第2話 「あの日見た神の名を僕はまだ知らない」
――気が付くと。
俺は白い空間にいた。
壁とかは一切無く、見渡す限り白い地面が続く、只々ひたすらに白い世界。
「……」
言葉は出なかった。
自分が死んだことは、理解している。
視界の端で動き落ちた看板。一瞬だけ感じた激痛。
――そして。
凍えるように体が冷え切っていった感覚は、俺に『死』というものを実感として理解させるには十分なものだったのだから。
今になって震える体は、その時の状況を思い出したからか……。
――いや、それは違う。
確かに死んだことは悲しいし、やり残したことは多い。
――けれど、今は違う。
今しかできないことがある。
あれほど憧れた――そして。
どれほど夢見たか分からないこの状況。
言うしかない、吐き出すしかない、あの言葉を。
「攻撃を受けている!? 新手の能力使いか!?」
そう叫ぶと、俺はまるで自身の体重の負荷を度外視したかのような、奇妙で名状しがたいポーズを取った。
足の指先にのみ加重を掛け、上半身を反らし、指を一本だけ立てる。
それは、一種の美であり、人間の構造の奥深さを現した賛歌の象徴。
その姿勢を取った瞬間、何よりも素晴らしい達成感を感じる。
まるで心の中にすがすがしい風が吹いたような気分だった。
……。
そんな一瞬の後。
その何倍もの虚無感が俺の胸を襲った。
当然である。
芸術というものは評価する他人がいてこそなのだ。
一人しかいない空間では、何をやっても反応がなく、虚しいばかりだった。
それも胸に穴を開けるクラスの虚しさだった。
仮に、その胸の穴に鎖があったら、お互いを食らいながら千切れていくことだろう。
俺がそんなアホな事を考えていたその時――
「はっはっはっ!!」
――突然、そんな大きな笑い声が白い空間へ響き渡る。
それは酷く楽しそうで、例えるのなら腹を抱えているレベルの笑い声であった。
「ひー!! 苦しいぃ!! ちょっと待って、ちょっと待って!!」
途端に羞恥心が襲ってくる。
何が芸術か。俺自身、身の程は弁えている。
いつでも、どこでも、誰にでもおおっぴらに話せる田中君や鈴木君とは違って、俺は繊細なのだ。
(ちくせうっ!!)
恥ずかしさから胸中で咽び泣きながら、俺は内心でそう叫ぶ。
一応、奇行に及ぶ前に誰も居ないことは確認したが、見落としがあったのだろうか?
そう考えて、改めて俺は辺りへ視線を飛ばしていく。
脳内で『Hey!!』とか、『Listen!!』とか叫びながら、時の勇者ばりにあちこちへ注意を払う。
だが、やはり空間に変化は見られない。
どこまでも、どこまでも白い世界が続くだけ。
(つまり――どういうことだってばよ!?)
意味の分からない状況に困惑する俺。
――だが、この声は止まらない。
「はーっ!! はーっ!! なにそのポーズ!! くっふふふっ!! だめだっ!! やっぱり、我慢できないっ!! あっはははははははは!!」
この声が俺の豆腐メンタルを壊すのに五分とかからなかった。
――ちなみに。
この声が落ち着くのには七分を要した。
俺は心の中で、塗装が剥げる程に泣いた。
「はーっ。はーっ。やっと落ち着いた」
「……」
現状、俺は体育座りで無言だった。
人間には砕けた心を集める時間が必要なのだ。
「ふぅ。こんなに笑ったのは二百年ぶりくらいだよ。人間も変わったみたいだね」
「……」
どんな時でも絶対に裏切らない友人が欲しい。このパズルが完成したら、この渇いた叫びを届けてほしい。
そう祈りながら、俺は砕けた心を完成させた。
それにしても、今ほど一人っ子で良かったと思ったことは無い。
もし俺に弟がいたのなら、きっと最後のピースが無かっただろうから。
「さて、君は自分が置かれた状況を理解しているのかな?」
そんな声を聞いて、俺は姿勢を整え、真面目な顔で声が聞こえてくる何も無い空間へと視線を向ける。
現実逃避もここまでか。
ここがどこで、相手が誰かも分からない状況。
有利なのはどっちかなんて言うまでもない。
はっきり言って、こっちの生殺与奪は向こうが握っているのだ。
死ぬのは絶対に嫌だ。とんでもなく痛かったのだから。ああいうのは一度でいい。
相手の機嫌を損ねないように、現状を確認しないと。
「自分が死んだことは、なんとなく理解しています」
俺がそう言うと相手は、へぇ、と小さく漏らした。
「そこはしっかり分かってたんだね。これまでの人はもっと取り乱してたけど…まあ、その方が助かるかな」
後半は独り言のようにいう。
心なしか頷くような気配が伝わってきた。
「単調直入に言うとね。私は神様なんだ。君は偶然にも人間という種として百億番目に死亡した。だから、権利を得た。特別に人生をやり直す権利を」
言葉は止まり、こちらの反応を伺っている気配が伝わってきた。
緊張しながらもこういう状況になると手を挙げてしまうのは、日本という国の教育が俺にもしっかり影響していたという証拠だろう。
「……質問をしても?」
「どうぞ」
「人生をやり直すということは、俺はもう一度、生まれなおすということで宜しいのでしょうか?」
「んー。こっちの言葉が悪かったね。それはちょっと違う」
言葉を探すように神様は続ける。
「君には死ぬ前の状態で異世界に行ってもらう。そこで改めて新しい人生を謳歌してもらうってわけだ」
「異世界……ですか?」
「そう。要は私じゃない別の神様が作った世界だよ。そこに君を送り込む」
「……成る程」
どうやら、単純にもう一度人生をやり直せるという訳ではないようだ。
両親や友人と会えないということは少なからず寂しいモノがある。
「他に質問はあるかい? 無ければ———もう送るけど?」
しんみりしていた俺だが、その言葉で慌てて会話に戻った。
流石に今のまま送られたら、情報が無さすぎる。
「待ってください!! ……えっと、俺はその異世界で何をすればいいんですか?」
「んー? 特に何も。これは十億人死亡者毎にやっているイベントみたいなものだから、君にお願いすることは無いよ。まぁ、向こうの神様は、転移者が世界をかき回すのが好き、って言う事情もあるから、もし可能ならはちゃめちゃなことをしたらいいんじゃない?」
「異世界はどんな所なんですか? 気を付けた方が良いこととかありますか?」
「んー。行けば分かるよ」
あ、この神様いきなり投げやりになりやがった。
神様の癖に面倒くさがりとか、ちょとsYレならんしょこれは……?
「じゃあ、送るねー」
「まっ待ってください!! お願いがあります!!」
「お願い? ……まぁ、君には二百年振りに笑わせて貰ったしね。私に叶えられることなら聞こうかな」
「はい、ありがとうございます!! ……あの、俺が生きていた世界を俺が生まれなかったように出来ませんか?」
「それは出来ないね。世界改変は影響が大きすぎる。過去の改竄なんてしたら、最悪世界が崩壊する」
「……分かりました。それじゃ、これだけはお願いしたいんですけど――」
「うん?」
「――俺の部屋のハードディスクを壊してください!!」
「……? 分かった。……はい、君の部屋のハードディスクとやらは壊れたよ」
俺はガッツポーズを取った。これで思い残すことは無い。
俺が居なくなった世界では、誰も俺の評価を守れないからな。今、この時点で守れてよかった。
信頼は落としてはいけないのだ。すぐに上がるものではないのだから。
「もうないのかな?」
「あ、あと一つだけ。俺の家族に一回だけ宝くじを当ててくれませんか? えっと三千万くらいの……」
テレビやネットなどで、子供を大学までいかせるなら、そのくらいはかかると聞いたことがある。
両親にはもう帰れないことに申し訳なさがある。お金で済むことではないけれど、せめて、そのくらいは返したかった。
貯金が好きな俺にはわかる。
お金を稼ぐというのは大変なことなのだ。
「わかった。それくらいならしておこう」
「ありがとうございます。本当に」
俺は深々と頭を下げる。
神様の姿は見えないけど、少し嬉しそうだった。……案外、ちょろい神様なのかもしれない。
「自分本位な人間かと思ったら、意外と家族思いでもあったんだね。君はやっぱり、面白い」
「……」
俺は頭を下げたまま、声を聴く。なんというか気恥ずかしい。
「特別に私から一つだけ、力を挙げよう。……それじゃあ、元気でね」
その声を最後に、俺の意識は暗転した。
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