火花を刹那散らせ
穂乃華 総持
上話 暗殺命令!
三方を山に囲まれた京都の冬は、雪が少ないわりに重い寒気が山肌を下り、街並みをすっぽり冷気が包み込む。
土間の隅に身を隠し、
時は慶応三年霜月の壱拾伍日。戌の刻を過ぎて、半時も経とういう時刻である。(新暦1867年12月10日午後9時頃)
醤油商の近江屋の番頭は、藩邸との商いの差し止めを散らつかされると、あっさりと折れた。主人がわざわざ隠れ部屋まで用意する懇意の客人よりも、明日からの生活を取ったのだ。
その気持ち、わからなくもない。
自分だって生まれ育った山村では、村始まって以来の神童と言われていた身だった。刀を持てば、辺り三村に敵はなし。利発なること、この上無しと。
元服を向かえる頃には庄屋にたいそう気に入られ、三年の月日を待って娘と
この動乱の時代。
俺なら、何かを出来るのではないかと!
まるで夜逃げのように
だけど、都にはその程度の奴など珍しくもなかった。
それでもただでは帰れぬと、白い鼻緒の高下駄の上士に媚び諂い、屈辱を舐めながらも無為な日々を過ごしてきたが、今日になって初めて家老に呼び出された。
ただそこに生まれだけで家老になったであろう、いけ好かない奴にだ。
藩の将来ため、邪魔になる男を斬って来い――。
まるで犬にでも命じるかのような、短い言葉だった。
それが藩のためにも、況してやこの国のためになるわけもない。そうはわかっていても、保身のためには従うしかなかった。
俺も同じ、自分のことだけを大事にしたのだ。
ぴたりと閉ざされている表戸からは、しんしんと寒さが凍み込んでくる。
背後で丸くなり、身を隠した
きっと誰を斬るかを知れば、腰を抜かすに違いない。
寒いはずなのに額には汗の粒が浮かび、掌をじっとり濡らす。
いまだ自分に下された指示が納得できない。しかし、自分のような郷士が口出しできるはずもない。
喉の奥に溜まった
「徳川の時代は、もう終わっちゅう!」
「終わらそうとしちゅうは、おまんぜよっ!」
ひしひしと増した緊張感に、背後で弥一が身体をびくっとさせて尻餅を着いた。
「ええかげん、目ぇ覚ませやっ!」
「寝惚けた目ぇ開けんのは、おまんのほうやきっ!」
顔を突き合わせ、睨み合う二人の姿が見えるようだった。
一方はもう誰もが知っている、坂本 竜馬。ここでは、
土佐藩海援隊の隊長であり、薩長の手を握らせた立役者とされており、徳川の大政奉還を影で描いた人物だ。
もう片方は土佐藩陸援隊の隊長、
長州が失った勢力を取り戻そうと御所に迫り、会津と薩摩に押し戻された禁門の変では長州方の遊撃隊として参加し、幕府が行った第一次長州征討では忠勇隊総督になって戦った男だ。
薩長同盟は、薩摩藩に親しかった坂本と、長州藩と懇意であった中岡の二人が居たからこそ実現したと言われている。
その二人が、今、二階の客間で睨み合っていた。
「薩摩との密約はもうなっちゅう! 最早、倒幕は土佐藩全会の意思ぜよ」
「薩摩のケツ拝んで、分けまえを恵んで貰おうちゅうかっ! あさましいのぉ!」
「竜馬ーーー!!」
中岡の激昂した声が響き渡った。
土佐勤皇党を同時期に脱退し、薩長同盟を協力して成し遂げ、行動を共にすることが多かった二人は真からの盟友と見られがちだが、その目指す未来は真っ向に別れている。
徳川に大政奉還させたことで、穏健に天皇を中心とした議会政治を取り入れようとする坂本に対し、倒幕により挙国一致体制をつくり、押し寄せる諸外国に対抗しようとする中岡は、まさしく水と油だ。
同じ夢を描こうなど、出来るはずがない。
その時、一階の奥の間でガタリッと音がして、戸が開かれた。
二階を気にしたように、のそりと顔を覗かせて聞き耳を立てる。坂本の付き人である、元関取の山田籐吉だ。
間の悪いことに、怯えた弥一が積まれていた醤油を量るための枡をひっくり返した。
カランッコロッと転がる音に、怪訝そうに眉根を寄せた藤吉が巨体を廊下にあらわし、上がり框へと歩いてくる。
「誰か、居らっしゃりまするか……?」
こうなれば、隠れているわけにもいかない。
慶太郎は短く息を吐くと、弥一に手を伸ばして土間に立った。
つづく
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