第63話

 先に道長達のところへ戻ってきたのは凛だった。

 抱えてきた荷から着替えを取り出したので、道長は天幕を出て外で待った。

 そこへ美平も戻る。

「今着替えている。」

「そうか。」

 それきり二人とも黙ってしまった。

 周りの天幕から聞こえる喧騒と虫の声。寺の屋根の上に顔を出した二十五日の月。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 沈黙を破ったのは美平だった。

「道長、賀川は私が貰う。」

 二人は見合う。

「父亡き後、私がこの国の王座を継ぐ。」

「それは、当然のことです。私に異存はありません。」

「有り難う。」

 美平は頭を下げた。

「兄上。止めてください。兄上が継ぐのは当たり前でしょう。私に礼などいりません。」

 頭を上げ、美平は寺の向こう、離れの方角を見る。

「父上は私と共に道長達を見送りに来た。一行を送り出した後、離れで休んでいる時に寺に入った盗賊に殺された。・・・私はこれから御所へ戻り、探索方を出す。急ぎここから出立してくれ。」

「兄上・・・。」

 美平が道長を振り返り急かす。

「いいから、早く。」

 頷いて、道長は政次を呼び、「急ぎ出立の準備!」と命ずる。

 道長も準備のため天幕へ入る。


 静も香絵も身体に附いた血をきれいに拭き取り、着替えを済ませていた。香絵は静の衣を借り、姫の姿に戻っている。

 道長の後に天幕へ入ってきた美平が道長の腕を掴み、振り返った道長に言う。

「もう一つ。もともと私はこれを頼みにここへ来た。」

「何ですか?」

「静をくれ。」

 香絵、凛、静が、一斉に美平を見た。

 美平は静を見る。静と瞳を合わせたまま、道長へ話す。

「決して父上のようなよこしまな心からではない。静のことは昔から知っている。賀川と遠賀に離れてからも、ずっと気に留めていた。静のために妻の座も空けてある。静ならこの国の王妃に相応しい。」

 そこで、道長に向き直る。

「だから静を賀川に置いていってくれ。」

「静を妻に望む理由は、王妃に相応しいから、それだけですか?」

「ああ。静のように聡明な女なら、王妃の務めも上手くこなせるだろう。」

 道長は首を振る。

「そんな理由では、静は置いてゆけません。」

 美平は眉を寄せ、哀し気な表情かおをした。

「他にどんな理由が要るというのだ。静ならば王妃という立場におごることはないだろうし、静の亡き父は賀川の重臣。出生も申し分ない。」

 そう。申し分ない縁談。香絵と出逢う前の道長ならばすぐに承諾しただろう。だが、道長はやはり首を振る。

「まだ、足りぬというのか・・・・・・。どう言えばいい?どんな理由なら納得するのだ。・・・静は賢いから政の助けにもなるだろう。優しくて情が深いからきっと民にも愛される。静の美しさはどんな姫にも引けを取らぬほどだし、静は・・・。」

 必死に言葉を並べる美平の姿に打たれ、静の瞳から涙が零れた。

「兄上、静のことは私も充分知っています。私が聞きたいのはあなたのことだ。」

 静のことなら、きっと道長の方がよく知っている。小さい頃から同じ屋根の下でずっと一緒に暮らしてきた。静は主従の垣根を頑なに守っていたが、道長は姉のように思っている。

 聞きたいのはそこではない。道長は兄の心が知りたい。美平が静をどう想っているのか。お堅い兄のことだ。愛情を言葉にするのは難しいだろう。それでも、せめて、静を好きなのだとわかる言葉が欲しいのだ。

「美平様。」

 香絵が美平に呼びかけ、やはり首を振る。

「一言でよいのです。愛している、と・・・。」

 美平がはっとして、静を見る。静はずっと美平を見詰めていた。

 香絵は期待の目でふたりを見ている。

『え?いやぁ、香絵。それはどうかな。『愛している』は兄上にはちょっと難易度が高過ぎると思うなあ。』

 そんな道長の予想を裏切る言葉が美平の口から零れる。

「静を・・・愛している・・・。」

 言葉に出して、美平は初めて自分の中にあるものが何なのか知った。

 美平は驚いて目を瞠っている道長へ真っ直ぐ向き直る。

「静が欲しい。静が必要なのだ。だから静を私にくれ。私は静を愛している!」

 道長はつい力が抜けて半開きになっていた口を引き締め、頷く。美平の顔は上気して赤くなっている。お堅い兄には随分勇気のいる言葉だったろう。認めないという選択肢はもう無い。

「分かりました。静を賀川へ残してゆくこと、私は承知しました。後は静の心次第。」

 美平は居住まいを正し、静へ向き直る。

「静。賀川へ残り、私と結婚して欲しい。君を愛している。」

 皆が固唾を呑んで静の返事を見守る。

「わたくし、賀川に残ります。わたくしもずっと、遠賀にいても、ずっと、美平様をお慕い申しておりました。わたくしが美平様に望まれるなど、きっと一生無いことだと思っていました。それをこんなふうに言っていただいて、嬉しゅうございます。道長様、わたくしを賀川へ置いていってください。」

 道長が頷くのを見て、香絵が静に抱きついた。胸の中で喜びと悲しみが入り混じる。

「香絵様・・・。こんなに突然お別れすることになるなんて・・・。申し訳ございません。」

 香絵が頭を振る。

「香絵様と出会う前のわたくしなら、このお話は辞退していたと思います。でも香絵様のお側で、殿方と愛し合うことを教えていただきました。それがどんなに素晴らしいことかを。わたくし、香絵様が大好きです。離れてもそれは変わりません。これからもずっと。」

「静様。わたしも大好きです。これからもずっと。きっと幸せになってくださいね。」

 瞳を美平に向け、もう一度繰り返す。

「きっと幸せに・・・。」

 美平が『必ず幸せに』と視線を返した。


「出立の仕度が整いました。」

 時を計ったように外から政次の声が掛かる。

 天幕を出ると、辺りはすっかり片付き、道長の天幕だけが野原にぽつんと残されていた。

 数人で最後の天幕を手早く畳み、馬に積むと、それぞれ各自の持ち馬に乗り込んだ。さっきまで酒を飲み、酔っ払って騒いでいたのが嘘のような顔をして、道長からの出発の号令を待っている。

 別れ難い静と香絵だったが泣きながら、静は美平の馬に、香絵は遠賀から静と乗ってきた馬車に乗った。

「では、兄上。」

「ああ。後は任せよ。気を付けて行け。」

「はい。」

 道長達一行が発つ。

 姿が闇に消え見えなくなるまで見送って、美平は馬の頭を御所へと向けた。



 佐々木の町を出る頃、道長は香絵の馬車へ移る。周りの者達が、香絵が一人ではかわいそうだと、道長を馬車へ押し込んだのだ。

 香絵は静を想い、まだ泣いていた。

 いつものように道長は香絵を膝に抱く。

「静様は幸福しあわせになれますか?」

「ああ。静なら大丈夫だ。必ず幸福になる。」

「美平様ってどんな方?」

「昔、私が賀川にいた頃の兄は、母思いの良い人だったよ。私にも優しかった。それは今も変わってない。きっと静を優しく包んで、幸福にしてくれる。」

「兄様とは優しいものなのですね。わたしにも兄がいます。五人も。皆優しい兄様です・・・・・・。」

 疲れたのだろう。言いながら香絵は意識を手放すように寝てしまった。

「何だ。寝たのか。たった今まで話していたというのに。・・・・・・兄様か・・・。」

 道長の中で安心して眠る香絵を見て、道長は思う。

『香絵は都紀に帰りたいのかも知れないな。記憶は失くても心が故郷を恋しがっているのかも・・・・・・・・・。』

 香絵と都紀を訪れるため、何とか時間を作ろうと思った。

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