青春ブタ野郎は青春ブタ野郎の夢を見る

秋山洋一

第1話 幸せの歪み

 二月の上旬のこの日、学校を出た咲太と麻衣が七里ヶ浜しちりがはま駅から出発した電車に揺られて藤沢ふじさわ駅に着いたのは、すでに日がしずんだ後だった。


見上げればすみりたくったように黒く冷たく乾いた空が広がっていた。

 

 近くのスーパーで買い出しをし、エレベーターで五階に上がり、家の鍵でドアを開けた。どうやら花楓がリビングにいるらしく、物音が聞こえた。玄関で靴を脱いで、リビングに入り、


「ただいま」


「花楓ちゃん、こんばんわ」


 咲太の家の中に麻衣の声が響くことは花楓にとっても当たり前のことになっていた。


 ソファーから立ち上がって、こちらに向かってきた花楓は


「おかえり。麻衣さんもおかえりなさい」


 そのまま花楓の視線は咲太の手元にかかげられていたスーパーの袋へと流れた。冷蔵庫の中にまだ十分な食料があるのに買い出しをしてきたことに合点がいかないのだろう。その瞳は不思議な色を浮かべていた。それを感じた咲太は、


「今日は麻衣さんがオムライスを作ってくれるんだよ。花楓へのご褒美ほうびに。ついでにデザートも買ってきた」


 ちょっとしたサプライズのように、胸を張ると、


「咲太もオムライス手伝うのよ」


「もちろん。麻衣さんのエプロン姿をしっかりと監視します」


「そんなことはいいから、早く準備するわよ」


 麻衣は咲太に冷たい視線を向けた後、花楓に向きなおり、ちょっと待っててね、と言い咲太の手からスーパーの袋を奪い中身を台所に並べた。花楓はその間に麻衣が使うエプロンを用意しており、咲太も着替えをするために部屋へと向かった。



 

 キッチンでは、家用の服に着替えた咲太とエプロン姿の麻衣がオムライス作りに取り組んでいた。ダイニングテーブルでは花楓が参考書を広げて勉強している。麻衣が、花楓ちゃんへのご褒美なんだからゆっくりしていて、と言うと遠慮しがちに部屋から勉強道具を持ってきたのだ。


「花楓ちゃん、頑張っているわね」


「・・・・・・そうですね」


 少し間を開けた答えだったが、麻衣はその意味を理解しているようだった。


 今の『花楓』は『かえで』の願いをかなえるために努力していた。それは、確かに『かえで』が存在していたことを示すあかしだった。


 『かえで』との思い出が、ふと咲太の脳裏に呼び起こされる。


 麻衣さんの作ったとろとろのオムライス、あいつならなんて言うかな。


 『かえで』がいてくれたことの嬉しさ、『かえで』がいなくなってしまったことの切なさ、『花楓』が帰ってきたことの嬉しさ。そのすべてが胸にある。だから、


「でも、花楓は自分でちゃんと決めますよ」


 わずかな沈黙ちんもくの間に麻衣も同じことを考えていたことを見越みこして、咲太はつぶやいた。


「そうね。花楓ちゃんなら出来るわよね」


 その言葉の音が消えてわずかすると、咲太と麻衣はオムライスの準備へと取り組んだ。


 咲太はまな板の上のたまねぎを細かく切ろうと包丁を手に取――



 電話が鳴った。



 こんな夜の時間に学校の先生から電話がかかってくるとも考えられない。誰からか分からない電話の元へと咲太は向かった。花楓も不安と不思議を浮かべた視線を向けていた。麻衣は、具材の下処理したしょりをしながら耳だけを咲太の声に集中させていた。


咲太が電話を取る。


「もしもし、梓川ですが」


そう答えた咲太の声に僅かに遅れて、電話の向こうで"声"がした。



「もしもし、"僕"かい?」



 そういえば、電話番号が表示されていなかった。



 咲太は、そのことにやっと気が付いた。

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