第7話

 河田らの助けを得た瑠奈は、猛烈な勢いで知識を吸収していった。高等数学を学び、プログラミング言語を覚えた。

 なにせここは研究所、高等数学のテキストは、いくらでもあるのだ。

 パラパラめくるだけで難解な数式を把握していく能力に、みなは驚嘆していた。

 やがて瑠奈は、研究室の大学院生も即座に答えられないような質問を繰り出してくるようになった。

 ブローカ野ニューロンの活動も亢進しているようだ。

 ニューロンによって数学的なイメージが「認識」され、彼女の脳内イメージが、与えられた「数式」のかたちによって一気にアウトプットされる。

 一方、河田は研究に没頭していったが、気になるのは瑠奈のことだ。

 このところは昼間でも構わずSNSにメッセージが来る。たわいのないことばかり書き連ねてあるが、授業を受けているのかと訝ってしまう。

「ひ~ろちゃんっ★」

 平日の昼下がり、研究室にいきなり現れた瑠奈に、後ろから抱きつかれた。やわらかいものが背中に当たる。

「いきなり、なにするんだ」

「ハグだよ、あいさつあいさつ」

 河田はその感触にどぎまぎした。

「河田さん、順調に進展してるみたいじゃないですか」

「妬けるなあ」

「大きなお世話だ」

 院生の悪い冗談に、ちょっとむっとしながら、河田はそれでも大人として振る舞おうとした。

 瑠奈に向き直って、問いただす。

「こんな時間に……学校はどうした?」

「最近、行ってない」

「ダメじゃないか」

 瑠奈の表情に翳りが浮かぶ。

「……目を付けられてんだよね、ワルのグループに。最近のあんたはおかしいって。ちょっと前まで一緒に遊んでいたのにさ」

 いつもより顔の化粧が濃いが、その下に痣のようなものが見え隠れする。

「先生もなんだか、胡散臭い眼で見てる。授業中あからさまに、あたしを飛ばして指名してるし」

「居心地悪いんだ」

「うん……」

 河田はしばし考えた。そしていった。

「大学でいっしょに研究しないか。君の能力なら大学に飛び級入学できると思うんだ。来年度の願書の受付は、もうすぐ始まるはずだ」

 瑠奈はちょっと面食らったが、すぐに指でOKマークを作り、言った。

「ママを説得しなくちゃ。いっしょにうちに来てくれる?」


 夕方、ふたりは瑠奈の家に向かった。

 池上線で蒲田に出て、JRに乗り換え、多摩川を渡った。

 彼女の家は、JRの川崎駅から、京急線を渡って10分くらい歩いたところにあるマンションだった。

「お客さん、寄ってきませんか」

 歩いていると、客引きが声をかけてくる。

 あまり柄のよくない繁華街を突っ切って、マンションへ向かう。「通勤」に便利だから選んだようだ。

「ただいま……まだ帰ってきてないね」

 ドアを開けると、趣味の悪いピンク色の壁紙が目に入る。三和土には靴箱に入りきらないハイヒールが並んでいる。

 毛皮のコートが剥き出しのままハンガーに掛けてある。まだ冬には間があるのに。ひょっとしたら、寒い時期からそのままなのか。

 カラーボックスに飾ってあるのは、博多人形にテディベアのぬいぐるみ。なんだかちぐはぐだ。

 案の定、というべきか、棚には本は一冊もない。雑誌が数冊部屋の片隅に散らばっていた。女性週刊誌とギャル向けファッション雑誌、それに女性向け夜の求人情報誌。無論、新聞も取ってはいないだろう。

 それでも一応ある勉強机の上には、教科書が無造作に置いてある。机上に伏せてある黒い表紙の本が目に入った。

「……聖書?」

「うん、学校、そっち系なんで」

「そういや、前に聞いたっけな」

 手に取ってみる。

「読んでるのか」

「……ちょっと目を通しただけ」

 言いたくなさそうだ。瑠奈は話をそらそうと、台所へ行った。

「なんか飲む?」

 瑠奈が開けた冷蔵庫をチラリと見ると、ビールと清涼飲料水しか入っていない。台所の流しもコンロも、油汚れや焦げはないようだった。

 これだけで、どういう家庭であるかは、おおよその見当がついてしまう。

「ただいま」

 そのとき、玄関から声がして、ドアの向こうから女性が現れた。

 脱色した縦ロール髪を肩まで伸ばし、ばっちり化粧している。

 歳は見た目、自分と同じくらいだ。そういえば、瑠奈は「あたしくらいの歳で産んだ」と言っていた。見かけは20代といっても充分通じそうだ……ずいぶん見た目の維持にカネをかけているのだろうが。

「なに、この男? おまえのコレ?」

 小指を立てる。

「ちげーよ!」

 瑠奈は吐き捨てる。

「……はじめまして。現在瑠奈さんが通っている、高岡山大学の研究所に勤めています、河田と言います」

「はじめまして。あたしが瑠奈の母の杏奈です」

 河田に合わせて、杏奈も頭を下げた。

「高岡山? 柄じゃないよ。あたしは千束にいたこともあるのよ」

 そういってハンドバッグからピンク色の名刺を取り出す。

「堀之内 桃色御殿 あけみ」

 河田の笑顔がこわばった。

「ここで働いてるの。一度いらしてね、サービスするわよ。親子丼はいかが?」

「そういうのじゃないです」

 河田は気色ばむ。

「今日はお願いがあってここに参りました。お子さん……瑠奈さんを、大学に行かせてあげてください」

「ふん」

 杏奈はにらみつけるような目つきになった。

「高校を卒業したら? 瑠奈はまだ、16じゃない」

「いいえ、来年からです」

「?」

「うちの大学には飛び級制度があります。瑠奈さんの成績は充分に合格水準を超えています」

 杏奈は煙草に火を点けた。顎を上げてふっと一気に煙を吐き出した。吐き出した煙が河田の方に漂ってくる。メンソールだ。

「あたしはそんなお金、出す気ないよ」

「奨学金があります」

「はあ?」

 あからさまに不審げな声を出した。

「奨学金って、借金でしょ。借金なんかさせないよ」

「いえ、返済義務のない給付型の奨学金というのもありまして……」

「なに、それ!」

 河田にしてみれば、経済状況を言い訳にする「切り札」のつもりだった。しかしそれを聞いた杏奈は、いよいよ不機嫌になった。

「うちの瑠奈を乞食になんかさせない! 誰だって恵んでもらう必要なんかないんだよ!」

「瑠奈さんの意思ですので。それに、入学や奨学金の手続きをするには親権者の許可が要ります」

「許可……誰がそんなもの、出すか。寝言は寝て言いな!」

 たばこのパッケージを投げつける。

「そんなにお金が欲しけりゃ、自分の顔でも股ぐらでも使って稼げばいいんだ。稼いでから大学でもどこでも行けばいい。出ていけ!」

 これは難物だ。ちょっとやそっとでは考えを変えそうにない。河田は腰を上げた。

「失礼します」

「あっ、待ってよ!」

 帰り道。瑠奈が追いかけてきた。

「気を悪くしないで……」

「なんて親だ」

 河田は怒り心頭に発したが、いくぶん奇妙にも思った。

「放任主義」だというし、じっさい瑠奈が何をしていようが興味がなかったようなのに、この反応はなんなんだ?

「親戚とか、頼れる大人の方って、いないかな?」

「……いない」

 瑠奈は即座に返答した。

 河田は腕を組んだ。

「うーん……」

 そのとき、河田は一般教養科目の法学で知った、ひとつの言葉を思い出した。

「成年擬制って、知ってる?」

「知らない」

「未成年を成人として扱うことが出来る民法の規定だ。親権者の許可を得なくても契約――学校の入学も奨学金も契約だ。それが可能になる」

「どうすればいいの?」

 河田は、瑠奈の眼をまっすぐ見つめた。

「結婚するんだ」

「……!」

「結婚すれば君の意思だけで大学に行ける。女性は16歳から結婚できるのは知ってるね。18歳に改定する法案が国会で成立したが、施行前の今なら大丈夫だ」

 ここまで話して、河田は破顔一笑した。我ながらさすがに大胆すぎると思ったのだ。

「……まあ、究極的には、そういう手もあるってことだよ」

「いいよ。その話、乗った」

 そう言うと瑠奈は軽く背伸びして、河田と唇を重ねた。

「ふつつか者ですけど、よろしく」

「こちらこそ」

 河田はゆっくり瑠奈の背中に腕を回して、抱きしめた。

 中天には、大きな満月が輝いていた。

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