはまだ何も書かれていない白紙と、愛用の万年筆が転がっている。キャップが閉められたままで、筆記するにもすぐ手にとれる位置にない万年筆が、真赭が書きものをするでもなく物思いにふけっていたことを花に知らせた。

 真赭がこの店とともに歩んだ年月は、そろそろ短いとも言えなくなってきた。彼はここで何を思い巡らし、何を思い出していたのだろう。

「総括って、真赭から見た従業員の評価ってやつ?」

「ううん……それなのだけれどね、オーナーがご所望なのはふつうの評価とかではないから、毎年何を書くか悩ましいところなんだ」

「去年は何を書いたんだ?」

「お店でのみんなの名言集」

 言って、真赭はやや気怠げに頬にこぼれかかった黒髪を耳にかけた。桜色の爪がつう、と耳殻をなぞるさまが妙に色めいて見えるのは、真赭の容姿がもつうつくしさのためだ。顔立ちもそうだが、彼は視線の遣りかたひとつ、唇の開きかた、つと顎をそらすとき、グラスのふちに触れる指さき、どれを取っても美しいと称されるにかなう青年だった。そのどれまでを真赭が意図的に操り、どこからが無意識のしぐさか、つきあいの長い花でももはやわからない。

 だから女たちは彼に好意を抱く。彼女らとてその実が虚無であるとわかっていてさえ、真赭の浅い付き合いは後を絶たなかった。彼があまりに完璧にうつくしいものであるから。そのくせ、自ら彼女らに手を伸ばす真赭は高嶺の花にはならない。

 なくしたものを探すように女たちと遊び、人前ではその美貌を利用して隙無く振る舞う。そうすることで真赭は、彼の真実を巧妙に隠してゆく。

 たいていのことに柔らかに微笑んで応え、たまに気に入らない奴を陰湿なやりかたで追いつめることがあっても、それさえもそのおもてに浮かべられた悪魔的な美しさで彼を彩る要素のひとつとなってしまう。

 真赭がそうして嘘を身に纏って生きているのは、彼がいつのまにか、多くのひとがあたりまえにやっているような、人間社会で薄くも広い人付き合いをする、ということができなくなっていたからだ。いつのまにか、というのには語弊があるだろうか。花ははっきりと確信しているのではないが、真赭にはたったひとつ、執着しているものがある。その執着を真赭自身が自覚したころから、彼は人が当たり前につきあう友人や恋人、そういった関係をそれとなく遠ざけてまでたったひとりを繋ぎ止めようと、意固地になったようであった。

 そのたったひとりを想う心を傷つけられないために、真赭は社会に溺れそうになりながらかろうじてここにいる。いまにも溺れるところであった真赭を救ったのがここのオーナーだ。

 どこからか弱った人間を拾ってきては己の手中で生きてゆくすべを思い出させようとする。レディ・アンのオーナーはそういう人だった。だからボーナス査定という名の近況報告が、オーナーにとっては大事な拾い子たちの消息なのだろう。

「今年は……どうしようかな。ねえ花、何か作ってよ」

「昼間から飲んだくれる気か」

「カクテルの一杯くらいでは酔えやしないさ」

 頬杖をついて顎を支えていた真赭のしなやかな指がバックバーに並ぶボトルをさす。その物憂い表情にほだされたというわけでもないが、花はため息をひとつついてカウンターに入った。いまさら好みを聞いたりしないし、オーダーを聞こうものなら面倒くさいことこの上ないので、目に付いたリキュールボトルをひっつかんで台に乗せる。冷蔵庫からオレンジジュースとソーダの瓶を出して、ソーサー型のシャンパングラスにクラッシュドアイスを詰め、クレーム・ド・カシスとオレンジジュースを注いでステア、その上にソーダを満たした。

 これはノンアルコールのものが一般的ではあるけれども、真赭はそんなジュースを飲む気分ではないだろう。

「どうぞ」

 コースターに乗せたグラスをカウンターに乗せて真赭のほうへ滑らせる。

「シャーリーテンプルだ。珍しいね、このレシピ」

「単に、うちの店では言われない限り出さないだけだろ」

 花の返答を聞いているのかいないのか、真赭がうれしそうにグラスのふちに唇をあてて軽く香りを楽しんでいた。それからグラスを傾け、細かな氷にほどよく冷やされてすっきりとした味わいのカクテルを喉に流し込む。まさに夏向きのカクテルだ。今日みたいな、暑くてなにもかも嫌になりそうな日にはなおさら、喉ざわりも爽快だろう。グラスがうっすら白く結露するのを見ていて、花は、涼しそうだな、と思った。正確には、白く結露したグラスをそっと撫でた真赭の白い指さきが涼やかだった。きちんと揃えられた指が、居心地のよい場所をみつけて留まっている鳥の羽のように見えた。

 このバーのオーナーはよく拾いものをしてくる人なのだが、花自身は彼に拾われたわけではない。オーナーに拾われた真赭がこの店を与えられたとき、半ば強引に、大学生で就職活動を終わりかけていた花を引っ張ったのである。そのときの真赭は適当な理由を述べていた気がするけれど、花にはほんの少しだけ、真赭が手中に留めておきたいもののなかに自分も含まれていたのではないか、と期待混じりの思いがある。真赭はゆきずりの女の人との関係以外では、他者をほとんど必要としない、あるいは必要としないようにしているふしがあった。その彼が数少ない縁として自分を求めてくれたのなら、それは嬉しいことだ。幼いころから間近に真赭を見ていた花にとって、真赭は憧れずにいられないひとであったから、そのひとに必要とされている、という自覚は、恐ろしいほど花を満たすものだった。と同時に、花が長年真赭に対して抱いてきた後ろ暗さを緩和した。

 花から見て、憧れるほどうつくしいひとである真赭が、たったひとつ決して手に入れられないものを、花は手にし得る場所に生きている。

 それは長いあいだ花の引け目だった。否、いまでも引け目である。だからこそ、真赭に必要とされ、それに応えることが、花をいくらか安らかにする。

 我ながらあまりに真赭に縛られた生きかたをしている、と苦笑がこぼれることもある。だが幼い頃から、真赭が秘めようとしてかなわなかったような、辛苦や懊悩のかけらをずっと見てきた花は、彼に幸せであってほしいと願ってやまない。

「うん……わざわざこのレシピでこれを作ったあたり、花は僕のことをよくわかってる」

「そりゃあな」

 物心ついたころから、花はこの美しい幼なじみとともに育った。正しくは、真赭は双子であって、その妹と常にともにいたから、真赭と妹と、花の意識にはいつもふたりがいた。それでも完全にわかりあえるなどとはあまりにも馬鹿げた幻想だと思うけれども、いっぽうで真赭の性質や好みなどで他人が知りうる限りのうち、もっともよく熟知しているのは自分であろうとの自負もあった。

「カクテルって、こうやって作ってもらうと作り手と飲むほうの関係や、性質とかをしれっと暴くようなところがあるよね。花は、僕にはノンアルコールは似合わないと思ったんでしょ。飲まない、ではなくて」

 真赭は空にしたグラスのふちをつう、と指でなぞり、唇をうすく開いて笑った。

「あと、なんとなく赤っぽいカクテルを選ぶことが多いよね。名前が真赭だから?」

 真赭の指摘に、花はどきりとした。本人には一度も言ったことのない、このバーにいるときの真赭の印のようなものに花は早くから目をつけていて、それが彼の色として印象に残っている。暖色の間接照明に照らされたほの暗いバーカウンターの内側、そこに立つ真赭の切れ長の目に光が差し込むとき、そのひかりは真赭のダークブラウンの瞳をちろちろと紅く見せる。ガーネットを隠す瞳。

 紅は、このバーで生きている真赭の色だ。

「目に付いた材料で思いついただけだ」

「ふうん?」

 真赭はかすかに面白がるようにして眉を上げ、氷だけになったグラスを洗うためにカウンターの内側に回ってきた。

「でも、僕がたとえば花に今カクテルを作るとしたら……そうだな、ハーベイウォールバンガーあたりはどうだろう。おまえ、案外甘いのも好きだし、気晴らしにはぴったり」

「俺はべつにゆううつじゃないぞ」

「でも何か悩みごとがあるんじゃない? そういう顔してる」

 どんな悩みであるかは、真赭は訊かなかった。ただ事実としてそうみたいだよ、と示しただけで、真赭にはそれをどうこうする気はないのだ。昔からそうだ。真赭は事実を指摘して「こうじゃないかな」とは言えど、「こうすればいいよ」といったたぐいのことはめったに口にしない。そういうときの彼は、薄い微笑みをうかべて答えないでいる。

 真赭と花は違う人間であるので、真赭の指摘する事実が必ずしも花が思っていた事象と一致するわけでもなく、真赭はそのことをよくわかっているからであろうか、と思わなくはない。けれど花の長年の付き合いから来る直感では、真赭が後ろ向きに隠している本音がありそうだった。

 花が長年見ていたところによると、真赭は自覚的に『ふつう』と呼ばれる範囲に収まりそうな価値基準をいくらか逸脱しているから、その自分が何かを言ったところで、結果は社会の、つまり、その社会で生きている人の求めるものにはならない、とでも思っていそうだ。真赭が一般の価値基準を逸脱しているのは、彼がアナーキーであるなどではなくて、ただ自己防衛のためである。

「……ああそうだ、カクテル、というのはいいアイディアかもね」

「うん?」

「オーナーからの夏休みの宿題。僕から見て、従業員にぴったりだと思うカクテルを選んでみようかな、と思って」

 考え事をしていたせいで反応が一歩遅れた花を置いて、真赭は結論してしまったようである。水に濡れた手を拭き、再びカウンター席に戻って万年筆を手に取った。いいんじゃないか、と花は答えた。

「誰が何のカクテルになるんだ?」

「ふふ、花、それ源氏物語の衣配りの段みたい」

 源氏物語、衣配り。数多くの妻たちに衣を贈ることにした源氏に、紫の上が誰にどのようなものを贈るのか観察する場面。源氏の心遣いを見て、彼が妻たちそれぞれをどう思っているのか、紫の上がさりげなく読みとろうとしている一節である。

 真赭は花を紫の上にたとえてからかっている。花は眉間にしわを寄せ、不満です、と顔に書いて真赭に向けた。

「ここには源氏も紫の上もいないぞ」

 真赭はなにも言わず、黒目が光を吸った切れ長の目をやや細め、艶やかな唇をふんわりつり上げて花に微笑んだ。

 その言外にあからさまな『もの言い』に食ってかかると空とぼけられるし、リアクションしないでいると真赭のペースに持って行かれる。まったく納得しがたいながら、花は引き下がるしかない。

「それじゃあ、やっぱり花からだね」

 真赭は転がしていた万年筆を手に取り、さらさらと蒼いインクを走らせる。花のフルネーム、続けてカクテルの名前までよどみなく書いた。

「花、おまえは……ホワイト・レディ。え? 女の子みたいって言っているんじゃないよ。ジンベースでけっこうキリっとしているけれど、他の材料で甘さと酸味もあって、ふふ、僕は好きなんだ。バランスが良い。正しい天秤に乗っている感じ。それにちょうど白い色だからね。おまえが何色の花なのか、僕にはまだわからない。かといって透明じゃあつまらないでしょう。真白いものを染めるのが醍醐味なのだから」

 花に言いながら、真赭は手もとの、オーナーに渡す紙には従業員の名前とカクテル名以外の情報はひとつも書いていなかった。

「万里は、インペリアル・フィズ。見た目へらへらしているようにも見えるけれど、彼、案外あれで気位が高そうだから。スコッチ・ウイスキーっていうちょっと複雑な味と香りの、味わうのにこなれていないと難しいお酒をベースにしているところもね、彼のこだわりっぽいでしょう。ただこれだけ敷居が高そうなカクテルのくせに、中身は意外と飲みやすいところも、すぐ人の懐に入っていこうとする万里っぽい。入っていこうとしているように見せているだけで、実はそんなにフレンドリーじゃないトラップも含めて」

 一色万里は真赭と同時期からレディ・アンに携わっている古株のバーテンダーである。真赭とのプライベートな付き合いはもちろん花のほうが長いものの、このビジネスにおける付き合いは万里のほうがわずかに長い。その、最初にふたりだけとオーナーしかいなかった短い期間で、真赭と万里は互いの性質をひととおり頭に入れたようだった。つきあいかたを認識した程度で、相手を理解した、に至らないのがいかにも真赭らしい。ただしすくなくとも、真赭はビジネスパートナーとして万里を信頼しているし、店のことで何かあれば真っ先に頼るのが万里だ。

 花は真赭のこの評価を聞いて、真赭はべつに万里との距離を一定に保とうという意図があるのでもなく、相手の性質を慎重に見て取って、万里が常日頃からやたらフレンドリーに接する相手、すなわち”万里にとってのその他大勢”の区分に入るのを避けているだけなのだと知った。

 ビジネスパートナーは対等でないと成り立たない。そのために、互いに『個』として互いを認識し続ける必要がある。真赭がたまに絡んでくる万里をかわすのも、計算の下での態度なのだろう。

「利緒ちゃんはチャイナ・ブルー。何といっても若くてかわいい子には似合うんじゃないかな。利緒ちゃんは楊貴妃みたいなイメージじゃないけど。でもああいう子、なんだかんだ万里に言いくるめられちゃうタイプだから、ちょっとくらいはお高く止まったところがあっても可愛いと思うな。ツンケンするのではなくて、万里にも決して触れさせない、とみせかけた何かをちらつかせて万里の意識を誘導して高見の見物をするような」

「真赭、二十歳の女の子にそんなことできたらそれはそれでえげつないと思わないか。俺はいやだな、もっと素直なのがいい」

「万里には素直で、自分の居る場所の価値観を疑わない、筋金入りの箱入りみたいな子が一番扱いにくいと思うよ。利緒ちゃんはむしろ扱いやすいタイプだから、少しでも思惑を外れようと思うならね、必要なのは流されない意志とか、頑なさではない、それこそ楊貴妃みたいな気位の高さだと思うよ」

「……どうすんだよそれ……」

「ふたりの夫婦漫才も見ていて楽しいけれど、ま、茶番だよ、あれ」

 真赭は黒目の艶やかな瞳を眇めて笑った。

 利緒は二十歳のアルバイトバーテンダーだ。このバーの従業員としては珍しい、どこからやってきた、と思われそうな人員はもれなく万里が引っ張ってきた女の子である。当然、万里がよく構ってかわいがっていて、真赭はそれを外野から眺めつつ最低限先輩として目をかけているようだった。仕事仲間であるから関わりは持つけれども、真赭の興味関心の対象ではない。たぶん、それは利緒にとって、そしておそらくは万里にとっても幸いなことだろう。

「篤くんは、カルーア・ミルクかな。よく居酒屋なんかにもあるメニューだけれど、本当のこれはコーヒーの香ばしさとバニラの甘みが口の中でふわって広がって、何て言おうかな、……こう、思わず「わ」って言っちゃう。そういうおいしさなんだよ。味も素直だし、味わうのにそんなに難しい味はしていない。それにこれの甘さは、甘ったるいんじゃなくて甘いの。篤さんがよくお客さん口説いてる時とおなじ。そのわりにコーヒーとバニラってね、中身が可愛いでしょう。そんなところが彼のイメージかなって」

 篤は真赭よりひとつ年下、花よりはひとつ年上のバーテンダーだが、花とはあまりシフトが被らないので、実のところそこまで親しいわけではない。仕事ぶりを見ているとしっかり者ではあるはずなのに、ふとしたときに女性客を口説いている、としか思えない言動を取っていることがある。確信犯ではないと本人の弁解があるので、女性の機微に疎いのか、自分が喋っていることの意味を理解していないかのどちらかだろう、と花は思うことにしていた。

 正直に言えば花にとって扱いづらいひとであるのだけれど、真赭には少し違うようだった。もっとも、真赭は真赭でたいていのことを泰然と受け止めるために、花がひとりで空回ることも少なくない。

「臣路くんはマルガリータだろうね。度数が高めでお酒好きな彼にぴったり。というのは表向きで、そうだな、彼がオーナーにつれてこられたときのことを思うとね、何かしら大切なものをなくしたか……。そのあたりなにかありそうだよね。でも探るのは僕の仕事ではないもの。だから仔細は関知しないけれど、まあ、マルガリータは、亡くした恋人を偲んで作られたカクテルだ。わりとスタンダード。臣路くんはまだ来て日も浅いし、正直どういう人なのか僕もまだはかりかねているところだから、とりあえずスタンダードカクテルを基準に、どんなふうになるのかは今後次第、っていうところかな」

「あいつ、だいぶ子どもっぽいっていうか、わりと言動めちゃくちゃじゃないか?」

「さてね。見える……彼が見せている部分だけが本質とは限らない。逆に花は、ただの性格っていうだけでああいうふうに振る舞う人が、この社会でほんとうにいると思う?」

「はあ?」

「初対面のときの印象。そのあとの振る舞い。意図してああなのでなければ僕はドラッグを疑うね。いくらなんでも振れ幅が大きすぎるし、普段の言動にしてもそういうところがある。オーナーはいろんなものを拾うけれど、さすがに僕に預けているこの店に制御不能なものや良識のないものを突っ込んだりしない。あの人は僕が支えきれないのをわかっているから」

「つまり、どういうことだ?」

「何か隠しごとがあるんだろう。でも先に言ったように、探るのは僕の仕事ではないし、オーナーが良しとしたのだから僕はそれでいい。触れる必要はないよ、仕事仲間としてならね。僕たちがどうこうしなくても、生きるのに必要なものは、ここにいたら自然と見つけられる。この店は、オーナーが僕に与えてくれたのは、そういう場所なんだよ」

 万年筆のペン先をそっと紙から上げて、真赭はことさらにやわらかで秘かなほほえみを唇にうかべた。そういう自分はどうなんだ、と尋ねたくなって、花は、それでは得たい答えは返らないだろうと思い、意地悪だと自覚しながらひとつの問いを送る。

「じゃあ……紺子ちゃんは、どんなカクテルなんだ?」

「…………」

 真赭は万年筆を丁寧に置き、半身ごと花を振り返った。

「ブルームーン」

 そのカクテルのとても有名な意味は、『できない相談』。不可能性をほのめかす言葉をもつ。真赭はとある条件があるとき、店を訪れる紺子にこのカクテルを供する。

 花の目を見て、真赭は即答した。理由は言わなかった。 だから、花にはわかったことがある。真赭の内心を花が察知していることを、真赭は承知しているのだ。それゆえに花が持っている引け目も、おそらくは筒抜けなのだろう。

 紺子。美しい真赭の、美しい双子の妹。真赭のこれ以上はない急所であり、命綱でもある。彼女への思いが傷つけられないためだけに、真赭はいちど自分の世界を捨てた。だから真赭は自覚的に社会の外側で生きている。決して受け入れられることのない想いが傷つけられないために、人びとから逃げ、同じ価値観を共有することを拒絶した。

 恋情ではない、と真赭は言う。それは嘘ではないのだろうと花も思う。真赭が抱くのはもっと根本的な別離への拒絶感だ。ただ、恋情でないと主張するだけで許されるほど、人間は寛容でも柔軟でもない。

 それでも真赭はそのひとを想う。絶望から目を逸らし、生きてゆくすべを与えてくれる人と居場所を得てから、なおいっそうひそやかに、深く。




 そうしてそのひとは、花の想い人でもある。






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Lady Anne 星孔雀 @hoshikujaku316

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