Euphoria
かの
This world - 1
ユキが目を覚ますと知らない天井が目に入った。
脆く罅割れていて、今にも崩れ落ちそうだ。天井の亀裂から差し込む斜光が顔に当たり眩しい。
直射日光から逃れようと顔を逸らそうとする。
しかしすぐ身体の自由がきかない事に気が付いた。
床に寝かされ、両腕は背中に回され手首を縛られている。外そうと試みたが、金属が擦れる音が粗く響くだけで拘束具は外れそうにない。
手首に触れる感触と金属音から手錠の類だろうと想像して、ユキはげんなりとした。
拘束を解く事は一旦諦めて、現状を把握しようと可能な限り頭を動かして辺りを見渡す。
くすみが広がるコンクリートの壁はあちらこちら罅割れている。壁に設置された大きな窓は枠が錆びつき歪んでいて、窓ガラスはほとんどが砕け落ちてしまっている。床に寝かされたユキからでは窓の外に空しか見えない。
床には瓦礫や木片、ガラス片などが散らばっていて、所々禿げたタイルの隙間からは雑草が無造作に生えていた。
見覚えのない場所だ。
まるで廃墟のようだとユキは思った。
「おはよう、天使様」
背後から、ユキの耳に男性の声が届いた。
ユキは床を寝転がるようにして身体の向きを変える。
見ると、そこには朽ちた椅子や瓦礫に腰かけている人間が複数人いた。
その内の一人が立ち上がり、ユキに近付き傍らに膝をつく。
フードを目深に被っていて顔は分からない。
「気分はいかがかな」
「最悪」
ユキが端的に答えると男の口の端が吊り上りくすりと笑った。
「手荒な真似をしてごめんね」
「そう思うなら解放してくれない?」
「残念ながらそれは出来ないんだよね。やっと巡ってきた機会なんだから」
言いながら男が懐から小柄なナイフを取り出し、刃の平面部をユキの頬に宛がった。
僅かに目を細めるだけに留まったユキの反応に男が首を傾げる。
「随分冷めた反応だね。普通子供なら、こんな状況下でナイフが迫ってきたら泣き喚くもんじゃない?」
「期待に沿えられずごめんね」
「ううん、喧しくないのは良い事だ」
ナイフの平でユキの頬を軽く叩く。
「天使様はこんな状況には慣れてしまっているのかな?」
ユキが乾いた笑みを浮かべる。
肯定だと察した男が笑い声をあげた。
「お前も迷信を信じてるクチなのか?」
「迷信、ねえ。火のないところに煙はたたないと言うでしょ?」
「俺なんかを食べて不老不死になれるなんて、本気で信じてるのか?」
“天使様の肉を食べると不老不死になれる”
誰が言い出したのか誰も知らない。
実際不老不死になった人間の記録が存在している訳ではない。
しかし、そんな不確かな古い言い伝えがこの街には根深く浸透していた。
ユキは現在、街の人々から天使様の顕現だと崇められている唯一の存在だった。
不老不死になれるという言い伝えは、天使様の存在を誇張させ彩るための装飾だと思われている中で、言い伝えを信じている人間も中にはいた。
だから、ユキはこれまでに不老不死の言い伝えを盲目的に信じ込んでいる輩に誘拐され、命の危機に瀕する経験を何度もしていたのだった。
「んー、君を誘拐するのに協力してくれた後ろの強面おにーさん達の中には心から信じてる人もいるよ。僕は半信半疑ってとこだけどね。子供の肉なんて贅沢品を頂いて、その上不老不死にまでなれたらとってもラッキーじゃない」
「なんて俺の命の扱いが軽いんだ」
「嘆いたところで無駄だよ。この世界は弱肉強食だからね」
男の唇がにい、と弧を描く。
「さて、お喋りはここまで。君を切り分ける前に、息の根を止めといてあげなくっちゃね」
鼻歌混じりで男は空いていた左手でユキの頭部を掴んだ。身動きが取れないよう床へ押さえつける。
ナイフの切っ先をユキの喉元へ向けると、ユキの身体が僅かに強張った。
「それじゃあ、おやすみ。天使様」
自分に向けられたナイフが振り上げられるのを目にしたユキが瞼を強く瞑る。
次の瞬間、男の背後で重低音が轟いた。
銃声。
男が音の正体を認識するよりも早く、握るナイフが手中から弾け飛ぶ方が早かった。
ナイフがコンクリートの上を滑る。
痺れる右手を抑えながら男が振り返ると、背後にあるガラスに穿たれたような穴が開いていた。
「窓から離れろ!」
狙撃されたのだと理解した瞬間、男は素早くユキを小脇に抱え上げ壁を背に出来る所へと移動する。
何が起こったのか理解出来ず窓を背にして呆けていた一人が肩を撃ち抜かれた。背後から撃たれた衝撃で膝をつく。
出血する肩を抑え呻き声をあげる仲間の姿を目にしてようやくその場にいる全員が事態を理解した。次の瞬間、部屋にある唯一の扉が勢いよく吹き飛ばされ室内を転がった。
室内にいる全員の視線が扉を失った出入り口に注がれる。
扉を蹴り飛ばしたのであろう、片足を前方に付き出した男が一人、室内にハンドガンを向け立っている。
ユキを抱えた男は身構えながら、その出で立ちを見て舌打ちをする。
「ブライアン…、なるほど。自警団に嗅ぎつけられたって訳ね」
ブライアンがにい、と笑う。
自警団とは街の治安、民間の安全を確保するためにと自発的に集った人員で結成された組織。
ブライアンはその団体組織のリーダーを勤めていた。
子供の誘拐。それが誰であれ、自警団が動くには十分だった。
「GO!」
その声を合図にもう一人が室内へ駆け込む。
もう一人の侵入を拒もうと、前に出ようと動いた男達に向かいブライアンが発砲する。
続いて他の自警団員も室内になだれ込み、場を制圧していく。
「ユキ、無事か!」
「大和!」
ユキが顔をあげる。その表情から不安の色は消え明るいものへと変わっていた。
大和と呼ばれた青年はユキを抱える男を捉え一直線に向かう。
ユキに近付けさせまいと銃を手にした数人の男が立ちはだかる。大和が抜き身の日本刀で応戦する。肩口、手首、脇、脛と、致命傷を与えないよう細心の注意を払いながら、なるべく戦意だけを削ぐように切り裂く。
この場で人を殺してしまえば最悪の事態を招く。人殺しに限らず、この街で犯罪を犯す事は自殺行為に等しい。
大和とユキを抱えた男との距離が詰まる。ユキを抱える左腕を狙い大和が刀を振るうが、男はその場で拾った瓦礫で刀の直撃を防いだ。
弾かれた刀を握り直して大和が再び踏み込むと、男は応戦するためにユキを宙高く放り投げた。
「おわあ?!」
「ユキ!」
「馬鹿野郎相手から目ェ逸らすな!!」
咄嗟にユキを視線で追ってしまった大和にブライアンが怒鳴る。
大和が視線を目の前に戻すと男が大和の頭部を狙い瓦礫を振り下ろしていた。
一歩後方へと下がり直撃を避けたものの僅かに側頭部に喰らってしまう。鈍痛が大和を襲う。頭部から輪郭を伝い血が流れる。
男が大和を見下すようにくすりと笑う。落下してきたユキをキャッチして、くるりと大和に背を向け窓に向かって走り出した。
「逃げる気だ、止めろ!」
ブライアンが声を上げると同時に自警団員達が男の足元を狙い狙撃する。足を掠める弾もあったが男を失速させる決定打にはならない。
男が窓ガラスに向かって駆け、跳躍する。
自警団との交戦で銃弾が当たり罅割れたガラスに向かって体当たりをすれば、窓ガラスは容易く粉々に砕け散った。
元々ユキを誘拐するという目的でその日その場で集まった連中にかける情けなど持ち合わせていない男は、自分が逃げ切れさえすればそれで良かった。だから振り返る事もしない。
予め廃墟周りの地理を見回っていた男の記憶通り、着地点には隣の廃れた建築物の屋上があった。
屋上まで距離があったが届かない距離ではない。冷静に、屋上の端に着地する。
しかし着地したその瞬間、男の足の甲を弾丸が貫いた。
たまらずユキを落とし片膝をつく。
「…ッ、そういえば、外から僕達を狙ってる輩もいたっけ」
男が着地した建物に隣接している建造物の屋上から、ライフルを携えた青年が一人ふわりと降り立った。
「その人を返してください」
柔和な表情と声色で手を差し出す。
「天使様を食べられる機会なんてそう巡って来るもんじゃないんだよね。もし、嫌だと言ったら?」
「ユキさんの前で手荒な真似をしたくはないのですが」
答えながら、ライフルの照準を男に合わせる。
男は肩を竦めた後ゆっくりと立ち上がりながら、傍らに転がったユキの腕を掴んで助け起こす。
そしてそのまま自分の方へと引き寄せた。
男が腕を伸ばすように勢いよく振るうと袖口の下に仕掛けてあったスリーブガンが掌に射出される。ユキの頭に銃口を向け、これ見よがしに青年を見る。
「僕はどうしても天使様を食べたいって訳ではないのよね。それよりもここでお縄に着く方が大問題。法的機関なんかに付き出されちゃったりしたら今度は僕の命が危うくなっちゃう」
銃口をユキに押し付ける。
「見逃してくれる?」
「私を脅しているんですか?」
「うん、そう。僕は街の人が天使様と崇めていようがこの子の生死についてはどうでもいいんだよ」
「今尚ユキさんを危険に晒す貴方を野放しにするつもりはありません。貴方こそその銃をおろしてください」
青年は引かない。
「きっと君にとってこの子はとっても大切なんだろうね、分かるよ」
男は溜息をつきながらユキの首根っこを掴み後ろへと引っ張り、後押しするように人差し指で胸をとんと押した。
屋上の端に立っていた男の背後に柵はなく、コンクリートの床は途切れている。その先へ足を踏み出せば、3階相当の高さから地面へ落下する事は免れない。
「のわ!」
「ユキさん!」
青年が血相を変え、ライフルを捨てユキの元へと走る。
もう自分の姿が目に入っていない青年の反応に満足そうに口元を歪めた後、男は踏み止まろうとするユキに向かって全弾を撃ち付けた。
衝撃でユキの身体は屋上から糸が切れた人形のように落下する。
青年はユキを追って手を伸ばし、迷わず屋上から身を投げた。
男は地面への衝突音に耳を澄ませてから、悠々とその場を立ち去った。
青年の手はユキに届いていた。
落下する直前ユキを包むようにして抱え込んだおかげでユキは落下の衝撃を受けずに済んだが、男が放った弾はユキの身体に着弾し胸元から夥しい血が流れていた。
青年がユキの名前を叫び続けるが瞼は固く閉じて開かない。
「白夜…」
名前を呼ばれ、青年が顔をあげる。
ユキの名前を叫び続ける白夜の悲鳴のような声を聞きつけて、大和がその場に駆け付けていた。後ろから他の自警団員も続く。
白夜が抱えるユキを見て、大和が表情を歪める。
自分の怪我を顧みず、服が血で汚れるのも構わず白夜がユキを強く抱き締める。その両目からは涙が零れ落ちている。
「ユキさんごめんなさい、ごめんなさい…っ」
「お前が謝る事は何もないだろ」
「いいえ、私が側にいながら護れなかった。怖い思いをさせてしまった、痛い思いをさせてしまった…!」
今は何を言っても無駄だろうと大和は口を噤む。
路地に嗚咽が響く。
暫くして、
「く、くるしい……」
と、ユキが弱々しく声をあげた。
「ユキさん…!」
「離して…」
「ユキさん!!」
「うぐう」
再び目を開けたユキを白夜は嬉しそうに、更に強い力で抱き締める。ユキがくぐもった呻き声をあげた。
「ユキ、傷はもう大丈夫なのか」
「傷?そういえば撃たれたんだっけ。ん、もう平気」
ユキの傷跡はもう完全に塞がっていた。
その場にいる全員がユキの無傷を喜んだ。
ユキの傷が癒える事に、今更誰も驚きはしない。
このせかいで、ユキは人々から天使様と呼ばれ崇められる存在だった。
いくら損壊しても再生する肉体。
年を重ねても変わらない容姿。
それはまるで死の概念から開放されたかのような存在だった。
「ねえ、ところでさっきから俺を強く熱く抱擁してるお兄さんは誰なの。自警団の人?いたっけ?新入り?」
ユキが白夜を見つめながら尋ねる。
「いえ、自警団には所属していません。貴方が誘拐されたと聞いて、今回自警団に同行させてもらったのです」
「ふーん」
ユキを知らない人間はこの街にはいない。ユキが知らない人間であっても、親しげに話し掛けられる事はユキにとって日常茶飯事だった。
だからいつものように挨拶を交わす。
「助けてくれてありがと。お前は俺の事知ってるみたいだけど俺は知らないから、まずは名前教えてよ」
「白夜です」
「そっか。白夜。はじめまして、よろしく」
「はい、はい。よろしくお願いします」
白夜は涙を拭い、笑顔で応える。
「はじめまして、ユキさん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます