イーハー空中図書館殺人事件
鈴埜
1.空に浮かぶ城
空中図書館イーハーは今日も変わらず空に浮かんでいた。
中心なる構造物は黒く、硬質な輝きを衰えさせることはない。特別の鉱物で作られたそれは、円錐の底面を互いに付けたような外観になっている。
地中深くより掘り起こされた原石のように荒々しい外壁。増改築を繰り返すことによって不自然に出た部分や、窪んだ場所があり、すでに元の形は忘れられてしまったが、人々はそんなことには構わない。
大切なのは中身である。
その要塞に護られた、一部の人間から羨望の眼差しをそそがれる、価値ある書物。その場にある全てはこの書物を護るためだけに存在していた。
中心なる構造物のちょうど中央の辺りをぐるりと囲む七色に光るリングチューブ。これによってイーハーは宙に浮く事が出来た。東西南北にこのリングからイーハーへの道が出来ている。閲覧者たちはこの道を使って図書館へと通うのだ。そして、北東、北西、南東、南西からは地上に向かって糸が垂れるように連絡船が通っていた。イーハーの真下は海。四本の糸の先は四つの国が結ばれている。
しかし、この図書館はどの国の干渉も受けない。
これは、これ独自で一つの国としての機能を持っていた。
王は何百億とも言われる蔵書。
働くはそれらの僕しもべ、優秀な司書たち。
「相変わらず賑やかな街ね」
黒いつややかな髪と、紫の神秘的な瞳を持つ少女が、遠く空中に浮かぶイーハーを見て言った。彼女の傍らに立つ灰色の髪と、瞳を持つ男がにこりと頷きそうですね、と相槌を打つ。
「イーハーの図書館に行くのはお金持ちの方が多いですからね。空中図書館の入館料は法外。従者などはこの連絡船が通じる町に待機させます。待合所のようなこの街は常に活気があります。たまに、何十という人から集めたお金で皆が調べたいことを一身に受けて来る方もいらっしゃいますが、ほとんどが金を湯水のように使うことを常としている方たちで占められています」
連絡船は日に一度。夕刻にある。こちらへ帰ってくる便は昼過ぎと朝方。
一日中図書館を堪能するために、リングチューブ上に宿泊施設がありそこで一泊するのが常だった。
開館時刻が迫るとホテルから皆が歩き出す。特別な魔導の仕掛けがあり、徒歩一時間はかかるその道のりがほんの十分で済んだ。
図書館は朝九時から午後六時まで。昼の十二時に午前中だけの閲覧者が退館し、昼の便に乗って帰って行く。館内に火気を帯びたものや飲食物、刃物――特にハサミ類――の持ち込みは禁止されている。書籍を損なう可能性のある物は全て排除する方向にあった。
「それで、先に来ていると言った……」
「一昨日着いてもうイーハーの方へ行っているらしいですよ」
「ええ?! なんで!」
不満そうな表情をする少女に苦笑しながら彼は答える。
「久しぶりにしっかり調べ物をしたいとかで」
「もー、せっかく一緒にいられると思ったのに。アリスったらいっつもそう!」
目が覚めるともう朝の八時だった。慌てて身支度を整え、鏡の前の自分に向かってにこりと笑う。薄茶の髪を撫でつけ、同じ色の瞳を和ませた。
「やっぱ俺ってばいい男」
恥ずかしげもなくそんな言葉を吐く彼は、ご存知の通りジュリアン・レノックスその人である。
がっしりとした体つきの割には穏やかな雰囲気を持ち、人に好かれるタイプの人間だ。朝お決まりの、鏡に向かった挨拶を終えると彼は部屋を出た。
食堂へ向かい、多少ぼられているなと思いつつもしっかりと朝食を摂る。今日一日の活力源となるのだから、開館の時間に少しぐらい遅れようとも構うことはない。目的の書籍の位置は大体把握しているし、後一日の追徴料金ぐらいならなんとか出せる。
ホテルは一泊十五万ヴィラ。これだけでも十分高額だが、ここの入館料は更にその上を行く。半日二百五十万ヴィラで一日四百万ヴィラだ。
たがが本。されど本。
一日の来館者は五百人ほどだと言う。
四つの方角、四つの大陸からほぼ均等な数の来館者。ジュリアンは南のギレイヌ国からやってきて、そのまま南のホテルに泊まった。北はハガス国、西はユーラント国、そして東は大国ガードラントへと繋がっているのだ。
「ご馳走様」
給仕に礼を言って席を立つ。午前九時。開館の時間だ。食堂には彼のように悠長な客は一人もおらず、ジュリアンもイーハーへ向かうことにした。
ホテルは地上への連絡船発着場からほんの五分歩いた場所にある。チューブの大きさは直径六百メートル。これは図書館を浮かせている結界の基盤ともなっている。ホテルはその中に横に長く建てられていた。最低でも百人強は収容できるようにしておかねばならないからだ。図書館は日に五百までなら来館を認める。となると、四つの宿泊施設はその四分の一の人間を受け入れねばならない。
ホテルの前を一本の動く道が走っている。それに乗れば普段の何倍もの速さで歩くことが出来る。
ジュリアンもホテルの玄関から出るとすぐにその道へ足を乗せた。
受付で金を払い、スーツのボタン部分に小さな発信機をつけられる。迷子になった際にこれで探してもらえるそうだ。スイッチを入れればすぐに司書が迎えに来てくれる。次に両腕に細いリングを嵌められた。本を触る時にはここから自動的に薄い膜が出てきて手垢をつけないようになっている。徹底した書物至上主義。しかし、それだけの価値がこの城にはあるのだ。
受付はもちろん四方にある。それぞれに十人ずつ司書が配置され、大概の者は入り口を入ってすぐの彼らを捕まえ自分の目指す本の場所を尋ねる。この空間を知り尽くしている彼らは即座に各人が持っている地図に印を付け、案内した。
ジュリアンはそんな彼らを横目で見ながらそのまま先へ進もうとする。
と、一人の若い司書がそんな彼を引き止めた。
「あの、案内を……」
「僕なら、――」
大丈夫と続けようとして、彼は息を飲んだ。
その司書の向こう側に、一人の女性の姿を認めた。
複雑に編み込んだ黒い艶やかな髪の毛を頭の高い位置で一つにまとめている。しかし、その一本一本は遠目にもしっかりとこしのある手入れを施されたものだと分った。髪先が肩に触れるか触れないかの位置にある。同じように黒い眉はすっきりと延び、地図を見ているため少し伏せられた睫が細かく震えていた。透明感のある白い肌は絹のようにすべらかで、唇は女神の血潮を落としたかのように赤い。
そして、視線を感じたのか、持ち上げられた彼女の瞼の下に隠れていた瞳。
「セイラ……」
呟き、すぐに違うと否定した。
彼女のモノよりは幾分淡い紫色の双眸が真っ直ぐジュリアンに注がれた。
「違う。違うな。胸がある」
本人が聞いたら呆れ返っただろうその台詞。セイラのようにドレスで身を固めているわけでもない。彼女は黒のスーツを颯爽と着こなし、膝丈のスカートからは形の良い足が伸びている。靴も揃えているが、銀色のワンポイントがどう見ても高価な宝石だ。
すぐに体勢を立て直すと側にいる司書を完全に無視し、自信のある笑顔を浮かべ右手を差し伸べた。
「すみません。僕はジュリアン・レノックスと申します。貴女はアリス・オブライエンさんですね?」
オブライエンの部分は小さく囁く。名乗りをあげた時点で彼女はにこりと微笑み握手をしてきた。
半年前、フィーア島で起きた不思議な事件。そこで知り合った娘がいた。
ちょうど目の前の可憐な人に瓜二つな少女の名はセイラ・オブライエン。今度の誕生日で十四になる娘。年相応であり、そうでない彼女と過ごしたあの短い日々はなんと楽しかったことか。いつ思い出しても自然と顔が緩んでしまう。
あの時は、諸事情により別々の道を行くしかなかったが、その後何もしなかったわけではない。まずは彼女のことを調べた。そして、セイラの母親の名前がアリスだと知っていた。
「セイラさんからお噂は聞いております。その節は彼女がお世話になりました」
相変わらず不思議な家族だ。娘に対して“さん”づけとは。それが原因でいらぬ心配に心囚われたことを思い出し、頭の中だけで舌打ちする。
「いいえ、お世話をしてもらったのはむしろこちらです。彼女は元気ですか?」
「さあ、特に便りもないので大丈夫だと思いますよ。私も仕事柄忙しいものでなかなか会う機会がありません。……そうそう、今夜にはガードラント側からこちらへ来ると思います」
ジュリアンは予定外のハプニングに心底嬉しい顔となる。
「それは、楽しみです。女性は三日会わないと変わりますからね。じゃあ、僕も今日の宿は東にしようかな……っと、お引止めして申し訳ありません。それでは」
図書館では一分一秒が貴重な物として扱われる。二人は互いに礼をし、その場を離れた。
ジュリアンは大して急いではいなかったが、彼女の方は忙しい身だと言っていた。あまり拘束するのも悪いだろう。
「さて、どうするか」
予想外に時間を持て余しそうだ。目当ての本は一冊。見つけてしまえばほんの五分で事足りるのだ。
悩みながらも手もとの地図に目を落とす。
図書館は五つの階層に分かれていた。上からA、B、C、D、Eと記されている。中央のリング部分の薄いC層は入り口と飲み物程度が出るカフェテリア。火気厳禁とはいえ、このフロアだけは許されている。煙草類もここで売っているものをこの喫煙場所でなら吸うこともできた。司書はこの図書館で寝泊りするわけで、そのための施設もある。一般の人間は立ち入り禁止だ。
入り口から上下のフロアはその中でまた何百もの個室があり、階も分かれている。書籍が置かれているところだ。全ての棚を見て回るのにも一週間かかると言われている。もっと検索したら中央部に集められるようなシステムにすれば良いとの声も上がるが、ここはあくまで本を保存しておく場所なのだ。図書館との名は付いているが利用者を中心としているのではない。
ジュリアンが目指しているのはその下の方のフロア。フロアDとあった。
そして、一番上のフロアと一番下のフロアはそれぞれAとEで、Aは関係者以外立ち入り禁止。何があるのかなどの詳細も記されていない。Eの方はいわゆる司書室。図書館内のあらゆる事項を管理、監視している。先ほどボタンにつけられた発信機の管理などもここでやっているそうだ。
なんとなく、彼はフロアBへと足を向けた。調べものは午後からでも良いだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます