第15話

 三日後の執務室。

 道長は香絵に座る場所を作り、机も与えてくれた。しかし、未だに仕事をさせようとしない。香絵は不満を募らせている。三日間三人の仕事を見ていて、習慣的作業ならだいたい把握できた。できそうな事から実際にやってみたい。

 道長の書き物が一段落したのを見て、香絵は待ちきれなくなって声を掛けた。

「道長様。わたしにも何かさせてください。『仕事はおいおい』と言ったのに、まだ何もさせてくれないではないですか。」

 すねた瞳で道長を見上げる。

「ああ。ではそこの道具で茶を淹れてくれ。」

「はい。」

 香絵は手早く三つお茶を淹れると道長、政次、兼良に配った。

「それから?」

「では・・・。」

 道長の机の横に積まれた書類を指して、

「これをそこの書棚に片付けてくれ。」

「はい。」

 道長がお茶を三口ほどすする間に、それも片付いてしまった。

「それから?」

「うーん・・・。」


 香絵を取り敢えず執務室に置いてはいたが、何とか諦めて奥へ戻って欲しい。そう思っていた道長は、香絵にさせる仕事を考えていなかった。さて困った。

 ぐるっと見廻し、自分の机の上の書きかけの書類に目を止める。

「文字は読めるか?」

「はい。忠勝様の家で、殿方からの文を読むために、教えてもらいましたから。」

 道長からの文と言わず、「殿方から」と言うあたり、自分以外の男からの文もあったのだ。あれだけ噂になっていたのだから当然のことだが、そう考えるとちょっと面白くない。

『ああそうか。香絵から文を貰ったこともあったな。』

 そう思い出すと、香絵は他の男にも返事を出したのだろうかと気になる。が、今は仕事中、聞き出して嫉妬に燃えるのは夜まで待つことにして、

「では書くことも出来るな。」

 自分の机から隣の香絵の机に書類を移し、指差しながら説明する。

「こちらの書類をこちらに書き写してくれ。」

「はい。」

 香絵はにこにこと嬉しそうに机に向かった。

 慣れぬ作業に間違えはしないかと心配で見ていたが、すらすらと美しい文字で早く正確に写していった。

「これから書き物は香絵に手伝ってもらおう。二人でするのは肩が凝るからな。」

 言って「ずずっ」とお茶をすすった。

 二人というのは道長と政次のこと。兼良は、暗号のような文字で読む者を悩ませるので、書写に関しては手伝いにはならない。

 香絵は顔を上げ、道長に極上の笑顔で「はい。」と答える。

 道長は幸せに微笑んで、もう一口香絵の淹れた美味しいお茶をすすった。



 夕日が部屋をオレンジ色に染める頃。

「そろそろ終わるか。」

 道長の言葉に、香絵は写しかけの書類をぱたんと閉じ、兼良も書類の束を机上に置いた。政次だけは算盤を弾く指を止めない。もう少しできりがつく。


「終わりました。道長様これだけ確認していただけますか。」

 立ち上がり、道長へ計算書を持ってきた。机越しに道長が受け取り、算盤を弾き始める。

 紙いっぱいに数字が書き込まれている計算書を、道長の横まで来て覗き込んでいた香絵が、

「はい、合っています。正解♪」

 そう言って、笑顔でぱちぱちと両手を叩く。

『『『え?』』』

 道長が香絵を振り返った。道長の算盤にはまだ数字の半分も入っていない。

「あ、ごめんなさい。」

 計算の途中で邪魔をしたのがいけなかったのだと思った香絵は、人差し指を口に当て

「しー。」と言いながら首を肩に沈めた。

「今の間に計算したのか?」

「算盤も使わずに?」

「これ全部?うっそぉ。」

 道長、政次、兼良が、驚きの目で香絵を見る。


「政次、次の計算書を持ってこい。」

「はっ。」

 政次が自分の机へ戻り、重ねた紙の一番上にあった一枚を持って来た。

「香絵、計算出来るか?」

「?はい・・・。」

 香絵は紙いっぱいの数字を上から順に眺めていき、視線が最後の数字まで下りると、道長の筆を取り、紙の下の余白に数字を書き入れた。

 道長が机からそれを取り上げ、政次へ渡す。

「確かめろ。」

 計算、もちろん算盤を使うのだが、その速さは政次の右に出るものはない。・・・はずだった。たった今までは。

 政次は自分の机へ戻って算盤を弾く。

 道長と兼良はその手をじっと見詰め、香絵は道長を見ていた。


 暫らくして、政次は手を止め、

「合っています。」

 盤を御破算ごはさんに戻した。

「へーえ。」

 兼良は感嘆の声を上げ、道長は香絵へ振り向いた。

「そなたは・・・・・・いったい何者だ。」

 顔に何の表情も浮かべずに呟いた道長に、香絵は何とも答えられない。

 いけない事をしてしまったのだろうか。香絵は不安気に道長を見詰めたまま首を振った。

 道長は立ち上がり香絵を見下ろす。何かを咎められるのかと身を竦めた香絵を、道長はぎゅっと抱き締めた。


 ただ者ではない。そんな予感はあった。初めて出逢った時から普通と何か違う、香絵に漂う雰囲気のようなものを感じていた。

 それはきっと香絵が異国の姫だからだ、と思っていた。思おうとしていた。

 しかし、姫には考えられない剣の腕を持ち、常人には有り得ない速さで計算する。

 香絵の国ではそれがあたりまえなのだろうか。そんな国があるなど聞いたことはないが、遠賀には噂も届かないほどの遠い国なら・・・。

 いや違う。香絵は特別な存在なのだ。何にとって特別なのか。そこまでは解からないが・・・。

 そう考えると道長の胸に不安が広がった。何か起こりそうな気がする。

 特別な存在を欲する者がいる。手段をえらばず力尽ちからづくで奪おうとしている。

 もし、香絵がこの腕の中からいなくなってしまったら・・・。

 知らず知らず、香絵を抱き締める道長の腕は力を増す。


「道長様、苦しっ・・・。」

 道長ははっと我に返り、腕の力を抜いた。しかし解こうとはせず、抱いたまま訊ねた。

「香絵、数字も忠勝の家にいたときに覚えたのか?」

「いいえ。文字はさっぱり分からなくて、義母かあ様に教えていただきましたけど、数字は聞かなくても読めましたから。」

『そうか。この国と違う文字を使い、同じ数字を使う国・・・。得丸に繋ぎを取り、仕事を急がせよう。』


 それにしても、と道長は考える。

『忠勝の奴、香絵の常人離れしたこの才能を知っていて黙っていたな。そんなに娘を手放したくなかったか。くそっ、あの親馬鹿め。』

 死者への尊厳も忘れ心の中で罵倒しつつ、その気持ちもわからなくない、と苦笑した。


「道長様?」

「ん?」

「わたし何をしたのでしょう?してはいけないことをしたのでしょうか?」

 死んでくれて良かった。などとは本心ではないが、口には出さず忠勝に毒づく道長はよほど悪い面構えだったのだろう。

 道長の腕の中で、香絵は不安に瞳を潤ませて道長を見上げた。

「いや、あまりの計算の速さに驚いただけだ。気にするな。」

 道長は笑って香絵の髪を撫でた。

『本当に?それだけ?』

 香絵は道長の顔を見詰めた。が、いつもと変わらない笑顔に胸を撫で下ろした。


「政次、兼良、今夜は皆で酒でも飲むか。」

「は?」

「え?」

 二人にてられぼーっと見惚れていた政次と兼良は、急に振られてあたふたしてしまった。

「あ。はい。喜んで。」

「やっりー。久しぶりですね。」

 慌てて返事を返し、終業の片付けを始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る