砂時計少女は愛されバタフライの夢を見ない

chiffon

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 昼休みになるとすぐに、弁当を持って隣の教室の前に向かうのが、ここ一週間の立花由佳の日課となっていた。

 教室の中には入らずに、目当ての人が出てくるのを廊下で待っていると、

「由佳、何してるの?」

 同じクラスの水瀬めぐが声をかけてきた。

 吹奏楽部の副部長をしているめぐは、面倒見が良く、由佳によく話しかけてくれる数少ない女子だ。

「あ、うん、ちょっと……」

 由佳が適切な返事を探していると、遠くでめぐを呼ぶ声が聞こえた。きっと同じ部の生徒だろう。

「ごめん、頑張ってねー」

 謎の応援を残して駆け足で去っていくめぐの背中を目で追っていると、教室から出てきた松原真希がいつの間にか隣にいた。



「それで、木野っていう、ラグビー部のうるさい男子がいるんだけど、昨日の掃除の時間に──」

 二人きりで校庭の端の木陰に座って、弁当を食べながら過ごす昼休みの半分は、真希のその日あったことや考えを由佳がひたすら聞く時間だ。

 そして、真希が話したいことを一通り話し終えると、決まってこの話題になる。

「──で、昨日も寝てないの? 由佳は」

「え? あ、うん……」

 由佳は先週から、学校を出られなくなっていた。

 正確には、一日を終えて学校を出ようとした次の瞬間には翌朝、学校に向かう途中になっているのだ。

 朝になると着替えも課題も済んでいて、眠気も空腹感も襲ってこないので、実際は家に帰っているはずなのだが、その記憶が一切ない。感覚的にはついさっきまで夕方だったのに、気づくと朝になっているという現象が、七日連続で起きていた。

 そんな不可解な現象について友人の真希に相談して以来、二人は毎日お昼を一緒に食べながら解決法を探すようになっていた。

「で、何か心当たりは見つかった? "思春期症候群"の」

 真希が続けて投げかけた質問も、ほとんど挨拶のようなものだった。

 思春期症候群。本人以外は気のせいだとしか考えられない、不可思議な現象の総称。

 それにまつわるネット上の書き込みの中には、その本人の抱えている悩みが解決すると不可思議な現象も自然と収まった、という話が多くあった。そのため真希は、由佳の抱えている悩みを解決すれば不思議な現象も収まるのではないかと考えていた。

 だが、肝心の悩みが見当たらないのだった。

「本当に、実は親から引くほど虐待されてるとかじゃないんだよね? 昨日も訊いたけど。服の下に痣とかないの?」

「全然ないよ。親との仲も良いし……」

 真希がそう訊きたくなるのも無理のないことだと由佳は思う。

 家にいる間の記憶がない、という現象は、家に帰ることが辛くて仕方がない人に、いかにも起きそうなことだからだ。

「じゃあ、逆に、学校が好きすぎて帰りたくない、とか?」

 そんな真希の推測も、論理的には同じくらい納得がいく。だが、そう訊かれた由佳は苦笑するしかなかった。

「そうでもない……」

 部活に打ち込んでいるわけでもない、恋人がいるわけでもないし、すごく仲の良い友達がいるわけでもない。由佳は自分が学校を楽しめていない方の人種なのだと何となく自覚している。

「まあ、そうだよね」

 真希はそんな由佳の表情を見ながら、少し躊躇いがちに、こう切り出した。

「でもさ……それなら、家に帰れないのって辛くないの?」

「それは、別に……家に帰ってやりたいことがあるわけじゃないから」

「そうなの? 家で何してるの?」

 真希がどうしてそんなに家のことにこだわるのか、由佳にはわからなかったが、真希はとても真剣な目をしていた。

「宿題とか料理とか……あと、次の日の準備したり」

「それだけ? 何か毎日これが楽しみとか、そういうのは?」

「ええと……」

 ここ数日はできていないが、普段は家に帰った後、流行っているゲームを遊んだり、人気のドラマを観たりする。だが、それらはただの時間潰しであって、楽しみにしていると言えるほど楽しみではないし、なくなって困るようなものでもなかった。

 それをどう説明していいかわからなかったので、由佳は試しに質問で返してみた。

「それって、そんなに気になること? だって、真希ちゃんも毎日楽しくないんだよね?」

 由佳は、ごく当たり前のことを確認しただけのつもりだった。なので、真希がきょとんとした顔を返してきたことに驚いた。

「え……いや、私、全然毎日楽しいけど?」

「え?」

 由佳は、その言葉をすぐには咀嚼できなかった。

「えっ、でも、さっき、学校楽しくないって……」

「うん、学校は楽しくないよ」

 真希は話しながら今の時刻を確認して立ち上がった。校舎に戻る真希を、由佳も追いかける。

「だからもちろん、一日中楽しいわけじゃないけど、学校以外でやりたいことはたくさんあるし」

 歩きながらも真希は、由佳の方も見ずにすらすらと語り続けた。その言葉の一つ一つが由佳には衝撃的だった。

「放課後に散歩したり、映画観に行ったり。あとは、家で……自分の曲を作ったりしてるんだけど、そういうのって一人でもできるじゃん。駅と反対側にある海とか、見に行ったことある? 誰もいなくて楽しいよ」

 由佳は、クラスメートの水瀬めぐや、真希のクラスの木野とかいう男子のような、恵まれた人間だけが、毎日を楽しんでいて、そうでない人たちは、毎日が過ぎ去るのをただ耐えているのが普通だと思っていた。

「プロを目指してるわけでもないのに毎日早起きして、放課後に走り込みなんかしちゃって、口癖みたいにキツいとか苦しいとか、何が楽しいのかわかんない。

 そんな人たちより私の方が毎日楽しいから、絶対」

 由佳は、部活に入りたいとは思えなかったが、楽しそうだという気持ちはあるし、それと比べて自分が毎日を楽しめているという気持ちはもっとなかった。

 昇降口に着くまでの間、真希は由佳の方を一度も見ずに早口で話し続けて、由佳は一度も口を挟まずに真希の話を聞き続けた。

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