第21話

 それから、月面上の工場、水星軌道上の太陽光発電システム、そして量子スパコンの建造は、まったく順調だった。もはや核ミサイルを撃つ国もなければ、国際会議で横やりを入れようとする動きもなかった。

 逆に、主要国はこのプロジェクトにこぞって協力を表明してきたのである。文字通り「世界」を根本的に変えるプロジェクトである。今のうちに恩を売っておけば、なにかの「おこぼれ」に預かれるかもしれない。

 あらゆる攻撃は無意味だ。世界大戦の危険性はこれまでになく遠のいた。

 しかし瑠奈の視線はその先を向いているのだ

 太陽発電プラントからは電力の供給が始まり、ケツァールは予想以上のパフォーマンスを出しつつあった。

 宇宙の背景輻射から太陽黒点の活動、小惑星の運行、海流の蛇行、世界中の気象観測地点の風向風速降水量、漁獲高、作物の生育状況、商品の売れ行き、ネットTVの視聴者情報、ひとびとの動き、為替相場。SNSの噂、家計簿、学習帳、「ケツァール」に走るエンジンはいくつもの世界のネットをクロールし、ありとあらゆる情報を飲み込み、ひたすら演算を重ねる。

 これまで曖昧にしかわからなかった傾向をはじき出し、カオスに見えた巨大なデータ群を整理する。

 誰も知らなかった相関関係を導き出す。世界は真の姿を現そうとしていた。

 プロジェクトの成功は目前に思われた。

 そのときである。

「大変だ!」

「……どうした!」

「太陽が……!」

 太陽観測衛星から送られてきた画像を

 河田は絶句した。

 太陽表面に、突然、地球から肉眼で見えるほどの巨大な黒点が出現したのだ。太陽の活動が異常に活発になっている証である。

 ほどなくして、黒点から巨大なフレアが噴き上がった。噴き上がる炎の先端は水星軌道に達した。

 巨大な赤龍のようなフレアが、太陽から伸びて揺らいでいるのを、ディスプレイ越しに見た。

 建造途中のプラントはフレアに直撃された。軌道上の太陽電池パネル、そして水星の上にある工場はすべて、熱と電磁波、放射線で焼き尽くされる。

 プラントは、再起不能だろう。

 ちょうど、満月の夜だった。

 月はいつもよりも明るく輝いている。太陽フレアの明かりを反射しているにちがいない。

 太陽フレアをもろに浴びた地球の裏側は、今頃阿鼻叫喚の地獄図絵だろう。

高高度核攻撃と同じ事態が生じているのだ。

 北の空が赤くぼんやりと光っているのは、オーロラか。太陽フレアがもたらした巨大磁気嵐で、通常では発生しない低緯度でも発生しているのだ。

 その禍々しい光を浴びながら、慄然とする。

「神」を超える試みはついえたのか――。

 その報を聞いた瑠奈は、しばらくうつむいて黙っていた。やがて、肩を小刻みにふるわせはじめた。

 ショックなのか……。

 いきなり顔を上げた。

「あーははははははははっ!!」

 突然、瑠奈がけたたましい勢いで笑い始めた。

「ははははははっ!」

 天を見上げ、叫んだ。

「こんなだっさい手にまんまと引っかかるなんて、ちょー受ける。草生えるんだけど! 人間なめんじゃないよ!」

 虚空に向けて中指を立てる。

「あたしたちのプロジェクトに、わざわざ水星軌道に太陽電池を並べる必要なんて、どこにもなかったのよ! 見てな!」

 瑠奈は右腕をまっすぐ伸ばし、空の彼方を指さした。その先にあるのは――満月。

 その次の瞬間、信じがたいものを見た。

 月の表面から、細く鋭い光が噴き出している。それは次第に激しくなり、白い輝きが地上のもののすべてを飲み込んだ。

「まぶしい!」

 河田は目をそらした。

 瑠奈は平然としている。

「月は重力崩壊して、その質量の殆どはシュワルツシルト半径の内側に押しつぶされた――ブラックホールになったのよ」

 太陽の何十倍も重い恒星の断末魔にしか起こらないとされている現象が、月に起こるなんて。

 宇宙ジェットが両極から噴き上がり、その姿はどんどん大きくなる。接近している――いや、地球が引き寄せられているのだ。

「ば……ばかな」

 信じられなかった。

 超新星爆発を起こした恒星でもないのに、どうして月がブラックホールになってしまったのか。

「それは、漏れ出る重力をせき止めたから」

 即座に瑠奈が答える。

 この宇宙に存在する4つの力は、重力、電磁力、強い相互作用、弱い相互作用である。その中で、重力だけが桁外れに小さいのは、謎とされてきた。

 しかし前世紀末に提唱されたブレーンワールド理論によって、11次元の宇宙と、その中で重力が漏れているモデルが提唱された。

 ほかの「力」と違って重力は高次元に漏れているから、この宇宙では微弱にしか働かないのだ。それを遮ると、重力は現在の値よりも、10の19乗倍にまで大きくなる計算だ。

 月を周回している3基のケツァールが、そのような結果を算出した――別の次元から持ってきたのだろう。その「法則」が適用された月は突然、太陽の数百倍もの質量になったのだ。これほどの質量の物体は、たちまちにして自重で崩壊し、その質量の殆どはシュワルツシルト半径の内側に押しこめられる。間に合わなかった表層の物質は、潮汐力で粉砕されて周囲を周回する降着円盤になり、一部は宇宙ジェットになって両極から噴出した。

 月は太陽系でいちばん重力の強い天体になった。

 真っ先に餌食になるのは――地球だ。

 月――ブラックホールがどんどん近づいてくる。いや、地球が引き寄せられているのだ。

 上層大気は、ブラックホールに向かって吸い込まれ始める。

 引き寄せられた大気の分子が白熱する。大群衆が狭い出口に殺到して身動きがとれなくなるように、重力で押しつけられた原子どうしがぶつかり合い、通常では超えられない領域を超えて接近し、ついには原子核同士がぶつかり、核融合を起こす。それに伴って莫大なエネルギーが放出される。

「太陽がなくたって!」

 さらに、回転するブラックホールの周囲にある「エルゴ領域」では、質量の約30%がエネルギーとして取り出すことが出来る。

「高次元では裸の特異点が出現する」

 瑠奈は宣言する。

 裸の特異点。一切の物理法則が無効になるポイントが、宇宙にむき出しで存在する。

「『神』はブラックホールには手出しできないよ。特異点を秘めているから。この世界の理の外にあるものに対しては、神は無力!

 ブラックホールを取り巻く降着円盤は、太陽よりも明るく輝く。そのエネルギーを浴びて、ラグランジュポイントを周回する「ケツァール」、そして、月のなれの果てから世界中にばらまかれたVNMによって製作された量子スパコンが、地球上の資源とエネルギーを使ってアセンブルされる。巨大な幹から枝が伸び、そのあちこちが赤や緑に光っている。まるで珊瑚のようだ。

 地表は量子スパコンで覆われ、まるで森のようになった。そのどれもが、量子演算を行っているのだ。

 空はもう青くない。赤紫の雲がものすごい勢いで流動し、天を覆っている。

 プレートがきしむ。マグマがそちこちで噴出する。

 地表はガンマ線で灼かれ、海はすさまじい潮汐で荒れ狂い、煮え立った。

 巨大な地殻変動でスパコンは破壊されるが、そのエネルギーはVNMを駆動させ、新たなスパコンが作り出される。その有様は、まさに自らの尾を咥える蛇――ウロボロスだ。

 大地は潮汐力にかき回され、鳴動と変動をやめない。

 地殻が割れ、マグマが噴出する。

 もはや地球上に有機物は存在しない。降着円盤から発せられるガンマ線に焼かれてガラス状に固結した鉱物が、地上を覆っている。

 地上には、量子スパコンの稼働する光だけが明滅している。

 目の当たりにする光景は、もはや「人間」や「生命」の入る余地がないものになっていた。そんな環境で、どうして河田が生きながらえているのか、全く見当もつかないのだ。

(おれはどうなっているんだ……)

 他の人類もどうなったのか分からない。

 自分は、地球最後の人間だ。

 それとも他にも、生き残っている人間がいるのか。

 ひょっとしたら、肉体はとっくに滅びて、意識だけが量子スパコン内部でエミュレートされているのかもしれない。

 ついにはロシュの限界を超えて、地球が砕け始める。破片はブラックホールに降り注ぎ、周囲を取り巻く降着円盤となり、その一部は宇宙ジェットになって自転軸に沿って噴出した。

 太陽も惑星も小惑星も彗星も、太陽系のすべての物質が、ブラックホールの重力に支配され、その周りを周回する。

 太陽系はその姿を一変させた。

 河田は想像を絶する光景を脳内に流し込まれる。

 脳細胞が飽和して、爆発しそうだ。頭がきんきんと痛む――頭だけではない。自分の肉体もスパゲッティのように引き延ばされていく。解体され、原子にまで分解される。

 目前にあるのは、事象の地平面だ。脱出速度が光速を越えるシュワルツシルト半径の境界。ポイント・オブ・ノーリターン。そこをくぐってしまえば、もうこの宇宙には戻ってこられない。

 すべての物質は分解され、むき出しのエネルギーが満ちている。

 エネルギーの渦巻くかなたに、瑠奈の姿を見たような気がした。

 叫んだ。しかし、もう声帯も、声の媒体たる空気もない。それでも叫んだ。

「瑠奈!!!!!!!」

 視界が光で満たされた。光はそのエネルギーを増し、ガンマ線の領域に達した。そして、宇宙で最も強烈な光である、ガンマ線バーストの激光よりも明るく輝いた。

 原子が破壊され、自分を構成していた物質が素粒子、クオークの領域にまで分解されていくのを感じた。

 事象の地平線の向こう側に吸い込まれる。

 自分という存在は、物質も情報も含めてまるごと、この宇宙から永遠に消え去るのだ――。


 ――――――――――

 ――――――

 ――――


「……!」

 目が覚めたときは、万年床のせんべい布団の中だった。

 そこは、昨年まで住んでいた部屋である。ずっとひとりで住み、そして瑠奈と暮らすようになった部屋だ。

 しかし、何かがおかしい。

 眼鏡をかけて目に入った部屋の中には、瑠奈のものが、ない。

 引っ越す前、壁のハンガーには瑠奈が買った、春物のコートがかかっていたはずだ。しかし、かかっていない。

 跳ね起きて、周囲を見回す。

 家具調度。冷蔵庫の上に乗っている食玩フィギュア。机の上で読みかけのまま伏せてあった本。天井にしみついた雨漏りの跡。全て見覚えのあるものばかり。しかし、瑠奈はいない。瑠奈のいた証が消え去っていた。

 自分の服しか入っていない箪笥から着替えを出す。のろのろと着替えて、外に出た。

 降り注ぐ陽光も葉末を揺らす風も、景色も町並みもひとびとも、なにも変わっていないように見えた。

 その足で、研究室に行った。

 看板は「数理科学研究所」のままだ。

 コンピュータ棟の隣にあったはずのビルディングが、建っていない。

――あったはずの、量子スパコンがない。

 ケツァール計画はおろか、瑠奈たちのタスクフォースも存在していない。それどころか、資料も残っていない。

「なんですか、それ?」

 同僚は怪訝な表情で、河田を見る。

「瑠奈? 誰ですか? 河田さん、しっかりして下さいよ……?」

 話がまるっきり通じない。

 瑠奈がいた証は、全く残っていないのだ。

 一体自分は、どこにいるのか。さっきまで見ていたものは、なんだったのか……。

 ふらふらと外へ出た。そのとき。

(ひろちゃん)

 瑠奈の「声」が聞こえる。音声ではない。

 遠い空の向こうから響いてくるようだ。

(……終わったよ)

「なにが?」

(特異点を数学的に解決する方法が見つかった。より高次元で無矛盾の体系を作り出すことによって、現在の『神』は太陽系から駆逐され、宇宙のことわりは書き換えられた。今から太陽系は、あたしたちのものになる)

 ぼくたちは、この世界は、どうなったんだ?

(量子スパコンは、その演算能力で、地球上の情報を全て読み込んだ。そしてシミュレーションとして電脳世界内に再現したのよ)

「ぼくらは、この世界は、シミュレーションとして生きている、ということなのか」

(周回している量子スパコンはまだ大丈夫だから、古い地球と人類はその中で生きればいい。VNMによるメンテナンスで、このブラックホールが蒸発するまで動く。宇宙が終わるまでのエネルギーは十分なはず)

 われわれは宇宙が終わるまでの「生」を保証されたのか。

 もはや地球は存在しない。それでも人類を「生かして」くれるとは、瑠奈たち新しい「神」はなんと慈悲深きことだろう。かつての「神」なら、迷わず滅ぼしていたところだ――。

(ひろちゃん、ありがとう)

 特異点を解消したことによって「あちらの世界」への扉が開く。瑠奈は高次元の世界へと旅立つ。河田たちはシミュレーションの世界で生きる。彼にとって瑠奈は認識できない存在になる。

(ひろちゃんに出会えて、あたしは世界を恨まないですんだ。ひろちゃんがあたしに、真実への扉を開ける道程を教えてくれた……これが、ひろちゃんに意思を伝えられる最後の機会になると思う。あたしはひろちゃんを忘れない。ひろちゃんも、あたしを忘れないで……)

 瑠奈は新たなる「神」になる。しかし、河田はその扉の向こうには行けないのだ。結局「神」とは、われわれのうかがい知れないもの、なのか――。

 ならば、よい神であって欲しい。いや、それは間違いないだろう。

 澄み切った青空が広がっている。太陽も雲も風も飛び交う鳥も、全て瑠奈が作ったもの。

 瑠奈は遍在した。この世界はなんと「愛」に満ち満ちていることか。

 名付けがたい思いが胸いっぱいに溢れてきた。

ホワイトアウト

――なんだ?

 なにかが自分から抜けていったように感じた。

 思い出せない。

 ひとしきり、うんうんうなって考えた。

――まあ、大したことじゃないだろう。

 河田は思考のかけらを頭から追い払い、坂道を下っていた。

(せっかくの休みだ、ゆっくりしよう)

 いつも前を通っているだけの駅前の喫茶店で、コーヒーでも飲もうかと思った。ちょっと高いけど、奮発してもいいい気分だった。

 駅の正面に出たとき、ひとりの少女が、柱に寄りかかっているのが眼に入った。

 人待ちでもしているのだろうか。

 髪を脱色して、こてこてに化粧をしたギャルスタイルの彼女は、閑静な住宅街の駅には不釣り合いだった。

 でも不思議に懐かしい、ような気がした。

 視線が合うと、彼女は笑顔を返した。

「す、すいません」

 河田が離れようとすると少女は逆に、歩み寄ってきた。そして河田の顔をまじまじと見た。

「ねえねえ」

「はい!」

 慣れないシチュエーションに、思わずびびってしまう。その有様に、少女は苦笑した。

「あんた、どっかで会ったことない?」

「やっぱり」

 つい口に出してしまった。続いて、少女は口を開いた。

「誰だっけ?」

「うーん……」

「わかんない?」

「うん」

 河田は決まり悪くうなずいた。

「そっかー。きゃははははっ」

 少女はそう言って笑った。

「で、思い出した?」

「いえ……」

 河田は口ごもり、続いてどもりながら

「こ、こ、これも何かのご縁ですから、い、一緒に、お、お、お茶でも飲みませんか?」

(……おれ、何言ってるんだ)

 河田は自嘲で思わず顔が歪んだ。額から汗がどっとあふれ出た。

 その有様を見て、少女は噴き出した。

「やだなあ。ナンパ?」

「……ダメですか?」

 しかし彼女はにっこり笑って

「いいよ、つきあってあげる」

 少女は河田の手を引いた。

「行こっ!」

 日差しがまぶしかった。(了)

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