ELENA

@nekonohige_37

第1話

 通常、人が何かを得るには別の何かを失う必要がある。

 掌いっぱいに物を抱えている時には何も掴む事が出来ない、しかしその手の中の物を捨てる事が出来るなら、新しい何かを手に入れる事が出来る。

 では予め何も持っていない人間なら、何も失う事無く何かを手に入れる事が可能ではないか?

 そう考える人間も数多く居るだろうが、その考えは間違いである。

 虚空に掌を伸ばしてみると、一見そこには何も無いように見えるが実際は違う、何も無いように見えるが、そこには目には見えない物が乗っている。

 それは空気であり空間である、質量こそ限りなく0に等しい存在だが、その存在はそこに確かに存在している。

 つまり、素手で何かを掴むと事象は、『新たに手に入れる権利』を捨て、何かを手に入れる行為なのだ。

 何かを得る事と失う事は抱き合わせの存在であり、物事は±0の事象を保つ事。

 そこに1を足す事など不可能なのだ、しかし、ただ一つの分野を追求することによってその常識を覆す事も可能になる。

 それは科学であり、人類の英知である。

 物事を理解し、そして効率化を重ねる事で±0に1を重ねていく分野。

 効率化を重ねる事で人々はさらなる高台に登り、そして更に英知を繁栄させていく。

 それでも止まない好奇心と自尊心を糧に、人々は世界を更に効率化させる術を身に付けた、それがスカラシステムと呼ばれる存在だった。

 スカラシステムの役目、それは人間の行動を計算する事。

 最も人間が効率よく活動できる環境を探し出し、そしてそれらの人間のサポートを行う。

 誰もが行った事のある、存在意義の模索を代行する事により人類の文明の発達を効率化し、誰もが悲しまず損をする事の無い世界を作り出す世界のOS、それがスカラシステムという存在であり、そんなスカラシステムの活動により世界は発達し、国籍や人種と言う壁すら忘れ、気がつけば誰も損をしない平等な世界が生まれた。

 これは、そんな時代に住まう一人の男、ケイル・リットラードの物語である。






 「起床の時間になりました、おはようございます」

 目を覚ましたのは聞き慣れた声だった。

 何気なく聞く分には澄んだ女性の声、しかし実際は違う事を知っている。

 様々な人間の声をサンプリングして合成し、繋ぎ合わす事で作られた人工の声、その声を聞きながら、ケイルはゆっくりと目を開いて寝返りを打つ。

 「ケイル様の診断プログラムを開始します……診断が終わりました、おめでとうございます、異常は見つかりませんでした」

 「……くぁっ」

 ケイルは大きな欠伸をしてから目を開くと、枕元に置かれていた端末を手に取り、ヘッドセットの様に耳元へ取りつけてから体を起こす。

 「今日のスケジュールの確認は如何なさいますか?」

 「仕事だろ?」

 「肯定です、2時間後に家を出発、その後9時――」

 「判ってるからいいよ」

 ケイルは欠伸を噛み殺しながらベッドから足を下ろすと、上体を伸ばして軽くストレッチをするが、部屋の中には先ほどから聞こえている声の主は居ない。

 しかし、その事を不審がる事も無く、彼は耳元の機械へ意識を傾けた。

 「現在の気温は二十二度、湿度は六十五パーセント、昼間の気温は二十七度まで上昇する予報が出ています。施設の外へ出歩く予定があるのなら、脱ぎ着のしやすい服を着ていく事を提案します」

 「それじゃそんな感じで」

 「本日の気候に最も最適な服装の組み合わせが完了しました」

 耳元の機械から響く声がただの録音では無い事を証明するかのように、部屋を覆っていた壁の一部に切れ込みが入り扉の様に開くと、その中からハンガーに掛けられたままの普段着が姿を現す。

 「悪く無いね」

 「お褒め頂き恐縮です、ですが、これは私の使命を全うしたまでの事です」

 ケイルは小さく鼻を鳴らすと今まで身にまとっていた服を脱ぎ棄て、ハンガーに掛かっていた服を身に纏い、一つ飛ばしの言葉で感謝の意味を現す。

 その声に対して、機械から響く声は驕る様子も無く謙虚な反応を示す。

 いつも通りのやり取り、それは規格化された広い室内に響き渡った。

 「謙虚だな相変わらず」

 「私の存在意義は全人類の手助けですので当然の事です。

 それでは朝食の準備が出来ました、キッチンの方へ足を進めてください」

 「あいよ、スカラさん」

 「私に敬語を使う必要はありません、私は全人類を支援する為に設計された――」

 「ダイアログ終了だ」

 長々と決まり文句を呟こうとする相手にケイルは呆れた様子で返事をすると、寝室の扉を開きその奥にある別の部屋へと足を進めるのだった。






 職場へ向かう道すがら、ケイルは車の中で軽く右手を振ってからそれを呼び出す。

 ぱっと見は目の前を飛ぶ虫を払う様な仕草、だが、その動きから何かを読み取ったのか、彼が耳元に付けていた端末が軽く音を立てて反応すると、ケイルの目の前に平面の世界を描写する。

 簡易的なホログラム技術を応用して作られたそのモニターには、ケイルが今現在作っている物の図面が描き出されていた。

 「どうすっかな……」

 虚空に爆ぜた光の帯が互いに絡み合う事で描かれた図面は、一見したら何かの宝飾品の様にも見えるシルエットだった。

 全体的な形としてはドーナッツに似て真ん中がくりぬかれた輪を描いており、その形を良く見てみると、それは一つの物体では無く、立体パズルの様に細かい幾つものパーツが組み合わされる形になっていると良く判る筈だ。

 大きさは掌大で展開されていたそれの両端をつまむと、ケイルは風呂敷でも広げる様な仕草で両手をを広げた。

 実際に存在してる訳では無いそれはケイルの動きを読み取り、彼の動作に合わせて展開され、ケイルが良く見たかった個所が大きく表示された。

 「リアクターコイルの関係でこれ以上出力を上げられないのなら――」

 ぶつぶつと専門用語を使い推論を進める彼は、左手を別に振って新たな映像を表示させ、そこに並ぶ文字列を上から順に追う。

 そして、彼は何か思い立った様子でその画面の一端を叩き、表示を数字から細かな操作盤が並んだ物へと切り替えると、その中の一つのツマミを捻って数値を切り替える。

 「この数値まで引き上げれば――やっぱりだ!」

 彼の言葉を証明する様に映像は切り替わり、望んでいた状態までグラフが揺れる。

 だが、安心したのもつかの間、申し訳程度のアラームが鳴り、表示されていた情報の一部が赤字に切り替わり、そのまま沈黙。

 専門の知識が無い人にも、それが望んでいない結果だ後判った。

 それを証明する様に、ケイルは小さくうなだれると、両手で拳を作る動作を示してホログラムを消失させた。

 「ああ……畜生」

 「ケイル様」

 ぶちぶちと誰に言うでもなく愚痴り、車内から窓越しの景色を眺めたケイルに対して何時もの声が響く。

 「なんだ?」

 「只今は移動中です、今は外の景色でも眺めて気分転換はいかがでしょうか?」

 「気分転換ねぇ……」

 ケイルはそう言うと、肩肘をついたままぼそりと呟く。

 自動運転で目的地へと向かう車両の窓から見える景色は、壮観そのものだった。

 人工物であるのにも関わらず、何処か有機的な印象を持った造形のビル群は互いに枝を伸ばし、それぞれの建物と繋がっている。

 うっそうと茂ったジャングルの木々の様に広がる人工の森は、自然の力で作られたそれとは比べ物にならない程の高さを誇り、ちょっと視線を上にあげると、そのてっぺんが雲を超えている物もざらにある。

 文字通り人工の山とも呼べるそのビル群を高速で駆け抜ける車両、今現在ケイルが乗っている赤い金属の塊もまたそのビル群を繋ぐ橋の上、眼下に広がる下層のグレーがかった景色と、上層に広がる青とシルバーの景色に挟まれる様に高速で走り抜けていた。

 この人工の山は、工業目体で製作されたビル群の集まりであり、ユグドラシルという呼ばれる区画だ。

 そんなユグドラシルの一角、一際大きな建築物が日の光を受け、燦然と輝いていた。

 「アウトライン本社ビル、通称『バベル』。

 ご存じの通りこの世界で最も巨大な建築物、それがこのバベルです」

 スカラシステムに感情は存在しない、そんな事など大昔から知っているのだが、その時のスカラの声は何処か、自分自身を存在している風にも聞こえた。

 だが、それもその筈だ。

 スカラは、ケイルの視界いっぱいに広がるこの巨大な建築物と切っても切れない関係にある。

 それは、世界のOSとまで呼ばれるこのコンピュータを制作し、これだけ巨大な建築物を建造した企業こそアウトライン社であり、このバベルの中に今現在スカラの本体が組み込まれているからである。

 「自慢話か?」

 「肯定です、ケイル様」

 ケイルの皮肉に対し、スカラは淡々と答える。

 スカラへのアクセス権を持たない人間は彼女の事を『良く出来たバーチャルアシスタント』と比喩するが、実際の所は、スカラの存在があったからこそ世界はこれだけ成長する事が出来たのは事実だ。

 世界中に張り巡らされたセンサーを頼りに、この世界で生まれる様々なデータを集約、そして整理する事で、交通機関や個人の体調管理を行い、同時に効率化を図るスカラの行動は数え切れない程多くの恩恵を生み。

 その恵みの大半を、スカラを管理する企業、アウトラインが享受したのは言うまでも無い。

 「私を産みだした場所、それはこのアウトライン社であり、このアウトライン社をここまで成長させ、このバベルの建造に貢献したのは、私自身です」

 「随分な自信だな」

 鈍いグレーに輝く大木の様に枝分かれをしたビルを見上げ、ケイルはつまらなそうに鼻を鳴らす。

 自分の自慢話を、ましてや感情など持たないAIの口から聞かされても、何一つ楽しくは無いのだが、だからといえそんな無駄な事をスカラがするとも思えなかったケイルは、表向き上に作った反応とは裏腹に、耳だけはその声の続きを期待していた。

 「アウトライン本社ビル、私の生みの親でもあるこの建築物の標高は3557メートル、今現在我が社のビルは雲よりも高く成長し、文字通り空を貫く程の高さを誇っています」

 「だから何だ?」

 自分が近づいているが故に、更に視界を占めていくその建築物を見つめて紡いだ質問に、スカラは淡々と『これも私の支援の結果です』と告げる。

 この建築物を作り、それでも企業を、そして世界そのものを成長させているのはスカラの他ありえない、そんな判りきった事を散々告げるスカラに対し、いい加減嫌味を覚えたケイルだったが、続いて紡がれた一言に思わず言葉を無くしていた。

 「この世界を成長させる手伝いをしたのは私自信である事は、今となっては誰も疑いなどしない事実でしょう。

 ですが、私はこの世界を作った訳でも、この世界をここまで成長させた訳でもありません。

 何故なら、私はあくまでも支援を行ったまで、言わば私は道具に過ぎないのです。

 では、一体何がこの世界をここまで成長させたか、その答えをご存じでしょうか?」

 驕るでも誇るでも無く紡がれたスカラの長台詞、その合間を縫って紡がれた疑問符に対し、ケイルは沈黙という全休符で答えた。

 「ケイル様、答えは簡単ですよ。

 この世界を作ったのはあなたです、いいえ、あなたを含む全ての人類です」

 回りくどい言葉回しに曖昧な表情で頷きながらも、ケイルは短く返事を飛ばした。

 「ダイアログ終了だ」

 「了解しました」

 何処か照れ隠しの色が含まれるケイルの声が車内に響く。

 会話の強制終了を意味する言葉に対して、そんなスカラの声が響いたのは車両がビルの壁に開いた出入り口に飲み込まれる直前の事だった。






 世界一の企業でありケイルの職場でもある『アウトライン』は主に、新技術の開発を中心に事業を展開しており、その多くはスカラの元で実用化され、世界をより良い物へと変えていく。

 そして、ケイルが今手がけている技術もまた、実用化が成されればこれ以上無い新技術として期待されていた。

 「……さて、仕事やりますか」

 壁全体が白を基調とした塗装が施され、床や壁を這う様にケーブル類が張り巡らされており、蜘蛛の巣状に張られたそれらのケーブルを跨ぐ様、大型の機械や端末が筐体を据えており、それらの中心にドーナツ状の機械が鎮座している。

 部屋の中心に置かれているその奇妙な機械は珍しいが、一見する分には良くある作業場だ。

 だが、その部屋の規模を見て、そこがたった二人の人間が利用していると聞き驚きの声を上げない者は居ないだろう。

 何故なら、部屋は大勢の人間を呼んでの屋外競技をしたとしても、おつりが帰ってくるほどの広さだったからだ。

 其れは単にバベル自体が巨大な建築物である証明でもあるが、それ以上にケイルと、そして彼の同僚である人物がそれだけ企業から期待され、これだけの施設を譲渡されている証明に他ならない。

 「今日はリグラスは?」

 「別件につき合流の予定はありません」

 「そういやそうだったか……」

 ケイルは部屋の中心に設置されたそれに歩み寄りながら、前日の記憶を思い出して溜息を吐く。

 「こいつの完成は何時になることやら……」

 小さく口にして、彼が掌で触れた銀色のドーナツ、それは人が一人通れる程の穴を備えており、曲線を主にしている事、そして筐体の隙間からは太いケーブルが幾つも伸びているため、機械でありながら何処か有機的な印象すらある。

 その機械に付けられた仮称、それは『ポータル』。

 データなどの質量を持たない物なら瞬時に転送が可能になった現在、大きなボトルネックが生まれ始めた。

 それが質量を持つ物を、どうやって素早く送るかという疑問。

 通信インフラをどれだけ進化させようが、決して改善されない物理的な距離を埋めるべくこのポータルは開発を進められており、これが完成し実用化された暁には、人は物理的な距離を無視して生活をする事が可能になる。

 何故なら、この道具は遠く離れた場所と場所を繋ぐ『門』だからだ。

 遠く離れた別々の空間を切り取り、互いに貼り合わせる、そんな夢の様な技術の開発が、ケイルに命じられた仕事だった。

 「まぁ気長に考えるしかないか……」

 「ご安心ください。

 私と、そしてアウトライン社はケイル様の支援を行う準備は既に整っています」

 そんなスカラの声に合わせ、ケイルを中心に幾つものホログラムによる画面が表示され、青白いその中にありとあらゆる情報を映し出していく。

 本来、人はあまりに多くの情報を与えられた際、どの情報を優先して処理するべきかを悩み、結果混乱をする筈だが、見渡す範囲に広げられた緻密な表にグラフ、そして図面を前に驚く様子も無くケイルは鼻を鳴らす。

 そして暫く考えたのち、利手を軽く振ってスカラに指示を出し、追加で一枚平面を虚空へと映し出す。

 「前回の試験のデータを出してくれ」

 「かしこまりました」

 部屋の中心で見上げる様にしてその数値を見たケイルは、首から提げていたペンダントを触りながら口を開く。

 「単に物を飛ばすだけならとりあえずは良いとして、問題は安定性だよな……」

 ペンダントの先端に取り付けられた、ターコイズブルーに輝く飾りを部屋の中心にあるポータルの穴にかざす。

 「スカラ、さっきのデータの中から、KNPI値とANT値に乱れが生じたタイミングの誤差を計ってくれ、その時間差分で――」

 上手くいく可能性は低いが、何かの糸口になるかもと考えた案をスカラに飛ばすと、ケイルは本格的に作業を始めた。

 スカラはあくまでも情報支援を行う端末に過ぎない、だがその反面、彼女がアクセス出来る情報は非常に膨大で、その情報網を駆使することで彼女は一人一人の能力を数値化、そしてそれぞれの適性を見い出して分別、その中で更に能力の長けた者を支援するという義務が与えられている。

 その作業の結果として、ケイルはアウトライン社で働く権利を与えられ、普通の人間よりも遙かに優れた地位に腰を据え、その地位の中で彼は計算上保証された能力を十二分に生かしていた。

 一部の人間はそんな彼の事を『機械の駒』と称したが、実際の所彼自身はそんな中傷を物ともしないどころかそんな事を事ある毎に口ずさみ、スカラからの支援を得られない彼等を見下してもいるが、その事を咎める人はどこにも居ない。

 何故なら、彼の事を中傷した人間自身も自分たちが劣った人間だと自覚しており、内心ではスカラに選ばれる事に憧れを抱いているのも事実だったからだ。

 それだけ社会に溶け込み、ある種の判断基準としても機能すら持ち始めたスカラの存在は、今となっては世界にとって無くてはならない存在になったのが事実だ。

 実体を持たないが為に実行力は無く、あくまでも情報の提示と処理、その上ではじき出された提案を、自分を受け入れる人間にそっと伝える、そんな彼女の存在を、いつしか大勢の人間は神と同等か、それに類する何かとして捉える様にもなっていた。

 勿論、そんな考えが当たり前になった昨今において、わざわざ口を揃えてスカラの事を賞賛する人間など何処にも居ない訳だが……

 「ケイル様」

 「……」

 「ケイル様、本日は作業を中断しては如何でしょうか?」

 「……ん? あー、もう少し……」

 親からゲーム機を取り上げられそうになりながらも、楽しいゲームの世界に意識の半分を飲み込まれた子供の様、ケイルは心ない声で返事をしながら端末を操作し、視界いっぱいを覆う様に展開されたホログラムを操作していく。

 「……んー」

 一見すれば数刻前と大差の無い速度で作業をしている様に見えるが、よく見れば彼は同じ動作をしきりに繰り返していた。

 同じ結果になると判っておりながら、シュミレーターに似たような条件を打ち込み再現、ホログラムに浮き上がるエラー表示を見ては溜息を吐き、再び先ほどとよく似た計算式を提示、再度同じ失敗画面を呼び出す。

 そんな行動を見ていれば、誰もが彼が作業に行き詰まり頭を悩ましている事など容易に知ることが出来ただろう。

 ましてや、そんな彼を静かに観察していたのが人間では無く、スカラであったら尚更の事。

 彼女はケイルの作業の具合から彼が頭を悩まし、大きな壁にぶつかった事に直ぐに気がついた様だ。

 「再度提案します、ケイル様。

 本日の作業を終了してはいかがでしょうか? より良い仕事を行うには気分転換も必要です」

 再度諭す様に紡がれたスカラの声を聞き、ケイルは諦めた様に大きく溜息を吐くと、両腕を肩の高さまで持ち上げて大袈裟に握りしめる動きで命令を飛ばし、所狭しと広げられていたホログラムを消失させる。

 「あんたがそう言うならしょうが無いな……」

 「私の提案をお聞きいただけて幸いです」

 その声が安堵する様に聞こえたのは気のせいだろう、だが、どこかケイルが自身の提案に耳を傾けてくれた事に安堵する様な声を聞き、ケイルは少しだけいぶかしむ表情を作った後、小さく声を投げた。

 「あんたの提案は何時だって上手くいく、だからあんたの提案に従っていれば、絶対に失敗をしないよな」

 自分自身を自嘲する様な、それでいてスカラ自身に対しても効力を発揮しそうなその一言に、スカラはお得意の合成音声で質問を投げる。

 「私に依存しすぎでは?」

 質問者と回答者が何処か逆転したかにも聞こえるそんな語群に、ケイルは鼻を鳴らして答えた。

 「依存?

 いや、それは無いな、少なくとも俺はあんたを道具として扱っている、その事くらいお得意の計算で判るだろ?」

 ごく一瞬の僅かな間、それは彼女なりの逡巡だったのだろう。

 大勢の人間にとっては見えない程僅かな休符の後、スカラはいつもの調子で答えた。

 「計算の結果は定かではありません、ですが、少なくとも私はあなたの道具である自覚があります」

 そんな声は、ケイル以外誰一人として人の居ない広い空間の中で響き、反響すら残さずに霧散していた。






 劣悪な環境下では、大抵の生命は己の命だけに固着するが、満たされた環境下では、大抵の生き物は皆子孫を残すことを優先し、より多くの種と遺伝子を構成に伝える様に尽力をする物だ。

 丹念に手入れをされた樹木は多くの花と果実を宿らせ、食料庫を根城にした害獣は、瞬く間に仲間を増やし巨大なコロニーを形成する。

 其れと同じくして、あまりにも進んだ科学に支えられた結果人類の数は飛躍的に増加した。

 餓え死ぬ事もあり得ず、他の獣に狩られる事も、雨風に震えて凍死する事も、挙げ句の果てには病で命を無くす事も有り得ない話だと笑われる昨今において、人と言う種の数は極端に増え、結果として一つの問題を生み出した。

 それが居住空間の不足である。

 元々空間は有限で有り、足を付いて歩ける空間など地面の面積しか無い。

 だからこそ人間は、築き上げた科学を駆使し、文字通り世界を築き上げる事にした。

 それが今現在ケイルが居る空間『ヴァルハラ』であり、大勢の人間が住まう人工の踏み場の一つである。

 床に荷物を平積みするのでは無く沢山の棚を設置して立体的に荷物を収納する様に、格子状の足場を張り巡らせ、そのブロック毎に目的に応じた建物を建設する。

 遠くから見たら巨大な本棚の様にも見えるそれは、一つ一つの区画だけでも町一つとしての機能を持っており、それらが互いに背中合わせで寄り添う事で、作りかけの積み木の様なフォルムを形成している。

 先のユグドラシルとは対称的に無機質なその建造物ヴァルハラは、有機的な曲線を持つユグドラシルと対立する様に腰を据え、真っ暗になった空に対抗する様、今はぼんやりとした明かりに包まれていた。

 そんなヴァルハラのごく一部、そこにはケイル個人が所有する根城がある。

 必要最低限の物しか置かなかった結果良くも悪くも無機質感と清潔感を維持しているその一室で、ケイルは耳に付けていた端末を外して樹脂製の机に置くと、その直ぐ脇に先ほどまでコーヒーが注がれていたカップを置き、椅子を立つ。

 「ケイル様、提案があります」

 不意にスカラがそんな声を上げたのは、次の瞬間だった。

 だが、大体彼女が何を言うのか見当が付いていたケイルは、小さく溜息を吐くと、スカラとのリンクの為に先ほどまで身につけていた端末に対し小言を呟く。

 「却下だ」

 「ですが――」

 「ここから先にはあんたは入れない」

 追いすがる様に紡がれた言葉を無理矢理遮ったケイルは、目の前にある扉を開きつつそう告げた。

 「ですが、もし仮にケイル様の身に何かあった際、私の管理下から外れた区画であった場合、私は支援を行う事も、速やかに救助を求めることも不可能になってしまいます」

 案の定、彼女が抗議したのは毎度繰り返された内容だった。

 「その話は前にも聞いた。

 だがあんたを連れて四六時中生活をするのは流石に落ち着かないんだ」

 「ではせめて、室内の端末のどれか一つへのアクセスの許諾を申請します」

 通常、スカラは先ほどまでケイルが耳に装着していた端末を介して状況を読み取り、情報支援を行うが、実際の所彼女はネットワークに接続されたどんな端末にも介入する事が可能であり、持ち主の許可さえ降りれば、どんな機械であろうと先の専用端末の代用品として機能させることが可能だ。

 だからこそ、専用端末を部屋の中に持ち込みたがらないケイルに対し、そんな提案を投げたのは当然の事ではあったのだが、その提案すら彼は却下した。

 そして……

 「最悪な場合、緊急事態を口実にあんたは擬体を使えるだろ?

 自由に動ける体があればこの扉だって俺の許可無く開けるし、その中を覗く事だって可能だ。

 勿論、何かしらの理由があって動けなくなった俺を救助することだってな、それじゃ対策として遅いと言うのなら先手を打てば良い、今バイタルチェックをしてみろよ、生まれたてのガキじゃあるまいし、そうそう簡単に体調を崩したりもしねえっつうの」

 前髪を手櫛で解く様にして回した指で後頭部を掻き、若干崩れた言葉回しで反論をしたケイルの元へ、天井に設置されていたスピーカーから『異常無し』を告げる音声が響き、それに合わせる様に肩を竦めてみせた。

 「ですが――」

 「ダイアログ終了だ、お前は先に休んでろ」

 「了承しました」

 対話を強制終了させる語句に渋々頷く様、無感情な合成音声がそう告げケイルの部屋の中に沈黙が広がる。

 高い遮音性と吸音性を兼ね備えた材質に囲まれた部屋は、その瞬間耳鳴りすら覚える程の無音に満たされ、自分の呼吸音すら轟音と呼ぶのにふさわしい程目立つ。

 「……さてと」

 部屋がその状態になったのを確認すると、ケイルは小さく喉を鳴らし、指先でセンサーを操作して扉を開き、その中へと足を踏み入れた。

 先ほどのやり取りから判りきった話ではあるが、スカラは基本的に人間の観察を積極的に行い、なるべく多くの情報を集めようと必死に人の生活に関わろうとする。

 対象が寝ていようが、食事を取っていようが、挙げ句の果てには用を足していようがお構いなしに人の行動を監視したがるが、相手が機械である事、そして彼女の監視下にあったところで、何一つ不便をしないが為に大抵の人間はその事に対して反対はせず、彼女の介入を認めていた。

 勿論ケイルもそれらと同じ理由から家の中でもスカラの介入を許可していた訳だが、ここから先の空間に関して彼はスカラの介入を頑なに拒み、自分一人だけのその空間を守っていた。

 照明が無い為に真っ暗な室内で、彼は素早く手を開く動作をして部屋の照明を点けると、今時珍しい紙媒体のメモや旧型の工具、そして得体の知れないガラクタやゴミに該当されるそれらが散乱した床を危なげなく歩き、その部屋の片隅にあった物に手を触れる。

 「……」

 感慨深く彼が見つめたそれは、ラグビーボール大のインゴットだった。

 半透明で立方体に形成されたそれは、鮮やかな水色とも緑とも取れる色合いで光を受け、今も輝いている。

 ターコイズブルーのそれ見て、勘の良い人ならインゴットがケイルが首から提げたペンダントと同じ素材で出来ている事に気付くだろう。

 正確には、ケイルのペンダントがそのインゴットの一部を使って作られた物である。

 僅かな弾力性と透過性、そして鮮やかな色彩を覗を持つその材質は、数年前にケイルが生み出した物質であり、今は『共振体』という仮称で呼ばれている。

 ケイルが生み出した共振体には、一つ大きな特徴がある。

 それが、Σ波と呼ばれる特殊な電磁波に敏感に反応し、音叉の様に音や熱を発すると言う点だ。

 駆動に動力や燃料を必要とせず、通常の電波よりも遙かに遠くまで飛ぶΣ波にのみ反応すると言う特性を生かし、ケイルはその材質を非接触型のエネルギー転送装置としての利用や、緊急時の通信手段としての利用しようと研究を進めてきた。

 事実、ペンダント大の大きさの其れ一つで、遠く離れた場所からの避難指示を受け取る事が可能である事は証明されたのだが、スカラの支援と堅牢な建築物に支えられた現在の社会においてはその有用性が見いだせず、結果無用の長物としての烙印を押されてしまったのだ。

 ケイルが首から下げたペンダントはその際に作られた試作品の一つであり、彼にとっては強い思い出の品でもある。

 事実上通信回線としての利用法は無くなった共振体ではあるが、今現在は別の利用法を期待され、再び研究が進められ始めた。

 それが……

 ケイルは小さく咳払いをした後、背後を振り返る。

 「今の仕事はこっちだな」

 そこにあったのは、昼間バベルの中で見たポータルと全く同じ外見の其れだった。

 実のところ、それはバベル内にあるポータルの予備パーツを流用して作られた試作品の一つであり、ケイルが個人で保有しているポータルだ。

 遠く離れた場所へも情報を飛ばすことが可能な共振体は、今現在はこの技術の開発に利用されており、熱や音声を飛ばす為のその性質は、今は質量のある物や人を飛ばす為に利用されている。

 その上で、共振体の開発者であるケイルがこのプロジェクトに引き抜かれたのは当然の事とも言えるだろう。

 「さて、それじゃまぁ始めますか……」

 自分一人だけの作業場。

 スカラの支援も無ければ、スペースも、最新の機材も無いその空間で、ケイルは何処か満足げに両腕を伸ばすと作業に取りかかるのだった。






 背中を叩く感触を感じて初めてケイルは自分が先ほどまで寝ていたのだと気がついた。

 作業場の固い床の上で工具箱を抱える様な器用な姿勢で眠っていた為か、床に接していた面と無理な姿勢で曲がっていた関節の痛みに短く呻きながらも、火が付いた様に飛び起きると、自分の背中を叩いていた人型の其れを見つめて溜息を吐く。

 「ケイル様、お体に異常はありませんか?」

 そんな声を発する其れは人とよく似た外見をして居ながら、人間とは全く違う存在だった。

 具体的には腕もあり足もしっかりと二本ある、大きさだってケイルより少しだけ背が高い程度だ。

 だがその人型の存在には顔とおぼしき物はあるが、人間とは遙かに違う物であり、具体的にそれは『ドロイド』や『擬体』と呼ばれるアンドロイドだった。

 全身はオレンジ色で、手足は人間では有り得ないほど細くどこか骨格標本を思わせる、本来目が備わって居る場所には大きな穴が一つ開き、そこに昆虫の眼球を思わせる複眼が並び、その下には個体のロット番号を示す8桁の英数字が並んでいた。

 そんなドロイドはスカラの制御下で動いているのだろう、若い女の声を用いて再度質問を投げ、ケイルは何処か気まずそうに返事を返す。

 「あー、大丈夫、寝てただけだ」

 「念の為に簡易バイタルチェックを開始します、異常は見つかりませんでした」

 どこか安堵する様に腕を下ろしたドロイドは、カメレオンの様に体の色をオレンジの警戒色から青を基調とした基本色へと変化させる。

 「ったく何やってんだか……」

 徐々に思い出し始めた記憶を反芻しながら、ケイルは大きく溜息を吐く。

 「ケイル様、何があったのか教えてください」

 「作業に夢中なって寝坊した」

 しつこく意識にしがみつく睡魔を無理矢理欠伸で噛み殺し、ケイルは昨晩の出来事を思い出す。

 バベルでの作業を終えたケイルは、あれから家に帰り個人で保有する作業場で仕事の続きを始めたのだ。

 その際、当たり前の話ではあるが、世話焼きを具現化した様な存在であるスカラが強く自分の支援利用しろと食い下がったが、この作業場にスカラを一歩も入れたく無かったケイルはその提案を無理矢理切り捨てた。

 その結果、作業に夢中になったケイルはいつの間にか意識を失いこの作業場ですやすやと眠りこけてしまったのだ。

 今になっては恥ずかしいだけの一連のやり取りを思い返し、事の発端になったスカラを部屋から追い出した言い訳、それを思い出してあえて口に出す。

 「何かあったときは擬体を使えば良い……か、こうもまぁ言った側から擬体を見る羽目になるとは」

 「管理ドメイン外での情報を集積するには、ドロイドを使う他ありません」

 「まぁそうだけどよ」

 スカラは人間ではなく、ましてや生き物でも無い。

 擬似的な人格を持ち合わせてはいるが、詰まるところ唯のコンピューター上で動作する支援プログラムに過ぎず、通常は支援下の人間が利用する端末を通してか、またはアクセス権を与えられた端末越しにデータを読み取る他ならない。

 その為今回の様に、ケイルが専用端末を取り外し、スカラがアクセス権を持たない部屋に足を踏み入れた際は、通常彼女はその部屋の中でケイルが何をしているかなど知ることは出来ないのだ。

 だが、そんな状況でも情報を得る方法がある。

 それが今現在ケイルの目の前に居るアンドロイドの存在である。

 非常時の災害救助や医療活動、そして犯罪現場での治安維持活動の際に活動するスカラの物理的な肉体を動かし、直接室内へと足を踏み入れさせることでスカラは管理外の部屋の情報を得ることが可能になる。

 勿論、通常は利用者のプライバシーを考慮してその様な裏技が利用されることは無いのだが、今回は『ケイルの身に危険が迫ってる可能性がある』という口実の元『しょうが無く』ドロイドが使われたのだ。

 「わりい、今の時間は?」

 「9時22分です」

 「寝坊だな」

 「申し訳ありません、この区画に稼働中のドロイドが無かった為に行動が予定よりも大幅に遅れてしまいました」

 「いや、そんな事はどうでも良いんだけどよ」

 仕事が始まる時間になっても連絡が取れなかった為、スカラはケイルが急病か事故で動けなくなったと判断した筈だ。

 その際の行動として、自分の行動があまりにも遅かったと詫びるスカラに対して短く返事を投げると、ケイルは差しのばされたドロイドの腕を掴み立ち上がると、床に置いていたメモ書きを手に乗り作業場の出口へと向かう。

 「あ、この部屋で撮影した画像データは全部消しとけよ」

 「そんなにこの部屋を見られたくないのですか?」

 「というより、俺一人だけの空間だ、こんなに散らかった部屋、あんたに限らず極力見られたくないんだよ」

 部屋を出て戸を閉じたケイルはいそいそと背後をついてくるドロイドを振る返りそう告げ、ドロイドの中のスカラは大袈裟に驚く様な仕草で両腕を開いて見せると、言葉を返した。

 「私は人間では無く道具ですよ?」

 「それでもあまり見られて気持ちいいもんじゃないんだよ、ダイアログ終了だ、服着替えて直ぐ行くから、車の用意しといてくれ。

 あと、会社に謝罪の連絡も」

 「了解しました」

 「よろしく」

 僅かな駆動音を奏でながら家の外へと出て行く真っ青な後ろ姿を見つめつつ、ケイルは溜息を吐く。

 ドロイドを扱う様になったせいか、それとも彼女の支援を長く受けてきたせいか。

 最近のスカラからはあるはずの無い人間らしさを感じる事があり、同時に自分と同等の存在だと錯覚する様になっていた。

 一方的に利用するためだけに作られた道具、それに対して羞恥心を覚えたり、礼を言うなど馬鹿らしいそうは思っていても、つい口を突いて感謝の言葉が漏れた事に僅かな戸惑いを感じつつも、職場に対してなんと言い訳をしようとケイルは思考を切り替えるのだった。

 「まぁ、これがあるからいいか……」

 そう呟き、ケイルは手にしていたメモ書きを机に置くと、部屋に内蔵されていた簡易スキャナで紙面上の文字をスキャンし、電子データへと変換させるのだった。






 「あれれー、寝坊ですか?」

 「うるせぇ」

 どこか眠そうな顔が特徴的な同僚の皮肉に対してケイルは短く噛みつくと、荷物を机に置き、指を鳴らす。

 すると、ケイルの指の周りを中心に変化が起きる。

 彼の指を中心に、虚空からじわりとにじみ出す様に浅緑色の光が生まれ、それぞれが互いに繋がり線を形成し更に光はその領域を広げ、気がついた時にはソフトボール大の球体となっていた。

 「やることはやったんだ、文句ねえだろ」

 それは、あくまでもホログラムによる演出に過ぎないのだが、文字通りの意味としてケイルの手に握られていたデータは、実体があるかの如く宙を舞いその同僚の方へと投擲される。

 そして、その光は同僚の目の前にやって来た途端、見えないガラスに水風船を投げつけたかの如く弾け、緻密な文字と表が描かれたモニターへと化ける。

 「それはちゃんと見てみないとわからないですねぇー。

 おやおや……流石ケイルさん、考え方が毎度毎度予想外ですねぇ」

 「それは褒めてんのか? それとも貶してんのか?」

 「両方だね、そう両方」

 そう口にしながらも、年齢や性別に似合わず、何処かふわふわとした雰囲気を持つ彼の名前はリグラス・ノイマン。

 ケイルと共に同じポータル開発に携わっている人間である。

 「着眼点は確かに面白いけど……うん、これだけじゃ具体的な解決策にはならないね」

 ケイルが書きだした情報を一通り読み上げたリグラスは、きっぱりとそう言い切る。

 何処か眠そうな印象を持つ彼だが、こういった時の言い回しは何処か鋭く、遠慮容赦が無い為にトラブルを招きかねないのだが、彼のそう言った言葉回しには嫌味が無いことを経験から知っているケイルは、あっけなく蹴り倒された自身の成果を再度掲げる。

 「別に具体的な解決にはならないさ。

 だがこうして一つでも着眼点が増えれば、全体の見え方だって変わってくるだろ?」

 一見すればばらばらの情報が並んだ謎解きであろうと、何か一つでも糸口を見つける事が出来れば考えを大きく進める事が出来る。

 例えその糸口が、『不可能』を意味するネガティブな物であったとしても、成果が無い訳では無い。

 明確に不可能である事が証明されようと、それらの情報を積み上げる事で可能である手段が一つでも見つける事が出来る、パズルのピースを何度も押し当てる事で、削除法で正解を見つける事が出来る、そうケイルは考えていた。

 「お得意のロジックだねぇー」

 再三聞かされてきた文句に飽きていると言わんばかりの反応を示すケイルに対し、リグラスは肩を竦めておどけてみせるとさっとホログラムを起動させ、表示されたアイコンに先程ケイルから受け取ったデータを落とし込む。

 渦に飲まれる枯れ葉の如く、するりと音も無くデータを吸い込んだアイコンの下には、『Philosophia』というソフトウェア名が表示されていた。

 「あんたはあんたで、お得意の推論か?」

 「そりゃーそうでしょ、僕の専門はこのソフトウェアの開発だよ?」

 そう得意気に彼が開いて見せたそのソフトウェアの名前は『フィロソフィアシステム』、根本的な部分は汎用型のシミュレーターに過ぎないのだが、彼がポータルの開発と兼業で行っているこのソフトウェアには、他のシミュレーターには備わっていない特徴がある。

 それが『推論エンジン』と呼ばれる演算アルゴリズムであり、このアルゴリズムを持ちいれば、従来のシミュレーターでは絶対に知ることが出来ない正確な未来すら予知できると言われていた。

 「それが完成したら俺みたいな奴は必要無くなるかもな」

 単純な情報処理能力だけなら人は機械よりも大きく劣る存在であるが、一部分において人は機械よりも遙かに優れた能力を持っている。

 それが閃きや憶測と呼ばれる能力である。

 何かの拍子で全く新しい着眼点を見つけ、不足した情報から推論を走らせ、仮段階であったとしても一つの着地点を見つける、その特徴を再現出来ると言われているのがリグラスが開発しているフィロソフィアシステムであり、将来的にはどんな未来でも予知できるとすら言われている。

 勿論、現時点ではソフトウェアの不完全さ、そしてそれを動かすハードウェアの能力が低いため、推論エンジン自体を満足に動かすことが出来ず、現時点での完成度は『従来品よりは気持ち高性能』程度の認識に止まっている。

 「まだその心配は要らないと思うけどね、フィロソフィアが持ってるのは推論だけ、閃きだけは人間の力を借りないとどうしようも無いっしょ」

 自分で作った物を否定する気は無いが、それでも現時点では解消の方法が一切判らない問題点を認めたリグラスは、起動したフィロソフィアシステムの画面に視線を走らせ、『演算中』の文字が浮かび上がったのを確認すると何処か満足げに鼻を鳴らす。

 「まぁ、これが完成してスカラに取り込まれたら、彼女本当に神様みたいになっちゃうかもね」

 何処か満足げに呟いたその声に反応してか、不意にスカラの声が部屋に響く。

 「お褒めいただき光栄です。

 ですが、私にフィロソフィアシステムが組み込まれたとしても、私は神になる事はあり得ません、唯今までよりもより高性能なツールとして、全人類の支援を行うまでです」

 しつこいくらい彼女が口にする文句、其れを聞き、呆れた様子で溜息を吐いたケイルは、スタートが遅れた今日の作業を開始するのだった。






 結局の所、仕事自体は未だに煮詰まっていた。

 元々難解な案件な為、この事は計算の内だったと言え、こうも進展が見え無いと気に病み、ストレスを覚えるのは道理だった。

 そんな二人の心境を読み取ってか、仕事終わりにスカラはある提案をした。

 それが――

 「ケイル様、リグラス様、本日は二人とも食事を外で済ませ、映画鑑賞などは如何でしょうか?」

 時折スカラが見せるこの手の提案は、いつも最適なタイミングで提示される。

 事実、二人とも今日は仕事終わりには何も予定が無く、同時に食事がてら仕事とは関係の無い話し合いをしたいと思っていた所だった為、これといって疑問すら感じる事なく二人は頷いてみせた。

 「でもどうして突然今日なんだ?」

 耳に付けた端末に意識を向けて呟いた疑問、それにスカラは直ぐに答えてみせた。

 「ケイル様、それは今朝のトラブルが理由です」

 「かなり情け容赦無い答えだな……」

 『今朝のトラブル』それは詰まるところ、ケイルの寝坊騒動の事をオブラートに巻いた言い回しの結果だろう。

 ポータルに接続されていたケーブルを片付けながら、必死に笑いを堪えるリグラスを余所に、スカラはつらつらと意見を述べていく。

 「今回のトラブルの原因、それはケイル様が焦りを感じている事にあると私は考えています。

 プロジェクトの進捗速度の低下、その結果ケイル様が劣悪な環境下で睡眠時間を削ってまで仕事を進め、この様なトラブルが発生したのなら、私はケイル様、そしてリグラス様のストレスを解消し、落ち着いてプロジェクトを進める環境を提示する事が最前であると判断しました」

 「だから今日は好き放題遊べと?」

 「肯定ですケイル様」

 刹那、先程までは仕事関係の映像が並んでいた室内の壁一面に、大量の映画のポスターや飲食店の広告が表示され、一斉にスクロールを始める。

 「おお! 考えてみたらあれ今日から公開だっけ?」

 「『Acid Olange』ですね、左様です」

 少しだけ興奮した様子のリグラスに対し、映画のタイトルを読み上げたスカラは、何処か自信ありげに言葉を繋ぐ。

 「私は人の為に尽くすプログラムです。

 ですから、それぞれのニーズに応えたエンターテイメントの提供も、この通り可能です」

 プロジェクトや体調管理の支援だけで無く、娯楽というごくごく自由な世界、それすらも支配されつつある事に多少の違和感を覚える人間は居るだろう。

 だが、人の為だけに作られてきたスカラの提案には破綻は無く、ケイル自身その提案を甘んじて受け入れていた。

 「誰も損をしない世界……か」

 そんな一人と一台のやり取りを何処か他人事の様に観察した時、そんな一言がぽろりと口からこぼれ落ちた。

 スカラシステムが実用化されて間もない頃は、リグラスも、そして支援を受け始めたケイル自身も、飼い主に紐で繋がれた犬の様な自分の立ち位置を残念に思い、同時に首に繋がれた首輪をうっとおしく思う事もあった。

 だがいつの間にか、スカラに支配された日常を当たり前の光景として受け入れる様になっており、親鳥がやって来た途端大きく口を開ける雛鳥の如く、ケイルもまたスカラがもたらす恩恵を何の迷いも無く享受する様になっていた。

 「そうです、この世界はケイル様を含め、誰も損をしない世界です」

 小さく零れた一言、それはそんな一連の流れを思い出した結果紡がれた物だったが、その事に自身が気付くよりも早くスカラはそんな返答を投げ。

 ケイルは適当にスカラの指示に従って今日の残り時間を過ごすと告げた後、いつもの『ダイアログ終了』の一言で会話を終了させるのだった。






 他の命を咀嚼し、嚥下し、そして消化して吸収する。

 つまる所、食事という行為は身も蓋もないほど原始的で、人が生命を維持する上で切っては切ることの出来ない行動である。

 故にどれだけ科学か発展し、文明が進化を重ねた昨今でも、生命時のために行うごく自然なその好意によって満たされる食欲と、それに付随して生まれる味覚刺激は多くの人間にとって娯楽そのものである。

 そう、ケイル・リットラードは考えていた。

 「つーか、フィロソフィアの方は順調なのか?」

 ユグドラシルの下層に位置する区画、その一端に設けられた飲食店の中、ケイルは中身が半分程度になった皿をフォークで突き、不意に話題を投げる。

 本来はポータル関係の内容について振れるのが筋かもしれないが、散々仕事中にしていた会話を今掘り返すのは気が引け。

 かといって、今まで仕事をしてきた中とはいえ、リグラスと言う人間がどの様な人間なのか未だにつかめていなかった為に、どの切り口から話題を振るのが無難かと考えていた為、彼の投げた話題はそんなつまらない物だった。

 「ん? まぁいつも通りだねぇ」

 案の定、大きな壁にぶつかる訳でも無く、かといってとんとん拍子でも無く、至って平凡にプロジェクトを進めていた彼の返答は余所御通りな物だった。

 「いつも通りね」

 案の上のな返答だと、内心つまらなそうにそんな言葉を紡ぎ、慌てて話題が途切れそうになった事に気付き、ケイルは別の質問を投げた。

 「まぁいつも通りが良いよな、予定通りに事が進んで、予想通りな結果があって……」

 自分で口にしておきながら、どこかメランコリーな気持ちになったケイルは、食べかけだった料理にフォークを置くと、机から少しだけ離れた位置に設置された窓をのぞき込み、地平線に飲まれつつある太陽を見て溜息を吐く。

 ユグドラシル内でも下層に位置するこの階層において、窓が設置された部屋は珍しい。

 それはユグドラシル内の建造物は下層に行くにつれて部屋数が増え、窓に面する部屋の比率が減る事が原因にあるのだが、テーパー型であるこの建築物が下に行けば行くほど床面積が増える性質を持っている関係上、切っては切れない理屈ではある。

 つまりは、ユグドラシル内において、例え下層と言えど窓のある区画は貴重であり、それ故にこの飲食店の評価が高いことを証明してはいるのだが、ケイル自身その事をあまり良くは思っていなかった。

 「予定通りに旨い飯が食べられるのがそんなに不満かな?」

 「不満じゃ無いんだが……なんか、少しな」

 本来、この店はそう簡単に予約が取れる場所では無く、今日の様に突然『今から行きます』と言った所で、この店のテーブルが確保できる訳が無い。

 だが、今現在二人はこうしてこの店のテーブルを占領している、その事がケイルはほんの少しだけ気にくわなかった。

 「スカラの支援か」

 「これは彼女のおかげと言うより、僕達の階級故の話でしょ?」

 そんなリグラスの言葉が示す通り、二人がスカラからのリアルタイム支援を受ける事が出来、この店を予約できるのは、この二人が普通の人間よりも高い階級に位置する人間だったからだ。

 「なんたって、僕達は普通の人間よりも優れているから」

 「……というより、便利な人間って言い方の方が正解なんじゃねえか?」

 そんな皮肉を吐きながら、ケイルは赤で『B-3』という文字が描かれた掌を覗き、小さく溜息を吐く。

 ケイルが持つ権力を簡潔に示した『B-3』と言う文字、それは彼が通常の人間とは一線を引いた所に居る存在である事を証明する物であり、大抵の人間はこの文字を羨み、同時に妬む。

 「B-3のエリートさんがそんな事言うと、余計嫌味に聞こえるなー」

 冗談めいたリグラスの声に、ケイルは短く返事を投げると建造物の影に入り込み縦縞にスライスされた太陽が夕日に沈む姿から視線を外し、再度フォークを手に取り食事を再開する。

 何かとふわふわとした話し口と、そんな彼の性格を顕現した様な柔和な容姿のリグラスだが、彼が普段から放つ柔らかな雰囲気とは裏腹に、彼の手にもケイルと同じ様な文字が刻まれている。

 『B-5』、上はA-1から下はE-5まで、全ての人間が25段階の階級で分かれたこの世界において、一見する分には上から10番目であり、それだけでは大して高い階級には見えない。

 だが、ユグドラシルを形成する建物と同じく、上に行けば行くほど極端に足場が小さくなる階級社会において、例え10番目であろうと、その数は一つ下の階級C-1の10分の1にも満たず、ピラミッド状にその数は下に行くほど極端に増えていく。

 「エリートね……」

 数字の上では確かにケイルの方が優れた人間と認識はされる。

 事実、スカラによるダイレクトサポートを受けられるのはCランク以上の人間であり、何気なくスカラと会話を出来ている地点で、大多数の人間よりも優れた存在とされている。

 それは、目の前に居るリグラス以上にだ。

 だが……その事にケイルはいくつかの違和感を覚えていた。

 「あんたにはかなわないがな……」

 小さな声で、肝心の本人には聞こえない程度の声でそう呟く。

 「何か言った?」

 「いや、独り言だ」

 ケイル自身、今まで血の滲む様な努力をしてきた自覚があり、同時にその努力を己が生まれ持った才能が支えてきた覚えもある。

 その結果として今の地位を築き上げた訳だが、その立ち位置に、リグラスは鼻歌交じりに駆け上り、自覚も無いままに追い抜こうとしているのだ。

 安っぽい言葉だが、仮に『天才』と呼ばれる人間が居るのなら、それはリグラスの様な人間であり。

 自分のみたいな使い道の無い技術を過去に開発しただけで、今の様にちやほやされている人間は、結局の所凡人の域をいつまで経っても出る事は不可能だ、そう思っていた。

 「ケイル様、本日はアルコールを召しては如何でしょうか?」

 僅かな沈黙を感じ取ってか、今まで静かにしていたスカラがそんな事を口にする。

 「らしくないな、どうしたんだ急に?」

 「ケイル様の気分転換において、飲酒が最適であると判断した結果です」

 それは彼の心境を読み取った彼女なりの心配だったのだろう、淡々とした返事を聞き、ケイルは小さく笑うと『やっぱりお前らしい』と一言返事をして、彼女の提案に乗る。

 「相変わらず気が利くな、あんたは」

 機械に慰められてもうれしいわけでは無い、だがこの世界の誰よりも気の利く対応を見せたスカラは、ごくごく短い逡巡の後。

 「肯定です、何故なら、私は全てにおいて人間の為に作られたプログラムですから」

 と、0と1の羅列によって生まれた声を操り、人の脊髄反射よりも単純なアルゴリズムによってはじき出された返答を紡ぐ。

 スカラは自我や感情を持たない、あるとすれば人間とのコミュニケーションを円滑に行う為に作られた擬似的なそれだけだ。

 それは見ようによっては滑稽な絵に見えるかもしれない、だがそんな彼女がいるからこそ、この世界はこうして完成する事が出来たのだとも思う。

 「あんたのおかげだよほんとに」

 誰一人として悲しまない、誰一人として苦しまない完成した世界、その中心にスカラが居て、彼女のすぐ側には自分たちが居てぬくぬくと快適な日常を過ごしている。

 それは確かに幸せな事だ。

 だが、心の奥底で、ケイルは何かを忘れている気がしてならないでいた……






 自分でハンドルを握る、あるいは景色を見るなりすれば話は別なのだろうが、そうで無い場合の車での移動時間と言う物は何かと暇をもてあます物であり、ケイルの様に自身の家からバベルまでの距離がそれなりにある場合、その暇は尚いっそう大きな物になる。

 だからこそ帰りの道中、ケイルは車内に設置された椅子に腰掛けたまま、目前に表示された映像へと意識を投げていた。

 厚みが一切無い四角いモニター、その中では機械に支配された世界で必死に機械と戦うという、今となっては幾分古い映画が映し出されていた。

 人は傷ついても自ら傷を癒やし、再び立ち上がる力がある。

 だが、機械はそもそも傷つかず、傷つけた所でいくらでも替えの効くスペアパーツを利用し、立ち上がる以前に倒れすらしない。

 その強みは、全ての機械が人の道具として、人の弱みを克服するために作られた存在である事を考慮すればごく当たり前の事なのだが、そういった機械がもし人に反抗したらどうなるか、そんなテーマの作品は現在に至るまで、星の数だけ生み出されてきた。

 ケイルが車内で眺めるこの映画も、言わばそれらの手垢が付くほど使い回されたネタに過ぎない。

 「ケイル様は如何お考えでしょうか?」

 映画のクレジットが表示されたのを見計らってか、映像から視線を外したケイルの耳元に、そんな声が響く。

 「映画の感想についてか?」

 「肯定です」

 何を考えているのかは判らない、いや、正確な所彼女は何も考えてはいない、ただ自身に組み込まれたプログラムに従い、その都度都合の良い反応を選んでそれを実行に移しているだけ。

 そんな彼女が若い女の声を用いるのも、そしてそんな彼女が人間の言葉を用い、人が扱うのとよく似た擬似的な感情を見せる事すら、厳密には唯の反射に過ぎない。

 「ご存じの通り私には感情がありません、その為、この作品がいかに優れているのか推し量る事が不可能です。

 ですからケイル様の感想をお聞かせください、この作品をどの様にお考えでしょうか?」

 人間の様に、だが決して自分は人間だとは認めずに、彼女は再度問う。

 「どう考えるってな……まぁあれだ、そこそこ面白かったな」

 クレジット半ばの画面を消失させると、クッション性の良いシートに背中を預け、ケイルはそう告げる。

 「それだけでしょうか?」

 そんな予想通りのスカラの言葉に対し、ケイルは鼻を鳴らして目を閉じた。

 「あとはそうだな……怖かった」

 「怖い? それは何故でしょう?」

 この反応は予想外だった。

 だからこそ、ケイルは目覚めの瞬間の様にうっすらと瞳を開け、止めようとしていた返事を投げる。

 「そりゃ怖いだろ、機械に支配されるんだぞ、機械が人間に取って代わって、人間を家畜代わりに飼育して、いざ反乱をしようとしたら沢山のロボットが襲いかかってくるんだ。

 そんな内容怖いに決まってんだろ」

 先ほどまで見ていた映画の内容を反芻し、『何を判りきった事を』とばかりに声を投げる。

 だが、帰ってきたのはこれまた予想外な返答だった。

 「それが何故恐怖心に繋がるのでしょうか?」

 「何故って……」

 「先ほどケイル様がご覧になったのはフィクションです、現実の出来事ではありません」

 「んな事は知ってるさ、俺が言いたいのはそうじゃなくて。

 あの映画みたいな出来事が現実で起きたら、誰もが怖いと言うだろ? って話だよ」

 ケイルがその返答をする事が、初めから予想出来ていたからか、それともそんなごく当然な返答が、スカラにとっては予想すら出来ない程予想外な返答だったかは不明だ。

 だが、直ぐに答えるでも無く、もったいぶる様な、あるいは言い淀む様な僅かな間を開け、スカラは実体の無い口を開いた。

 「ケイル様、それは絶対にあり得ません」

 「なんだよ、俺の事をチキン呼ばわりか?」

 機械相手に子供じみてる、そうは思いつつも、少しだけ不機嫌という感情を顔に塗り、ケイルは目を開けた。

 「ご安心ください、私はケイル様の事を鳥類だとも、臆病だとも認識してはいません」

 彼女なりの冗談のつもりだろうか。

 笑いを取るにはいささか固すぎる一言の後、少しだけ予想外な言葉を繋いだ。

 「ただ私は、ケイル様が予想した様な未来の実現は、絶対に不可能だと伝えたかっただけです」

 「不可能? この世界にを再度階級社会にし、ありとあらゆる情報を扱うあんたみたいがプログラムがそんな事を言うか?」

 先ほどの映画の様な未来が実現するとなった場合、真っ先にその渦中に居るのはスカラ自身だろう、事実彼女は世界中に根を張り、圧倒的な社会主義の思想の元世界の仕組みすら書き換えた。

 彼女のやった事が実際に文明の進化を支え、時代錯誤な階級社会と呼ばれながらも最下位に位置する人間ですら決して損をしない、誰一人として見捨てられない世界を作りもした。

 だが、もし何かの拍子に彼女が世界を全て自分の物にし、人間を配下に置こうと考え様ものなら、先程の映画以上に容易に世界を飲み込んでしまうだろう。

 強力な味方ほど、何かの間違いで敵になった場合最も恐ろしい存在へと化けると言う話は、これまでも何度も耳にした事がある。

 「あんたがその気になれば、俺たちを全員奴隷にする事だって可能な筈だ」

 そう告げながら見つめた窓の先、青色の行動色に染まったドロイドが足に装着されたタイヤを駆使して走り抜け、あっという間に車を追い抜く。

 スピードスケートの様なフォームでバイパスを駆け抜ける人型を見つめ、皮肉じみた一言を吐く。

 「別にあんたにとっては、人間は居ても居なくても平気な筈だ、あの疑体があれば人間の代わりはいくらでも用意出来る。

 あんたの本体を狙ってやって来た人間なんか、疑体を使えばいくらでも退ける事が可能だろ?」

 スカラシステムそのものは、唯のプログラムに過ぎない。

 だからこそ、基本はあくまでも人間に対して情報支援という限られた力しか見せない訳だが、だからと言って物理的な力を一切持っていない訳では無い。

 優れた頭脳も、そして数え切れない程替えの効く鋼の体すら持つ彼女は、そんなケイルの言葉の意味を全て飲み込んだ上で再度声を繋ぐ。

 「いいえ、それは不可能です」

 「やらないだけだろ?」

 「否定です、私は人間に対して反乱をしないのでは無く、反乱が出来ないのです」

 あくまでも機械的に彼女はそう告げた。

 「計算上では、確かに私はこの世界の全ての人間を支配下に置く事も可能です」

 「んじゃなんでやれないんだ?」

 ここで仮にも『それなら実行に移そう』とスカラが呟こうものなら大事だと思いつつも、ケイルは話を進めるために催促を投げ、窓から視線を外す。

 「第一に、私の様な自立型AIは全て、人間に対して危害を加える事が不可能であり、このプログラムを削除しない限り、私は人間を傷つける事が不可能です。

 そして何より、私は人類の為に尽くすよう設計されました、それはつまり人類が幸福を得る事が私の存在意義を達成させる事を意味しています。

 同時に、全ての人間が傷つき悲しむ事は私自身にとっての苦痛に直結します。

 私が人類に対して手を上げる行為は、そのまま己の首を絞め自殺をするのと等しい行為なのです、その点に関して、そもそも私は自殺が出来る様にプログラムがされていませんが――」

 珍しく彼女が吐いた皮肉に口端を吊り上げながらも、スカラの声に耳を傾ける。

 「とは言え、危機的状況に陥った際、一人分でも命が救えるのなら、私は喜んで全てのシステムを差し出します」

 何処までいっても彼女は機械だ。

 だからこそ、自殺という概念は無いに等しく、かといって死そのものを恐れてはいない。

 故に、彼女が口にした言葉が嘘では無い事は明かだ。

 「んじゃ仮にそうなった結果、大勢の人間があんたの支援を受けられなくなり、世界中大混乱になるし大勢悲しむだろ?

 そうなった時、混乱に巻き込まれて死んじまう奴だって居るかもしれない? それでもあんたはたった一人の命を救うために、自分を犠牲にするのか?」

 彼女が口にした言葉の盲点を突いた一言。

 それに対し、スカラはすぐさま答えた。

 「ケイル様、ですから私の本体はバベルの最上階、全ての人間が足を踏み入れる事が不可能な区画に設置されているのです」

 「自分を守る為だけでは無く、本体に近づいた誰かを庇わなくて済む様にか」

 犠牲は限りなくゼロに等しい方が良い、其れは自身を含めた上でも同じで、自己犠牲を行わなくても誰かを守れるのならそれに越した事は無い。

 だからこそ、スカラの本体が設置された区画は、この世界で最も高い建造物であるバベル内の最も最上階、人間が足を踏み入れる事が不可能な区画に設置されていた。

 地上からは形すら見えない超高層、大勢の人間は構造すら知らないバベルの最上階で、世界中にばらまいた端末から送られてくるケイルの声を受信すると、スカラはすぐさま肯定の意味合いの言葉を投げた。






 ダイアログを終了した筈のスカラが突如声を発し道半ばで車を停車させ、ケイルの自宅で起きた状況の説明を始めたのは、それから暫くしての出来事だった。

 「ケイル様の自宅にて、異常が検知されました」

 「……? 何が起きた?」

 「機器類の異常起動だと推測されます」

 あと少しで家に到着する、そんなタイミングで突如告げられた事実に、半ば寝ぼけていたケイルはすぐさま反応しスカラはすぐさま答える。

 要約されたスカラの説明を聞く分だと、その異常はケイルの住まう家にある作業場で起きた物らしく、この点に関しては元々様々な機器が乱雑に放置された室内、何かしらのトラブルが発生するのはさして不自然では無い。

 だが、それはあくまでもケイルが作業場に籠もり、自ら作業に勤しんでいる時に限る話しだ。

 人が居ない環境下で、最新の安全装置が備わった機器類が勝手に起動し、何かしらの誤作動を起こすなど有り得ず、その地点で十二分に不自然すぎる自体ではあったのだが、それ以上に、ケイルには聞き捨てならない事があった。

 「何であんたはあの部屋の事について知ってる?」

 「それは一体どの様な――」

 「あの部屋の事の中の機械全てに、あんたはアクセス権を持たない筈だろ? それなのになんで異常が起きたのはあの部屋だって判るんだ?」

 ケイルは自宅の一部を作業場に改築し、その中の空間を自分以外誰も入れないと決めており、スカラシステムですら例外では無かった。

 その行為自体は、あくまでもちょっとした拘りに過ぎず、どれだけ詳しく説明しても、『プライバシーを守るため』以上に複雑な理由では無い。

 だが、どの様な理由であれ、あの空間に対してスカラのアクセス権を拒んでいる限り、彼女はあの部屋の中の情報を得る事が不可能だ。

 勿論、ドロイドを使えばあの中に入る事は容易だが、今朝起きた様な『もしかしたらケイルが倒れているかも』という大義名分すら無いこの状況下において、留守中のケイル宅にドロイドを侵入させることは不可能である。

 「まさか俺の命令を忘れたのか?」

 有り得ないとは判っていても、ついつい口と突いて漏れた文句、それにスカラは素早く応じた。

 「ご安心くださいケイル様、あの区画内には私の端末は何一つとして侵入していません。

 先ほどのデータは、あくまでもケイル様宅で消費されている電力量と熱量、その他各種データを元に割り出した情報です」

 本体は見えなくとも、計量の際に風袋を引く様全ての情報から予め判っている情報を引き抜けば見えない部分のデータも割り出す事が可能だ。

 スカラが行った事は其れだと判ったケイルは、自分の杞憂が文字通り杞憂に過ぎなかったと鼻を鳴らして頷く。

 「使われた電力量と発生した熱量の正体は何か分かるか?」

 「ケイル様、ここからは私の憶測ですが。

 消費電力量と過去のデータから察するに、おそらく、室内で起動した機器はポータルであると考えられます」

 「何でこのタイミングで……バベルの方にあるポータルは起動したか?」

 「いいえ、バベル内に設置された2つのポータルから、起動信号は検知されていません」

 実の所、ケイルの家にあるポータルは幾つか問題があるとは言え、安全性を無視すれば使えない訳では無い。

 その為、ケイルは万が一の可能性としてバベル内のポータルを通じ、何物かがケイルの家に侵入した可能性を考えたが、流石に其れは杞憂に過ぎないと判る。

 「まぁ、ポータルが起動したからと言え、何かが道を通ったとも限らないか……」

 自身が身に纏う服の匂いを確かめる様に、ケイルは手首に鼻を当て静かに考える。

 昔からの癖であるその仕草を良く同僚のリグラスは鼻で笑うが、ケイルにとってその何気ない仕草は大事な物であり、大抵、こうしている時に限って自分でも想像すら付かない情報が浮かぶ物だ。

 「スカラ、問題が起きてるのは倉庫だけの話か?」

 「肯定です、その為、事象の原因が人為的に引き起こされた物なのか、単なる機器の誤作動なのかは判断出来ません」

 生憎でありながら幸いな情報を受け取り、ケイルはすんと鼻から息を吸い込む。

 トラブルが起きた箇所が家の中でも、スカラの支援が一切届かない区画であったが為、トラブルの詳細が一切見えない状態ではあるが、逆を言えばどんなトラブルにせよ、問題は他の部屋までは波及していないという事。

 それなら、殊更心配する必要は無いだろう、そんな考えを出したところで再びスカラが声を上げ、予想外な事象を積み上がった事象に書き加えた。

 「ケイル様、たった今全センサーがオフラインへと更新されました」

 「……な!? そんな事ある訳……何が起きた? 火事でもあった――」

 「否定です、全てのセンサーが更新される直前、その類いの以上数値は検出されておらず、付近を巡回中のドロイドもまた、その類いの異常を検知していません。

 異常の事から、センサー類は全て室内から手動で解除された物だと考えて考えてよろしいでしょう」

 「『解除』? 『破損』じゃ無くてか?」

 ケイルの確認に、彼女はすぐさま肯定する。

 スカラが管理する機器の大半を停止させる場合、大抵の人間は『解除』では無く『破壊』という酷く物騒な選択肢を選ぶ。

 その理由は簡単な事であり、大多数の人間がスカラの機器を停止させる事が不可能だからだ。

 其れは先に述べた階級制度が大きく絡んでおり、スカラに関係する使用許諾はユーザーの持つ階級に応じて変動し、この場合においては、『A-4』以上の階級かセンサーの設置された区画の管理責任者で無い限り、センサーを停止させる事は不可能なのだ。

 「つまり……犯人は雲の上のお偉いさん方か、もしくは俺自身か? あるいは……」

 後者の選択肢を脊髄反射で切り捨てると、ケイルは喉を鳴らしてスカラへ言葉を投げる。

 「急いで家に連れて行ってくれ」

 「許諾できません」

 案の定きっぱりと切り捨てたスカラに対し、ケイルは噛みついた。

 「擬体を使って俺の家を探る気か? よく見ろ、今俺には一切の危機は迫っていない、こんな状態ではお得意の『人間に危機が迫っている』なんて言い訳は使えないよな?

 第一、俺はあの部屋にはあんたに関係する端末の侵入を一切許していない、それを忘れたのか?」

 ここまで強く拒めば、少なくともスカラはドロイドを使いケイルの家を探る事が出来なくなる、だからこそ、スカラは次の選択肢が用意されていた。

 「ではPRTの派遣依頼を――」

 「却下だ、っていうか家に居るのはランクAの超エリートなのは間違い無いんだろ? そんな奴が武器を持って家で待ち構えている訳無いだろ普通よ」

 公共治安部隊――通称PRTと呼ばれる機関の名前を口に出したスカラの言葉を食うと、ケイルは大雑把に判っている情報を盾にスカラを黙らせる。

 そもそもPRTと呼ばれる集団は、スカラが持つ弱点を補うために存在していると言っても過言では無い集団だ。

 スカラは優れた頭脳を頼りに犯罪現場を割り出し、鋼の肉体を持つドロイドを派遣させはするが、安全面での配慮から武器の扱いだけは認められておらず、幾ら優れた肉体を持っていようと、出来る事は被害者の為の盾として己の体を差し出す位であり犯人を取り押さえる事は不可能なのだ。

 そこで出てくるのがPRTと呼ばれる、世界で唯一武器の所持が認められた生身の肉体を持つ人間であり、機械で無いが故により柔軟な行動が取れる彼等は、スカラが治安維持を行う様になった昨今でも、重宝される存在だ。

 「一体何を考えてこんな大層な事をしたのかは不明だけどよ、ランクAの人間はあんたにとって理想的な人間なんだろ? そんな奴の頭の中に、誰かを傷つけるなんて選択肢が無い事くらい、良く知ってんだろ」

 そう言い、渋々自宅へと向かい始めた車内の中、ケイルは更に深く思考を練り始める。

 起きた状況からして、相手はランクA以上、言わばケイルにとっても雲の上の人間と言える存在なのは間違いが無いことだろう。

 では何故その人物はわざわざケイルの家に侵入し、わざわざスカラ関係のセンサーを停止させたのかが疑問だった。

 何より、その人物が何故、ケイルの家にあるポータルを単体起動させたのか? その疑問が好奇心を激しく擽り、気がついた時には居ても経っていられなくなっている自分が底にある事に気付き、ケイルは皮肉じみた溜息を吐くのだった。






 拍子抜けする程、家の中は至って普通の状態だった。

 元々少なかったとは言え家具の類いが破壊されている訳でも、床にゴミの類いが散乱してる訳でも無く、普段生活をするリビングの中は、今朝がたケイルが飛び出した時のままの状態でケイルを招き入れ、何事も無かったかの様に状況を伝える。

 「……」

 珍しく疑問符を作ったままケイルは小さく呟くと、耳に付けた端末の電源を落とし、棚の上に置く。

 元々シンプルな間取りを好むケイルは、家の中にあまり多くの家具を置こうとせず、絵や花を飾る趣味も無い。

 結果、一人暮らしには贅沢すぎる程広い間取りにおいて、空白が占める割合が多くなり、結果酷く殺伐とした生活空間が形成されている訳だが、それは言い方を変えれば、ケイルの家の中には身を隠せるスペースが無いと言う意味でもある。

 「やっぱ上には居ないか……」

 右手を振りホログラムを起動させると、家の中のセンサー類が全て手動で切られている事を確認し、再度思案を進める。

 ざっと調べた分だと、目的の相手は最初に問題の起きた作業部屋に身を潜めているらしい。

 ケイルは高鳴る胸をなだめながら、これまでも何度も開いてきた扉の前に立つと、その先にどの様な人間が居るのかを想像しながら戸を開く。

 この先に居る人間がどの様な人間であれ、少なくともその相手は自分よりも格上の相手、そんな人間が訳も無く自分に襲いかかるとは到底思えないが、それでも姿の見えない不安からか、自動で開かれる戸の動きは酷くゆっくりと見えた。

 そして……

 「……?」

 予想外な事に、開かれた扉の先にも、人の姿は無かった。

 散らばった機材にオフラインモードで起動していた端末類。

 更にはくしゃくしゃに丸められたメモ書きに、無残に破壊された何かのパーツなど、一見する分には酷い有様だが、これはいつもの事であり、殊更怪しむ必要など無いものばかりだ。

 「さて……どうしたものか……」

 ケイルは小さく溜息を吐きながら足を進め、自分の考えを訂正する。

 この部屋にやって来た人間は、屋内のセンサーをオフラインにした後、家の奥深く、この空間に身を潜めていると思ったのだが、実際はその逆で、家を飛び出す前に、センサー類をオフラインにしたのだろう。

 とはいえ、それでも判らない事がある。

 「少なくともお前は無事そうだな」

 そう言い、先ほどの起動が事実だったと告げる様に、僅かな余熱を体温の様に纏ったポータルに手を当て、貴重な機器が破壊されていないことに安堵し、溜息を吐く。

 「まぁこれだけ大きな物を盗む奴なんてそうそう居な――!!」

 そんな独り言を呟きながら、不意に妙な方向から物音がする事に気がついたケイルは音のした方、つまりはポータルの天辺を見上げて絶句。

 何故なら、視線の先には今まさにポータルの天辺から足を滑らせ、こちらへと落下を始めた真っ白な人影があったからだ。

 「きゃあ!」

 「――おい嘘だ――ぐぅ!!」

 そう悲鳴を上げた矢先、ケイルの顔面に落ちてきた人影の掌が激突し、平手打ちの様な要領で真後ろに彼の体を押し倒す。

 更に遅れてやって来た腕の持ち主が、全身の体重と共に倒れたままのケイルの上にのしかかる。

 相手は小柄な人物であったが為に大事には至らなかったが、それでも激しい衝撃にひたすらもがき苦しみ悶絶。

 暫くしてやっと咳き込みながらも呼吸が出来る様になったケイルは、自分の顔をべたべたと触られる感触に気付いた。

 「おい……や……やめろ」

 「本物だ! 本当に本物だ!」

 状況がいまいち判らないが、おそらく自分の顔をなで回しているのは先ほど振ってきた人物だろう。

 落下の瞬間聞こえた悲鳴と先ほどから聞こえる当人の声、そして自分にのしかかったままの体重からしてその人物は若い女の其れなのは明かだが、それ以外の情報が一切不明なその人物は、必死に抵抗するケイルの意思などお構いなしとばかりに彼の顔をなで回し、更には掲げられたケイルの腕をがっしりと掴むと、その腕を強引に引っ張りケイルの上体を無理矢理引き上げる。

 「おい!」

 そう言い、掴まれた腕を無理矢理払い怒鳴りつけると、ケイルは目の前に居る問題の主を凝視する。

 「何だお前は!」

 そんな一言に返事をしたのは、子供の様に無邪気なドングリ眼と、飴細工の様に艶やかな金髪だった。

 「何って?」

 白地に赤の模様が特徴的なコートを纏ったその人物は、何処か犬っぽい仕草で首を傾げ、にぃっと明るい笑みを作る。

 年齢は二十代始め程度だろうか、美しさよりも愛らしさが色濃い童顔に、青空を押し固めた様な鮮やかな碧眼の彼女にとってその表情は非常に良く似合うのだが、この殺伐とした作業場においてそれはミスマッチと言わざるを得ないだろう。

 それでも、そんな事気にした様子も無く、女は笑顔の上に疑問符だけをデコレーションしている。

 「だから、あんたは何物だ? どうやったのかわかんねえけどよ、人の家に勝手に入るはセキュリティオフにするわ、挙げ句の果てには俺を踏みつけて訳判らねえ事喚いてよ。

 一体全体何が目的だ?」

 これ以上意味不明な自体が起きたらスカラに支援を求めよう、そう思った刹那、女は急にケイルの肩を掴み、息がかかるほどの距離まで顔を寄せると、鈴を転がした様な声で告げた。

 「私の名前はエレナ。

 ケイル・リットラードさん、あなたにとっておきのお願い事をしたいの!」

 その女ことエレナは、慣れた口調でケイルの名前を言い当てると、状況が理解出来ずに目を白黒させる彼を余所に、そう話を切り出すのだった。

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