第5話 白の世界
真夜中、私は不意の尿意で目を覚ます。エアコンを切られた車内はよく冷えていて思わず身震いした。スマホの画面を見ると、時刻は午前2時になろうとしていた。ちょっと怖いけど、その辺で用を足そうと浅山さんの懐中電灯を借りて車外に出る。
ふと上を見上げると、たくさんの星達が夜空に浮かんでいる。周りに灯りが一切無いせいだろう。いつもの10倍増しぐらいには鮮やかだ。見とれて思わず息を吐くと、白い塊が空に登って消えていく。吐息ってなんだか魂みたいだな、とちょっと思った。魂見たこと無いけど。
懐中電灯で辺りを照らすと、右車線の向こう側の舗装されていない地面にちゃんと踏み込めそうな場所を見つけ、私はガードレールを越えた。
すっきりし、車に戻ろうと立ち上がったその時、山に入って一度も使えなかったスマホが急に鳴り響いて私は一人で声を上げた。画面を見ると井川さんの番号……この時間と言うことはつまり、サキだ。ずっと探し求めている相手だけれど、向こうから急に来られるとさすがにビビってしまう。いやいや、これはチャンスだ。サキが私に発見のヒントをくれるかもしれない。私は意を決して、通話ボタンを押した。
「…………もしもし?」
鼓動がうるさいくらいに高鳴っている。
「やっぱり……来てくれたのね………」
この前の電話とは違い、サキの声はクリアに聞こえる。
「サキだよね?今どこにいるの?何をしているの?」
安心した私は、矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「右………」
言われたとおり右を見ると、遠くで何かがぼんやりと光っているのが見えた。
「嬉しいわ…………あなたが来てくれるの………私はずっと………待っていた」
「あの光は何?そこにサキはいるの?」
「フフフ…フフフフフ……さあ、早く………こっちへいらっしゃい………」
会話になっているようないないような……なんだかもやもやするやりとりで一方的に通話は終了した。どっちにしろ、あの光の先に何かがあるのは間違いない。確かめなければ。はやる気持ちを抑えて、私はまず浅山さんを起こすことにした。前みたいに気がついたら崖だったなんてことが無いように、慎重に行く。
後部座席用のスライドドアを開けて、寝ている浅山さんを揺り起こす。
「ん………?どうしたんだい?」
「さっき、サキから電話がかかってきました。あの光を見ろと言っていました」
私は光の差す方を指さす。
「へぇ……本当だ」
浅山さんは目を擦りながらつぶやいた。
「私、行って確かめてみたいです。一緒に来てくれませんか?」
「え?今から?」
「もちろんです」
さも当然、と言う風に私が答えると、浅山さんは腕を組んでなにやら考え始めた。数秒間が開いて、浅山さんはようやく口を開く。
「明日の朝にしよう」
冷静な口調で言われた。
「でも…確かめたいんです。なんとなく、あの光が出ているうちに………」
私は必死に反論した。でも全てつたなくて、子供のわがままでしか無かった。
「夜の野山は特に危険だ。お互い命の保証は出来ない」
「だって……だってサキが…」
サキに関する手がかりがすぐそこにありそうなのだ。簡単に引き下がる訳にはいかない。
「言うことを聞きなさい!」
強めの口調で怒られてしまった。私はむくれて、そっぽを向いた。怒られたことの恐怖のせいなのか、望みが叶わない苦しさのせいなのか分からないけど、目に涙が溜まっているのが自分でもはっきりと分かる。
「…ごめんよ。でも万が一君に何かあったら、親御さんに顔向け出来ないからね。大丈夫。光の方角さえ覚えておけば、明日の朝からでもゆっくり確かめられるさ」
私の肩を優しく叩きながら、先ほどとは真逆の包み込むような柔らかい口調で浅山さんは説得してくる。そっぽを向いたまま小さく頷いた。
「だから、今日の所はもう寝よう」
荷台まで誘導され、毛布を掛けられた。
寝る体制に入って1時間くらいたった頃だろうか。興奮した気持ちが静まり、ようやくまどろんできたところで、今度は強烈な悪寒がして目が覚めた。……体が動かせない。目だけが左右にかろうじて動くだけだ。
浅山さんの方を向くことは出来ないが、いびきをかいている音が聞こえるのでそのまま寝ているのだろう。口も開かないので声も出せない。私は少しでも状況を把握しようと必死に目玉を動かす。 一瞬、まぶしい光が外を包み込むと今度は強烈な風がガラスを叩く。しばらくして一筋の光が私の所まで伸びてきた。サキが電話で言ってきた光の方向からだ。光は最初、裁縫針ぐらいの太さだったけど、ゆっくりと左右に広がって一人分の幅になり、その光の道を『何か』が移動してこちらに近づいてくる……妙だ。寝ている体制で外の様子は何も見えないはずなのに『得体の知れない何か』は確実にこちらへ向かってきているという感覚があった。
全身に鳥肌が立ち、相当冷え込んでいるにもかかわらず汗が止まらない。本能が『ヤバい』と警告している。そういえば、さっきから視線も感じる。1つや2つじゃない。数え切れないほどのたくさんの視線をあちこちから感じる。私は今何に見つめられているんだ?
『何か』との距離感がいよいよ車の前まで迫ってきた。ガラスの向こうに真っ黒い影がゆらゆらと揺れているのが見える。影は中に入ろうとしているのか、窓ガラスを手のひらでべたべたと触っている。顔を背けることも目を閉じることも出来ない私は目の前の状況から逃げ出したくてひたすら頭で「どっかいけ!」と念じていた。
最初べたべたと触るだけだった影が、今度は力強くガラスを叩き始めた。鈍い音が車内に響く。これだけ騒がしいのに、浅山さんは一向に起きる気配が無い。あるいは浅山さんの身にも何か起こっているんだろうか。
恐怖を感じながらも影の行動を見つめていると、夜の闇に紛れる黒い影に浮かぶギラギラとした鋭い目が私を睨んでいることに気づいた。目が合ったと思った瞬間、影が車の中に入ってきて寝ている私の上に馬乗り状態になった。重さは感じない。先ほどよりも近い距離で見つめ合う影と私。瞳の奥をじっと見つめると、お母さんにこっぴどく叱られたり、大切にしていたアクセサリーが盗まれたり壊れたりした時のような嫌な気分を何倍も増幅させたような感情が複雑に絡み合って同時に私の中に入り込んできた。次の瞬間、頭の奥で爆竹が弾けたような衝撃が走り、目の前が真っ白になっていく………。
………………………。
…………ここはどこだろう……………?
気がついたら、私は何も無い白い空間に倒れていた。周りを見渡しながら起き上がると、頭の奥がズキズキと痛む。本当に何も無い。床も天井も真っ白なせいか広さすら把握できない。今まで何をしていたのか、その記憶すらあやふやになっている。当てもなく歩いていると、遠くの方で人影が揺れているのが見えた。
近づいて見ると、それは長い黒髪を無造作に生やした子供の後ろ姿だった。私に背を向けて、何も無い空間のどこかをボーッと眺めているようだ。
「君、何してるの?」
私は背中越しに声をかけたが、何の反応も無い。少年の顔を見ようと正面に回り込んだ。その目には輝きは一切無く、頬はこけ、目は窪み、鎖骨がくっきりと浮かんでいる。まとっているボロボロの布きれから飛び出す手足は、ゴボウみたいに浅黒くて細い。
「ねえ、ここはどこなの?大丈夫?」
警戒しながらも、少しずつ近づく。微動だにしないので生きているのかどうかも分からない。ついに手が届くところまで来てしまった。私はそのまま肩に手をかけてみた。
「…………か…え…れ…」
子供は消えそうなかすれ声で一言呟いた。私はすかさず聞き返す。
「帰れ?一体どういうこと?君、名前はなんていうの?」
「……『カクマさま』には…さからえない……。だれにもサキは…たすけられない」
私の声は聞こえていないのか、子供は前を向いたままぶつぶつと言葉を続ける。呟くうちに子供の肩が震え始め、だんだん大きくなり全身で痙攣しているような状態になった。ビックリした私は2、3歩後ずさり、様子を見る。
「くやしい…くやしい…ぼくが…もうすこし…しっかりしていれば………」
少年の目から、真っ赤な涙が溢れていた。それを見て私は小さく悲鳴をあげる。
「……うう、だめだ…たもって…いられない………………」
その場にうずくまった少年は、腕を伸ばして私の腰を掴んで必死に私の顔を見ようと頭を持ち上げる。少年の震えが空間全体に行き渡ったように真っ白な空間がぐにゃぐにゃしているのを感じた。
「これいじょうは…きけんだ。はやく……かえれ…」
血の涙で染まった顔で訴えかけられて、私は全身が身震いする。
「…げんかいだ……………くずれる」
そう呟いた瞬間、少年は白目をむいてその小さな身体からは想像も付かないような絶叫を辺りに響かせ、私は思わず耳を塞いだ。同時に、白い空間に黒い空間が入り交じってきて、瞬きを素早くするような感じで視界がチカチカしてくる。白の中に黒が混じる間隔がだんだん短くなってきて、最終的に白を認識できなくなったとき、私の意識はそこから別の世界へ飛ばされた。
目を開けると、暗い灰色の天井がまず飛び込んできた。体にまとった薄い毛布の感触。窓の向こうが明るくなっていて、嫌と言うほど見た山の木々が広がっている。不思議な夢だったけど、とても恐ろしかった…私はホッと胸をなで下ろす。
「大丈夫かい?酷くうなされていたようだけど…」
横を見ると、浅山さんが心配そうな表情でこちらを見ていた。
「浅山さん…おはようございます。すごく変な夢を見ました…」
全身が嫌な汗をかいていて気持ち悪い。昨日も入ってないし、早くお風呂に入りたい。
「どんな夢だったの?」
言いながら浅山さんは水が入ったペットボトルを私に渡してくれた。軽く会釈し水を一口飲むと、夢で見た不気味な子供の話をした。話をしているうち、寝る前にも妙な体験をしていたことを思い出し、浅山さんに尋ねる。
「そういえば、寝る前に金縛りにあったんです。動けないと思っていたら、サキが言ってた方角から光が伸びて、車の中に黒い影が入ってきて…私の上に乗ってきてその後夢を見たんです。浅山さんは昨日の夜何かありましたか?」
「いやあ、特に何も感じなかったよ…それも夢だったんじゃ無い?ほら、夢の中で夢を見るって事もよくあるしさ」
確かに、昨日の出来事はあまりに非現実的だ。開けてもいないドアから何かが侵入してくるなんてあり得ない。まして、あれだけドアをバンバン叩いていたのだ。浅山さんが気がついて起きない訳がない。
「寒いけど、幸い天気は良いみたいだ。早速昨日言っていた場所に行ってみるかい?」
私は夢の中の少年が言っていた「帰れ」という忠告が一瞬頭によぎったが、ここまで来て引き下がれるかという思いもあったので浅山さんに軽く頷いて、パーカーを羽織ってポシェットを肩にかける。浅山さんと一緒に車から出ると、パーカー一枚では風邪を引きそうなくらい寒い。完全に山を舐めていた。身震いしていると、浅山さんがダウンジャケットを貸してくれた。
さて、昨日サキが示していた方角は……?目印になりそうな物が何も無いので、思い出しながらぐるぐるその場を回る。
「なんだこの汚れ?どっかで泥でもはねたかな?」
車のサイドを見ながら浅山さんが呟く。近づいてみると、ガラスには赤茶色の汚れが大小無数に散らばっていた。しばらく眺めて、これが何なのか気がついた私は思わず手で口を覆った。
「これ、手形だ……………」
夜の出来事はやっぱり現実だったのだ。さすがの浅山さんも顔を引きつらせて、
「マジか…」と言うしか無かった。
車の位置と昨夜電話を受けた位置から、サキの示していた方角を思い出し浅山さんと共に獣道に入っていく。歩いている途中、浅山さんが木に赤い紐を結びつけ始めた。
「何をしているんですか?」私は訪ねる。
「目印だよ。こうやって目に届く範囲で木に紐を結びつけておく事で、迷ったときに回収しながら戻れば車の所まではとりあえず戻れるだろ?」
これで良し。とでも言うように浅山さんは結びつけた木を軽く叩く。浅山さんがいると安心だなぁ…と改めて感心した。
それから1時間程歩いただろうか。木々の間を抜けると、長い間整備されていなさそうな細くて古い道に出た。右方向は曲がりくねっていて先が見えない下り坂が続き、左を向くと遠くの方に建物が見えたので、私たちは左の方へ行ってみることにした。
そこは小さな神社だった。何年前からあるのかわからないが、人々から忘れ去られたように荒れ放題で殆どの建物は土台を残して崩れ去り、石造りの鳥居とこじんまりとした祠、オンボロかやぶき屋根の納屋がかろうじて残されている程度だ。小さな賽銭箱が置かれた祠の方にいってみると、観音開きの扉が半開きになっていて、中に石造りの人型像がいるのが見えた。
今度は納屋の方にいってみる。建物の高さは大体私の身長の2倍くらいだ。ぐるっと周りをまわってみる。木製の壁は腐ってボロボロで、いつ崩れてもおかしくなさそうだ。外周は教室の半分くらいだった。
納屋の正面には引き戸がついていて、私は開けてみようと取っ手に手をかける。軽い音がして、意外にもあっさりと扉は開いた。同時にツンと来る匂いが鼻を刺激する。浅山さんから懐中電灯を借りて、中を照らす。その瞬間、私たちは絶句した。
布きれや木材の破片があちこち散らばり、壁にさび付いた農具が立てかけられている部屋の奥……人間の骸骨が壁により掛かって頭を垂れていた。
「なんだよこれ…っておい!あんまり近づくなよ!」
後ろで叫んでいる浅山さんを置いて、私は骸骨をよく見ようと歩み寄る。理科室で見た標本に比べて、薄茶色さが目立つ。生前は子供だったのだろうか、大きさは私よりも少し小さい。力なく床に垂れ下がっている手の中に、紙が握りしめられていることに気づいた。壊さないように手をそっと広げて、紙を取り出す。それはお札だった。握られて少ししわが寄った固めの紙に、ミミズが貼ったような墨の跡がつらつらと記されている。真ん中に『封』と書かれているのがかろうじてわかるくらいで、他は字が古すぎて読むことが出来ない。
「浅山さん、これ読めますか?」
私は浅山さんに紙を手渡す。
「君って案外度胸あるよね……うーん、さすがに古すぎて解読できないね。真ん中の『封』しかわかんないけど、何かを封印する念を込めたお札っぽいよね」
何を封印したかったのかは全然わかんないけどね。と付け加えながら私に紙を返してきた。ここにきてますます頭が混乱してきた。昔この場所で一体何があったのか?何故サキはこの場所を指し示したのか?肝心のサキはどこにもいないし……何かが分かりそうで、何も分からない。
「なあ、この仏さんの事は後でちゃんと弔ってやることにして、もう車に戻らないか?俺たちだけでなんとか出来るような話じゃなさそうだ」
「……そうですね」
悔しいが仕方が無い。私たちは遺体の前で両手を合わせて、納屋を後にした。
浅山さんが付けた目印を頼りに、車の所まで戻ろうと来た道を辿っている。目印は最初回収するつもりだったが、また納屋の方に行くかもしれないので、一応残していく。
「あの遺体が君の言うサキって子の可能性はあるかな?」
唐突に浅山さんが話しかけてきた。
「それは違うと思いますよ。だってサキは崖から落ちたんですから、建物の中にいたらおかしいじゃないですか」
「崖から落ちたってのは君の仮説だろ?」
確かに言われてみればサキに崖まで連れてこられただけで、落ちたところを見たわけでは無い。崖から落ちたんだと私が勝手に思い込んでいるだけだ。浅山さんは続ける。
「君みたいに山道で迷ったその子は、偶然あの納屋を発見してひとまず雨風を凌ぐ目的で入った。納屋を拠点に山を彷徨ったけど何日経っても帰り道は発見できず、結局納屋の中で飢え死にした……って所かな」
それも一理あるなと思った。現に私たちは昨日さんざん迷い尽くしている。サキくらいの女の子が1人で迷ったならなおさら無事でいられないだろう。浅山さんの考えに納得しかけたが、気になる事がいくつかあった。
「それ、すごくありそうですけど…じゃあなんでサキは1人で何をしにこんな山奥に来てしまったんでしょうか?それに遺体が手に持っていたあのお札は…サキが書いた物?それにしてはさすがに古すぎやしません?」
浅山さんは腕を組んで唸った。
「…確かに分からないことがまだまだあるな。どっちにしても、これはもう警察の仕事だな。俺たちは早いとこ下山して、身の安全を確保しよう」
そうしないと俺たちが骸骨になっちまう。と冗談交じりに付け加えた。
車へ戻る獣道の途中、私たちはいくつもの『視線』を感じていた。最初はなんとなく誰かに見られている気がする程度だったのだが、今は明らかに複数の視線をあちこちから感じる。しかもそれがだんだんと近づいていて、私たちを取り囲もうとしているように思える。浅山さんもそれは感じ取っているようで、真剣な表情で額に汗を滲ませている。
「………このままのペースで行くとヤバいかもな…。」
浅山さんはそう呟いた後、私に話しかける。
「篠原さん、俺が合図したらこの獣道を一気に走り抜けよう。本当は整備されてない道はしっかりと踏みしめて歩いたほうが安全なんだが、そうも言ってられなさそうだ…なに、目印を辿っていけば車の所までは絶対にたどり付けるから、今は妙な視線から脱出する事に集中しよう。いいかい?」
私は前を見たまま頷いた。
「よし………いくぞ!」
浅山さんの小さなかけ声と共に私たちは一目散に走り始める。嫌な感じの視線達が次々と後方に、遠くに離れていくのを感じる。しばらくすると目の前にワゴン車が見えてきた。私はホッと胸をなで下ろす…その油断が命取りだった。右足を踏み込んだ時に地面が突然ぬかるんで崩れ、バランスを崩した私はそのまま急な斜面を滑り落ちていく…。
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