【夏が散る】

ボンゴレ☆ビガンゴ

優衣の夏


 小学校の時、授業で消防車の模写をした事があった。校庭の真ん中に停められた消防車の周りを、画板を首からぶら下げた子供達がぐるっと取り囲んで、一心不乱に画用紙にその姿を描くのだ。広い校庭の真ん中で威圧感を放つ見慣れぬ巨大な車体は、猛々しい雄牛のようだった。頑強な骨格に守られた頭部のような運転席と、無駄な脂肪が一切ない筋肉質なボディ。どんな悪路でも駆けていけそうな太いタイヤと、太陽の日差しを浴びてきらめく梯子はしご。真っ赤な雄牛は、なかなかに難敵であった。

 わたしは入念にあたりを取り、鉛筆で下書きをしてから、水性絵具のバケツに水を入れた。パレットに赤いチューブをぶにゅっと出し、筆に絵の具をつけて、色を塗り始めようとしたところで、ちょっと待てよと考えた。

 ふと、みんなと同じような、ただの模写ではつまらないと思ったのだ。そうだ。あの運転席の上の赤色灯を点灯させてやろう。今は昼寝の途中みたいなあの車体も、ひとたび有事になれば眠りから目覚め、赤色灯を光らせ、ブルルンと鼻息を荒くして駆け出すのだ。全速で現場に向かう雄々しく勇ましい消防車の姿をこのキャンパスに描き出そう。

 単なる思いつきであったのだけど、我ながらいい案だと思った。顔をあげて、周りの友達の描いている消防車を盗み見る。うん、誰も赤色灯なんか気にしていない。心の中でガッツポーズを作ってパレットに絵の具を出した。赤と黄色と白と、少し緑も混ぜようか。

 暗闇の中を赤色灯をきらめかせ疾走して行く真っ赤な雄牛をイメージして、試行錯誤して絵の具を混ぜ合わせた。きっと、独創的なアイデアだと褒められる。そんな淡い期待を胸に、筆の先に絵の具をつけて、いざ赤色灯を塗ろうとしたその時だった。

「山上さん、その色はおかしいんじゃない?」

 見回りをしていた担任の先生がわたしの所にやってきて言った。

「コレでいいんです。赤色灯が付いている姿を想像して描いてるんです」

 きっとわたしの発想を褒めてくれる、と自信満々に答えたわたしだけど、先生の反応は期待したものとは大きく違った。

「山上さん。今日やってもらうのは模写だから。みんなの絵を見てごらん。想像じゃなくて、ありのままを描いてね」

 呆れたような顔で、ピシャリと先生は言い放った。わたしは驚いてしまって、なにも言いかえせなかった。

 面白い発想だね、と褒められることはあっても、注意されるなんて微塵も思っていなかった。ショックだった。あまりのことに反論もできず「はい……」と小さく返事をしたけど、先生がいなくなってから、むくむくと悔しさと悲しさがこみ上げてきた。

 なんでよ。なんで怒られなきゃいけないの。せっかくいいアイデアだったのに。先生はなんにもわかってない。

 行き場のない感情を抱え、ひとり奥歯を噛んでパレットの上に黒の絵の具をひねり出した。せっかく作った綺麗な色を黒の絵の具でぐしゃぐしゃにする。苦労して作り出した色はすぐに真っ黒に染まった。新しい色を作るのは大変だけど、台無しにするのはいとも簡単だ。

 私は涙をこらえて消防車に色を塗った。悔しくて破り捨てたい気持ちを必死に抑えながら。


 だけど、面白いもので、わたしが苛立ちのままに塗りたくった消防車の絵は市の展覧会に出されて賞をもらった。朝礼で表彰もされた。力強い絵ですね、なんて校長先生にも褒められたし、お母さんも喜んでくれた。でも、わたしは嬉しくもなんともなかった。その絵はわたしが本当に描きたかった絵じゃないから。本当に描きたかったのは、赤色灯を光らせて走る消防車の絵だったから。



 そんなことを、ふと思い出したのは、久しぶりに来た真奈の家の階段にその時の賞状が飾られていたからだ。そうだ、真奈も一緒に表彰されたんだった。一緒に朝礼台の上で校長先生から賞状を貰ったんだった。すっかり忘れていた。わたしの家にもあの賞状は残っているのかな。しまいこんで忘れられた、ほろ苦い思い出に思いを寄せる。ちょっとセンチになったけど、それもほんの一瞬。ピロン、と手元のスマホに通知が入り、目を移すとそんな忘れかけてた嫌な思い出はすぐに記憶の底に沈んでいった。


 『新しい応援コメントが一件あります』


 おっ、と淡い期待に胸を踊らせて開いたのはネット小説のサイトだ。無料で小説を読んだり投稿できるサイトで、この夏ハマった。初めは読むだけだったけど、部屋の掃除をしてたら高校の時に授業で書かされた短編小説が出てきたから、少し改良して投稿してみた。そしたら、意外と好評でレビューがついたり、今みたいに応援コメントとかを貰えたりして大変承認欲が満たされる。

 勉強はあんまりできないけど作文はよく褒められたからなぁ、ともらったコメントを見て一人悦に浸るのが最近の楽しみだ。そうだ、せっかく夏休みだし暑いし外に出たくないし、何かコンテストにでも参加してみようかなと思い立った。探してみると、商業作家の人が講評をつけてくれる企画があって、辛口の講評らしいが的を射ていてなかなか為になるらしい。面白そうだから参加してみようと決めた。コンテストに出すような力量なんてまだまだないかもしれないけど、思い立ったら吉日だ、というわけで、わたしは先週から新たに作品を書き始めていた。


 八月も中盤。期待していた夏休みの姿とは少し違ったけれど、わたしは新しくできた趣味に夢中だった。そうなのだ。夏だからって外に出なきゃいけないって決まりはない。だって見て欲しい、窓の外を。まじ灼熱地獄だもん。窓の外では蝉すら悲鳴をあげている。無理。こんな暑さ。外出なんて正気の沙汰じゃない。死ぬってマジで。来週海に行く予定があるけど、こんな暑さだとそれも億劫だ。もう人類はエアコンなしに生きていけないのだ。壁に取り付けられた文明の利器を見上げて思わず手を合わせる。エアコンさま。いつもありがとうございます。なむなむ。

 やっぱりこんな時だからこそ、インドアな趣味を持つということは有意義なのかもしれない。冷房をガンガンと効かせながら進捗が出来るのだ。こりゃいいぞ。


 それにしても……。と、なかなか戻ってこない部屋の主のことを思う。真奈ったら何をやっているんだろう。飲み物を取りに行くって言ってたのにな。トイレかな。まあ考えてみても仕方がないか。

 そうだ、真奈が来たら今書いてる小説を読んでもらおう。あの子は昔から読書少女だったし、きっと良いアドバイスをくれるかもしれない。


 そんなことを思いながら一つあくびをして、今度はツイッターを開く。手持ち無沙汰でもスマホが一台あれば無限に時間を潰せるんだから世の中すごい。

 流れるタイムライン。専門学校に進んだ友達は就活の話題。中学の同級生は甲子園を沸かせた秋田の高校の話題。小説サイトで仲良くしてる人はペンギンが出てくるっぽい新しい映画の話題。みんな好き勝手に平成最後の夏を楽しんでいる。飼ってる猫の写真や、マックで女子高生が話していた創作実話など、誰かが拡散するどうでもいい話題の中、一つ目を引く話があった。

 それは、最近インターネットで炎上した企業の社員が自殺したらしい、というものだった。誰かのなにげない呟きで、特にニュースサイトへのリンクも貼っていなかったから真偽のほどはわからなかったけど、わたしは無視できなくて、すぐにGoogleを開いて検索画面に文字を打ち込んだ。


『女性差別面接問題で炎上中の株式会社ワダチ・コーポーレーション、差別発言をした面接担当の元社員が自殺』


 先週の記事だ。知らなかった。死んじゃったんだ。一瞬心が冷えたけど、慌てて自業自得だと自分に言い聞かせた。

 確かにあの動画をアップしたのは私だ。高校時代の友達で専門学校に行った子がいて、その友達が「ヤバい圧迫面接されたんだけどwww」と送ってきた動画を身内に見せるくらいの軽い気持ちでツイッターにあげたのだ。わたし達は四年生の大学だから、就活なんてまだまだ先だけど、こんなに大変な思いをするみたいだよ、という程度のことだった。だけど、予想外に凄い人数にリツイートされてしまった。通知が鳴り止まなくて、こんなに大ごとになるとは思わなくて超絶焦った。けど、動画を見ればわかるけど、あんな酷い言葉を投げつける面接なんて許されない。みんなだって、そう思ったからリツイートしたのだろう。


「どうせ結婚するまでの腰掛けだと思ってんじゃないの?」

「生理が重たいからって休んだりできないけど、わかるよね?」

「彼氏は今まで何人? あんまり遊んでる子は社内の風紀を乱すから困るんだよね」

「営業になりたいってことは、もちろん接待の時に触られたりすることもあるけど、そのくらいの覚悟はあるんだよね?」


 酷すぎるよね。そんな発言。批判は当然のことで、私が動画をアップしなければ、あの面接官はずっと酷い面接を続けていただろうし、希望を持って面接を受けた子が可哀想だし、誰にも言えず泣き寝入りする子も増えていたはずだ。

 動画はワイドショーにも取り上げられてちょっとした騒ぎになった。その結果、面接官は解雇され自殺に追い込まれたみたいだけど、個人名を特定したのも企業に講義のメールや電話を入れたのもわたしじゃない。知らない誰かだ。だから、私が気に病むことは何もないんだ。うん、やめようこんなことを考えるのは。


 スマホの画面を伏せて立ち上がり、頭をふって心のもやを振り払い、気持ちを切り替えようと真奈の部屋をぐるりと見渡した。小学校の時は毎日のように遊びに来ていて、中学では部活が違ったからあまり来られなくなって、別の高校に進学したらぱったり来なくなった幼なじみの部屋。

 ここにくるのは何年振りだろう。もう少し広い部屋だと思ったけど、それは自分が小さかったからだろうか。それすら思い出せない。

 見覚えのある勉強机もあれば、小学生の頃、一緒に遊んだシルバニアファミリーのお家セットはどこにも見当たらなかったりして、懐かしさと真新しさがまぜこぜになっている。ほんのりピンク色の壁紙は見覚えがあるし、たぶんベッドも変わってない。いちご柄のクッションは知らないけど、ディズニーのクマのぬいぐるみは記憶にある。見覚えのある勉強机には最新型のMacBookがでんと置かれ、その隣には一緒に図工で作ったおソロの紙粘土のペン立て(わたしのは落として割れちゃったから捨てた)があって懐かしくなったり。かといって、天井からはIKEAとかで売ってる、ぶら下げるタイプのおしゃれな星型のランプが連なり、フローリングには西海岸風(?)の涼しげなラグが敷かれ、大人っぽい折りたたみのちっさくて可愛い丸テーブルがちょこんと置いてあったり。やっぱり月日は流れたんだなぁと思う。

 部屋の内装が変わるんだから、持ち主だって変わるよね。年を跨げば振り袖を着て成人式。わたし達も大人になるんだ。あの頃から変わった部分もあるだろうし、変わらない部分もあるだろう。わたし達は今でこそ疎遠になっちゃったけど、別に友達じゃなくなったわけじゃないし。環境が変われば人は変わる。ちょっと成長して変わっちゃっただけだ。癖っ毛を三つ編みにしていた真奈も今や縮毛矯正してサラサラなストレートヘアになっていたし、わたしだって彼氏もいれば髪も染めてるもん。変わるよね。部屋も人も。

 久しぶりに「会おうよ」と連絡をもらった時は驚いたけど、嬉しかった。お互いに学校が違って会う機会はめっきり減ったけど、わたしは真奈のことを今も変わらず大好きだから。


 真奈との付き合いは保育園時代にまで遡る。一番印象に残っている記憶は夕闇に飲み込まれた広い教室の真ん中で身を寄せ合って、二人だけでずっとお人形遊びをしていたことだ。他に友達がいなかったわけではない。親が共働きだから仕方がなかったのだ。仕事が忙しくて、迎えに来るのが遅くなるのは、わたしと真奈の親だけだった。夕方になると、ひとりまたひとりとお迎えが来てみんなは帰っていくけど、わたし達の親が迎えに来るのは日がすっかり落ちてからだった。

 二人で遊ぶには広すぎる教室は、ふたりぼっちのわたし達の声よりも静寂のボリュームをあげるから、わたし達は寄り添って声を潜めた。暮れていく空が寂しくて、最後の一人になってしまうのが怖くて、一人きりになるくらいなら、闇の中ででも、ずっと二人きりでいたいと思った。

 小学校に上がってもいつも一緒に遊んでいた。中学時代は部活が違ったから、遊ぶ機会は減ったけど、休み時間はいつも一緒にいた。それほどまで仲が良かったのに、別の高校に進学したというだけでわたし達はあっけなく疎遠になった。別に劇的ながあったわけじゃない。別の高校に行くことになったとしても、家も近いし、会おうと思えばいつでも会えたのだ。


 でも、月日はあっという間に流れてしまい、中学の卒業式の日に、真奈が寂しそうに呟いたあの言葉の通りになってしまったのだ。

 今も憶えている。満開にはほど遠い蕾だらけの桜の木の下で、わたしと真奈は並んで写真を撮った。卒業証書の入った筒を大事そうに抱えた真奈は式の最中にあれだけ泣いたのに、また泣き出しそうな顔になっていた。

「もう、真奈。泣かなくてもいいじゃん。卒業したって別になにも変わらないって」

 慰めるためだけに言ったのじゃなくって、本当にそう思っていた。会おうと思えばいつだって会えるし、ラインのグループだってあるし、ツイッターでも繋がってるし、春休みにはクラスのみんなとボーリング大会をする予定もあったし。こんなに疎遠になるなんて思いもしなかったのだ。

 真奈は目に涙を溜めたままクイっと細い顎をあげて、五分咲きにも満たない桜を見上げた。三つ編みが風に揺れた。

「きっと変わっちゃうよ。時が経てばクラスメイトの名前も曖昧になって、友達だった人もそのうち、ただの知り合いになって、駅ですれ違っても気づかないようになっちゃうんだ。みんな。きっとわたしも優衣も」

 なにを中学の卒業式くらいで大げさな、とその時は思った。

「そうかなー。きっと変わんないよ。ほら、真奈が『イチ高』に一緒に行こうって、わたしに勉強を教えてくれたけど、ぜんぜん頭なんか良くなんなかったし」

 おどけてみたけど、真奈は「そういうことじゃないよ」って低いテンションで言うから「そういうことじゃないか」って舌を出して返した。なんか重たい雰囲気になってしまって、それで会話がストップしちゃったから、困っちゃった。言葉が浮かばなかった。沈黙を破ったのは真奈だった。

「みんな別の花の蕾なんだよ。まだ蕾だから同じような見た目だけど、きっとみんなぜんぜん違う花の蕾なんだよ。同じ制服を着て、同じ校舎にいるから、同じ種類だって勘違いしちゃうんだ。本当は誰がどんな花を咲かすかわからないの。似たような蕾を持ってるから安心して今日の桜の木みたいに行儀よく並んで、ただ寒さに耐えているんだよ」

 真奈はわたしより頭がいいから、時々なんだか小難しいことを言う。でも、真奈のこういうポエミィな言葉は嫌いじゃなかった。確かに卒業式だってのに春らしさのカケラもない冬みたいな寒さだったし、タイツ履いて行こうか写真撮るからみんなとお揃いのハイソの方がいいよな、とか考えてギリギリまで迷ったし。

「みんな同じ花が咲くのなら、一緒に咲いて一緒に散れるのに。姿が変わっても一緒に居られるのにね」

 義務教育の終わりを前に真奈はセンチメンタルど真ん中にいるのかもしれない。わたしはそこまで感傷的になってはいなくて、でも真奈が泣いて悲しんでるくらいだから、わたしもそのくらいセンチになった方がいいのかなぁ、って考えてはみるものの、気の利いた言葉は出てこなくて。

「わたしには蕾なんて無さそうだけど。一生なにも咲かずに終わったりして」

 結局、あはは、と誘い笑いでおどけちゃう。そんなわたしをみて、真奈はクスッと笑った。

「確かに。真奈はずっと変わらなさそうだね」

「あったりまえじゃん。わたしはわたし。一生わたしだよ」

 胸を叩いて頷いた。

「ずっと変わらないでね」

 恥ずかしそうに真奈が言うから、わたしはもう一度大きく頷いた。


 でも、その日を境に真奈と会うことはなかった。



 久しぶりの再会には緊張したけど、家のインターホンを押すと、真奈は懐かしい表情でわたしを迎え入れてくれた。少し痩せた気もするけど、変わらぬその声にほっとした。

 昔は勝手に台所に行って冷蔵庫から麦茶を出して飲んだりしていたけど、さすがに久しぶりに来たのにそんなことするのも非常識だし、持って来てくれると言うので、大人しく真奈が来るのを待っているのだけど、少々時間がかかりすぎではないか。

 まあ、時間はたっぷりあるし、いいか。まだお昼だ。真奈がきたら何を話そうかな。積もる話はいくらでもあるし、夏休みだし、ノリでお泊まりしちゃってもいいかなー、なんて考えていると、ようやくガチャリと背後で扉の開く音がした。お、やっときた。

「おそかったねー」と言いかけて、なにげなく目線をやると真奈は開いた扉の向こう側に黙って立っていた。様子が変だった。

「真奈……?」

 呼びかけつつも、彼女がお盆も飲み物も持っていないことに気づく。少し俯きがちな姿勢。どうしたんだろ、と顔を向けると真奈のダラリと下げられた右手には似つかわしくないものが握られていた。包丁だった。

「……え? 真奈?」

 もう一度呼びかけるが、彼女は顔を下げたまま返事をしない。

「ちょっとどうしたの? 真奈……」

 わたしが訊いたのとほぼ同時に彼女はすうっとわたしめがけて駆け出した。顔も上げないで近づいた彼女はドンっと倒れこむようにして、わたしの体に体当たりをした。

 意味がわからなかった。わたしは突然、真奈に押し倒されたのだ。何事かと思うと同時に、全身が総毛立つ。一瞬の違和感の後、腹部に激痛が走った。顔を歪めながら視線を下げる。……うそ、うそだよね、真奈の手に握られた包丁が自分のお腹のあたりに突き刺さっている。お気に入りの白いシャツがみるみるうちに真っ赤に染まっていく。

 意味がわかんない。喉が詰まる。熱い、お腹が熱い。痛い、痛い、痛い痛いっ。嘘、なんで、どうして。ぐらりと視界が回る、世界が回る。視界をあげると、髪の毛を振り乱した真奈の顔が歪んで映る。震えてる半笑いの表情、二つの瞳は瞳孔が開き、わたしを捉えている。

「……んな……がはっ……、ま、真奈っ……なんで……」

 掠れる声で呼びかけるが真奈は返事もしない。その代わり、わたしのお腹に突き刺さった包丁をデタラメに搔きまわす。ぐちゃぐちゃと肉が呻き私は悲鳴もあげられず、うめき声だけが抉り出される。激痛。息が、息ができない。苦痛に顔も歪む。どうして……意味がわかんない……。グラグラ揺れる頭が、脳みそが、酸素を求めてわたしを喘がせる。なんでなんでなんで。なんで……、なん……で……、

 ぬちゃり……と朦朧としていた意識は真奈が包丁を引き抜いた瞬間の激しい痛みで覚めた。

 真奈はゆっくりと立ち上がりわたしを見下ろす。握る包丁は真っ赤に染まり、ぼたぼたと、どす黒い雫を滴らせている。お腹に手をやる。ぐちゃぐちゃになってしまったお腹。ベタベタと粘着質な泡が弾け、どくどく地が溢れ、わたしの中に詰め込まれていた臓物が飛び出しているようだった。視界がぼやけてチカチカする。どうして、どうして。真奈の表情へ視線を移す。真奈の口が開いたり閉じたりしている。何か、何か言葉を紡いでいる。

「……部……全部、優衣が悪いんだよ……全部……優衣が」

 ブツブツと呟いている。


 わたし……?

 わたしが悪い……ってどういうこと……?


 強烈な吐き気に、咳き込むと鉄みたいな味が口中に広がって、鋭く鈍く強烈な痛みが全身を犯していく。意識が朦朧とする。

 肩を震わせ俯いた真奈が手に持つ包丁を落としたんだけど、がちゃんって床に落ちた音がやたら遠くに聞こえて、わたしは視線を動かすことすら、もうできなくて、「ヒュッ、ヒュッ」て喉が勝手に変な音を立てて、全身が心臓になったみたいにドクドク脈打って、意識が遠くなっていく。

 視界の端に移る何重にもダブった真奈が真っ赤な両手で自分の顔を覆ったかと思うと、ぺたんと座り込んでしまった。

 頭を動かす気力もないわたしの視界から真奈は消え、懐かしい天井と壁紙だけが残った。

 ああ、壁紙のシミ、懐かしい。あそこにあったの覚えてる。懐かしい天井と壁紙の薄いピンク色。あの頃のまんまの天井と壁紙だ……。


 意味わかんない、体が震える。なんで、なんで、なんでよ。どうして、こんなことに、なるの。うそ、だよね、だってまだ……わたしは、まだ若くて……夏休みで……ぜんぜん死亡フラグなんて……あったっけ……、なかったじゃん……

 嫌だよ……。意味わかん……ない、来週旅行に……行くのに……水着も……まだ……小説、だって、そうだ、小説だって、書かなきゃ、いけない、んだった……夏休みは……なのに……


 嘘でしょ……


 わたし、……死にたくないよ……



 死にたく……


 


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