横浜ネクストタヴァーン

若槻かえで

▶︎電話に出る

「これから、横浜行かない?」


 それは突然の誘いだった。

 全国の学生生徒は夏休みであるこの季節。

 彼女から電話がかかって来たのは、連続休暇の盆休みが終わってすぐの金曜日の夜だった。大学を卒業して、すぐ職についていた俺たちは、各々仕事を再開し、溜まっていた仕事を片付けるのに追われる忙しい日々を送っている……筈だ。

「どうしたの、急に」

「いやぁ、突然行きたくなっちゃって。ほら、そういう事ない?突然何かを食べたくなったり、やりたくなったり」

「わからなくもないけど……今から?」

「うん、今から」

 その声の主も今日は仕事があった筈では、と思わせる程、明るく弾んでいた。まるで、これから何処か旅行へ行く子供のように。

「あの、一つ聞いていい?……何しに行くの?」

「え?それは今から決めるけど」


 そして二時間後。

 会社近くの駅から電車に乗って、流れて行くビル群を進んで行く。いつもならこの時間には見ない光景が、非日常感を醸し出す。

 集合場所、東京駅の東海道本線のホームに着くと、一人、長身の女性が近づいて来た。

 彼女こそ、今回の首謀者である。


「やぁ、直接会うのは一ヶ月ぶりだねぇ。元気だった?」

「じゃなきゃ、今頃家で寝てるだろうな」

 この手の誘いは今回が初めてではなかった。

 最初は六本木。次は新宿、渋谷、銀座……と都心にある、所謂眠らない街を渡り歩いた。行く場所は様々で、ショークラブだったり夜景が望めるレストランだったりとナイトスポットが主。その彼女の気分と俺の言葉で、行く場所は決まっていった。

 当たり前ながら、新人サラリーマンとOLの給料なんて高が知れてる。彼女の誘いは、一人暮らしをしている俺にはとんでもない出費で、まさに魔の出費というに相応しいものだった。だから酒も料理もそんなに手をつけないようにしてはいるが、酒には強い方だから、それこそ給料が良い感じに安定するようになったら、隣に座って外の景色に目を輝かせている彼女のように、酔えるまで飲みたいとは思っている。

 そう言う彼女は酒にはあまり強くない為、最初こそは飲み潰れてはいたものの、今は限度というのを覚えたらしく、タクシーを呼ぶこともなくなった。

 ただーー……。

「なんで急に東京を出て、横浜?」

「東京も全然素敵だとは思うのだけれど、ちょっと遠出をして、見慣れない街を見たいなぁと」

「それはまた随分なことで」

「まさか君が誘いに乗ってくるとは思わなかったよ」

「まぁ、明日何にもなかったし。そもそも、明日家に引きこもるつもりなら、今日くらい付き合ってよーとごねたのは誰だ」

 一度だけ断った日には、まだ限度を知らないものだったから潰れるまで飲んで、店まで呼び出されたことがある。その時もなんで俺なんだと思いつつ、まぁ腐れ縁なんだと割り切って、タクシーを呼んで無事家へ帰した

 つまり、誘いを断っても、彼女は一人で横浜へ行っただろう。

 都心も充分な事だが、横浜となればまた話は別だ。

 断るにも、断れない状況を上手いこと作り出してくれた彼女は、一体何を思って、俺なんかを酒飲みの相手に連れ出すのだろうか。

「お前……仕事、上手く行ってんのか?」

「行ってるよ」

「人間関係は?」

「普通」

「同僚がいるなら、そちらを誘えばいいのでは」

「前も言っていたね、そんなこと」

「……お前、やっぱり友達いないんだろ」

 えー、そんなことないよーと彼女は笑ったが、果たしてそれは本当だろうか。

「ほら、私、大勢で飲むのあまり好きじゃないし、同僚もプライベートの話だと、あまり合わないっていうか」

 前はここまで聞いて「そうか」で終わらせた気がする。その先までは聞かなかった。

 でも今日はなぜか気になった。

 横浜へ飲みに行くという夜の遠出に、俺が選ばれたのはいつもの事だと考えれば納得がいくが、それだと根本的な解決には至らない。

 どうせ新天地へ向かうなら、俺なんかを誘わなくても、と思った。

「同僚がダメなら、山田とか高波とか……高校の時仲よかったやついただろ」

「……もしかして、横浜にまで連れ出されたこと、気に触ったりした?」

「いや、別にそういうことじゃ」

 少し話し方がストレート過ぎただろうか。

 恐らく彼女は、俺が突然何故俺をと聞き出したのを見て、気乗りしていない奴を無理やり引っ張って来てしまったように感じたのだろう。

 彼女は押して押して、そして妙なところで手を引っ込める癖がある。相手のちょっとした不快感だとか、またはそれに似たような感情を察した時、するすると後退していく。きっと人間関係をなるべく穏やかな状態で進めていきたいのだろう。それが自分と気の会う友人であるなら、なおさら。

「引っ張り出されるのはいつものことだし。この付き合いと一度や二度じゃない、慣れたもんだ。俺が聞きたいのは、友人の中から飲み相手を選抜をした結果が、なんで俺なのかっていうことだ」

 彼女と俺は高校生時代からの付き合いで、その先の事はあまり知らない。きっと友達は何人かはいるはずだ。なのに、どうして俺なのだろう。

「その理由はね」

 電車がスピードを落とし始め、アナウンスが横浜到着を告げた。

 外を見れば、住宅地の平坦な群れを抜けて、横浜の凹凸した高層ビル群がこちらに向かってきていた。

「着いた……! きたよ、横浜!」

 彼女は先程のやり取りを忘れたのかのように、横浜到着を子供の様にはしゃいで喜んでいた。

「さぁ、冒険しよう! 大人の時間、横浜を」


 夏場の横浜は夜でもやはり、人が多かった。

 彼女はまず駅から降りると、その夜景を見て目を輝かせた。

「おぉ……! 心踊るねぇ」

 そう言って、横浜の空気を堪能すると「どこへ行こうか」と目的地の話へと変わった。

「横浜といったら中華街とか、マリンタワーとかだよねぇ……。げっ! どっちも超遠いじゃん……でもなぁ、電車乗るの面倒臭いし、できるなら歩いて行ける距離……ならやっぱりーー」

 端末を弄って周辺を調べて、有名な観光スポットを上げていくが、やはり横浜。あちこちに観光スポットはあるわけで、歩いて回るには苦しい広さだった。

 今の時間は夜の九時前。

 何処か一箇所観光したあと店に入るくらいがちょうど良い時間だろう。

「そっちは何処か行きたい場所とかある?」

 端末をいじりながら彼女が言う。

 この場合、合わせるよといえば「それは何でも良いと同義だよ、君」と彼女の機嫌を損ねる事は知っているので、てきとうに答える。

「店に入るなら、観光地の近くが良い」

「なるほど、つまりはそんなに歩きたくないと」

「一応言っておくが、俺たちは仕事終わりなんだからな」

「体力無いね、君。運動部だったのに」

「そりゃ四年も運動してなきゃ体力落ちるわ」

 そんなやり取りをしているうちに、彼女は「やっぱそこかぁ……よし」と行き先を決めたようだ。

「赤レンガ倉庫へ行こう!」

「ここからどのくらい?」

「四十分くらい!」

「電車だと?」

「わかってないね~、こういうのは歩いて夜景を楽しみ、雰囲気を楽しむものなんだよ!」

 なるほど。

 やはりこいつは何が何でも歩いて移動したいようだ。

 東京だと、新宿は新宿、渋谷は渋谷と駅で区切って周辺を探索する……というのがいつもの流れだが、横浜は違う。何しろ横浜「市」なのだ。駅名で行き場所を決めておかねば、一日回れるような広さじゃない。

 それを、こいつは歩けと。

「いやなに、四十分だけ歩くだけだよ。……嫌なら私一人で歩いてくから、そっちは電車で移動しても」

「わかったよ、付き合う」

 ここまで来たのだ。

 そもそも横浜なんてそうそう来る機会なんて無いのだ。

 とことん付き合う気で行こう。

「流石、君を誘っただけあるね。それでは参ろうじゃないか」

 先陣切って駅から出ていく彼女の背中を見失わないうちに追いかけた。

「迷子になるなよ」


 海の磯臭い香りが、夏の暑さに紛れて漂って来た。

 彼女のお喋りに付き合っているうちに、いつのまにか、かなり海に近いところまで来ていたようだ。

 話を聞きながら、俺は鞄に入れていた天然水が入ったペットボトルを取り出すと、一口飲んだ。

 やはり夏の夜とはいえ暑いものは暑い。

 暑さと、そして塩の香りを感じながら飲んだ水は、もはや天然水ではなく海水のような気がしてならなかった。

 彼女はというと、暑さよりも好奇心や慣れぬ地の開拓に心を浮かせているらしく、きょろきょろと辺りを見回しては「そういえば」と、話題を引っ掴んで俺に差し出していた。

 そんな彼女は、海の近くの橋を越え目的地の姿を見つけたようで、高いテンションを更に上げまくっていた。

 赤レンガ倉庫には昼間に来たことはあるが、こうして夜に来るのは初めてだった。それは隣で景色を楽しんでいる彼女も同じようで「まるで夕陽だねぇ……すごい」と彼女が呟いていた。

ライトアップされた赤レンガは夕日の色に染まっていて、どこかレトロ感を漂わせていた。その光は空へも、ほんのりと明かりを漂わせており、まるで倉庫自体が夕陽にでもなったかのようだった。

「どうせなら、観光地とお店が一体化していた方が、君のご老体にも鞭を打つなんてことしなくて良いかなと思って、可愛い可愛い若娘が目処をつけておきましたよ」

「ご老体は余計だ。……で、赤レンガ内の店に入るのか」

「そういうこと」

 差し出された彼女の端末には、倉庫内に入っている飲食店の名前が並んでいた。

「すごいよね。ライブレストランとか、お洒落な店まで入ってるんだよ?」

 行きたいのか、と聞けば、そうじゃないよ、と彼女は返した。

「どうせならから、ライブレストランはまた今度が良いな」

 さらっと、次の約束まで取り付けて来るのを聞き、嗚呼またここに彼女と来る日が来るのか、と端末を見ながら思った。

「なら、ここでいいんじゃないか?NEXT TAVERNってとこ。テラス席あるっぽいけど」

 何せこの人の多さだから、運が良ければだけど、と付け加える。

 それでも彼女は「よし、行こうじゃないか」と行き場を決めたらしい。

 早速、中へ歩いて行こうとすると「ちょっと待って」と足を止められた。

 振り向けば、何やらパシャパシャと写真を撮っていた。

「……俺を撮るなよ?」

「いいじゃない別に。それとも、撮られちゃまずい仕事でもしてるの?臓器売買?麻薬取引?」

「いやいやいや。普通に写真撮られるの苦手なんだよ、知ってるだろ」

 そもそも、なんでそんな、物騒な単語がスラスラ出て来るんだ。

「いいじゃん! これからその苦手意識を解消して行こう! お姉さん、とことん付き合ってあげるよ」

 気が済んだのか、端末を下ろして赤レンガ倉庫の中へと歩いていく彼女の隙を俺は見逃さなかった。

 パシャ、とシャッターを切る音がした。

 その音に彼女は振り向くと「ちょっと、何撮ってるの」と、俺と全く同じことを言って来た。

「仕返し。いい感じに撮れたから、あとで送く」

 そのあと送ったその画像を見て、ムッとしていた彼女も「おぉ……角度から背景まで神がかってる……」と言っていたので、きっと許してくれるだろう。

 写真を撮られることに対して共通苦手意識があるなら、協力して解消してやろうという建前の元、意地悪するつもりだったのに……まぁ、本人が喜んでるから良いか。


 運が良いことに、テラス席が空いていた。

 店員の「屋内とテラス席」の問いかけに即答でテラス席と答えていた辺り、流石だと思う。彼女の行動力は本当にどこから来るのだろうか。

「すごいよこれ……海が見える……! ビル群が向こうにある……最高だねこれ」

 荷物を置いて対面に座る彼女は、またパシャ、とシャッターを切っていた。

 そこへ先程の店員さんがメニュー表とお冷やを持って来た。

「夕食ってもう済ませちゃった?」

「いや、まっすぐ来たから何にも」

「じゃあご飯から頼もうか」

 見せて来たメニュー表には、やはりそこそこお高めの値段と共に、それぞれ洒落た料理名や多種にわたる酒の名前が書かれていた。

「お前は?もう決まってんの?」

「うん。とりあえず、生とパスタかな」

「え、そんなんで足りんの?」

「本当はステーキとか食べたいけど、お腹減りすぎて、今重いの食べたら色々やばい」

「なるほど」

 どうやら彼女の胃は空腹の限界に近づいていたようだ。

 あぁは言ったが、俺は社を出る前に差し入れのお菓子をいくつか摘んで来たから恐らく彼女程空腹ではない……が、やはり空腹であることには変わりない。

「じゃあ俺も、生と……ハンバーグで良いかなぁ」

「おっけー」

 彼女は、机の端に邪魔にならないよう置かれていた呼び鈴のボタンをその細い指で押すと、すぐに現れた店員に俺の分を含めて注文した。

 店員は注文を復唱すると、早足で屋内へ戻っていった。

 メニュー表を折りたたんで呼び鈴をその上から文鎮のようにして置いた。

 やはり海が近いからか、風がそこそこ吹いていて、ちょっと油断すれば飛ばされてしまいそうだ。

 その海風は悪戯に彼女の長い髪を攫っていく。

「切らないんだ、髪」

「成人式終わった後に一回切ったんだけど……切りに行くの面倒くさくって。そう考えると男子諸君は大変だね」

「普段のケアはそっちの方が大変だと思うけど、まぁ切りに行く頻度は俺の明らかに多いだろうな」

「リンス塗って、乾かしてオイル塗って……あと肌の保湿とか諸々あるからね。ちょっと気をぬくと、女子力異様に高い同僚にすぐバレてあれこれ言われるから、女子って本当に不便」

 そう言って彼女は手首にかけていた髪ゴムで、その長い髪を結っていた。

「女子といえば……君、職場に気になる子とかいないの?」

「いない」

 そう即答してやると、「つまらない男だねぇ」とまるで歳上が言うような口ぶりで言ってきた。

「そもそもウチの職場、女性社員少ないから。面倒な事に巻き込まれそうだから、今の職場では無い」

「ダメだよ、そこは乗っかっていないと。君には闘争本能というものが無いのかね」

「残念ながら」

「モタモタしていると、一生独身だぞ。ほらほら、ボーイズビーアンビシャス」

「多分それ、使い方違う。合っていても余計な世話だ」

 そこへ、お待たせしましたと軽やかな店員の声が聞こえた。

 片手には並々注がれた生ビールジョッキが二つ握られており、もう片手で器用に持たれているトレイにはいくつかの料理がぎっしりと乗せられていた。

「こちら生二つに、ソーセージの盛り合わせでございます」

 コトン、と置かれた皿に思わず彼女の顔を見ると「多分、待ちきれないだろうなと思って、頼んでおいた」と言われた。

 皿を置いた店員は忙しい様ですぐに屋内へ行ってしまった。

「そのソーセージは私の奢りだよ」

「あれ、お前苦手じゃ無いかった?ソーセージ」

「残念! つい最近、その苦手は克服しました~」

「……一歩大人に近づいたな」

「失敬な。私はもう大人だよ君」

 そう言い合って、互いにビールのジョッキを持った。

 乾杯の音頭は何時も彼女だ。

「ちゃんとね、今回は考えたんだ」

 彼女はにっこりと笑って言った。

「それでは行きます。

 ーーこの横浜の夜景と、君の大志に乾杯」

「だから、余計な世話だ」


 乾杯してすぐに料理は来た。

 熱々のハンバーグにスッとナイフを入れると、肉汁がソースに絡んだ。

 それを見た彼女は一口くれと言い出して来たので、まだ口を付けていないフォークで一切れ刺すと、彼女に向けた。

「はい」

「あ、美味しい」

 俺が頼んだ料理を一口ねだるのは、いつものことだった。一番最初にねだって来たのは学生の頃なので、もうほとんど覚えていない。

「パスタ、食べる?」

「大丈夫」

 そっか、と彼女は食べることを再開する。

 空腹で食べ物に飢えていた彼女は、こう食事になってしまえば暫くは静かになる。

 黙々と食べ続け、いい感じにビールも減って行き、食べ終わる頃にはジョッキも皿も空になっていた。

「ふー、食べた食べた。では次を頼みましょうか」

 この酒飲みはここから長い。

 今まで静かだった分、その反動が来る様に一気に彼女は饒舌になる。酒も入るので、いつもの倍くらいには。

「……ここ、何時までだっけ?」

 ふと閉店時間が気になってしまった。

 長い時は一時くらいまで飲み明かしたことがあるが、ここではそうもいかないだろう。

「今は夏休みで閉店時間延期中らしいから、多分十一時までじゃないかな」

「朝帰りは御免被るからな」

「その時はその時だよ。……さて、君は何を飲むかい?」

「……レモンサワー」

 そう答えると、メニュー表を眺めながら彼女は言った。

「いつも思うのだけど、サワー系って酔えるの?」

「濃度によるけど、大体ビールと同じくらい」

「強い割に飲まないんだ」

「飲みたいけれど、君を送り届ける任務があるからね」

 本当は財布事情的に厳しいのだが、そんなこと言えるはずもない。

 答えた理由としては強ち間違いではないから、嘘を言ってるわけでもない。

「じゃあ私、安心して飲めるね」

「お前は少し危機管理というのをな……」

 俺の言葉を無視して、呼び鈴のボタンが押された。

 飛んで来た店員に彼女は告げた。

「チーズの盛り合わせと、レモンサワーと……赤ワインをお願いします」

「赤ワインはグラスで」

 彼女が何か言うのを率先して塞いで、横から口を出す。途端、彼女の顔がわかりやすくムッと不機嫌そうに変わった。

 皿が下げられ、店員が消えると、俺はそんな彼女に当たり前のように言った。

「……いやボトルでなんて、飲ませないからな」

「……ケチ」

「ケチじゃない。大体、ここ、横浜だからな?都心みたいに、すぐ帰れるわけじゃないからな?」

 諭してみるが、すでに酔いが回って来ている様で、大目に見ても、あと二杯でやめておいたほうがよさそうだ。

「……横浜で一夜明かすのも悪くない」

「やめとけ」

 全く、酔ったなら泊まればいいじゃないと、どこぞの女王様に似たような事を言い出すが、それは俺が許さない。断じて。

「いいじゃん、横浜で一夜過ごすの。そうだ、今からでも遅くない、ホテルの予約を」

「遅くないし、予約させない。本当に酔ってんなら、帰るぞ」

 呆れたようにそう言うと、彼女の言葉が止まった。出しかけていた端末をバックに戻して、彼女は俺の背後にそびえ立つビル群を眺めた。

 暫くして、彼女は何か詩でも読むかのように話し始めた。

「……東京とは違う、この景色……いいよねぇ。他所の都会って、やっぱ素敵よね」

「うん」

「人は沢山いるけど、やっぱ違うなって。でもなんだか安心するの。伝わる?」

「まぁ、なんとなく」

「慣れない土地だけど、なんでだろうなぁ……。東京特有の忙しなさっていうのが、見えないからかな。ビル群は向こうにあって、ここから見れば綺麗な夜景にしか見えない。きっとあの中には残業とか、まだ仕事してる人がいるんだろうね。でも、ここからだと見えない。都会なのに」

 東京の都会が故郷の都会ならば、横浜は他所の都会だ。

 俺たちが見慣れて、歩き尽くした東京は都民にとっては故郷と言っても良い。

 でも横浜は違う。人の流れも、景色も、違う。他所でも都会であるから、彼女は冒険家のような心と共に故郷のような安心を見出せるのだろう。

「……疲れてんだよ、お前」

「やっぱそうなのかなぁ……歩いて来たもんね、ここまで」

「いや、そうじゃなくて」

 途端、横からワイングラスが彼女に差し出されていた。

 どうやら、店員が注文した品を届けに来たらしい。

 俺の目の前にはレモンサワーが置かれ、テーブルの中央にはチーズの盛り合わせが置かれた。

「食べたかったら食べていいよ」

「……少しだけ」

 先程のハンバーグの対価と言うかのように、チーズを一切れ貰い、口に入れた。

 彼女はワイングラスを掲げ、何の意味があるのかクルクルと回していた。照明が当たって、中の液体がキラキラと光る。なんだかそれが様になっているように一瞬見えたが、こんな酔った奴にそのこと伝えるにはまだ早いと思って口を閉ざした。

 彼女は一口、グラスに口付けるとポツリと言った。

「……あのさ」

「なに?」

「なんで君を誘ったのかって言う話」

「……うん」

 まさかここでその話を持ってくるとは思わなかったので、思わず酒を煽る手が止まった。

「……私ってさ、進学する度に友人関係がリセットされちゃうからさ……山田も高波も誘うには連絡していない期間が空いちゃって……大学行って一度二度会ったくらいでさ……」

 じゃあなんで、と言い出そうとした口を噤んだ。

 とりあえず彼女が思うように話させたほうが良いと思ったからだ。

「大学でも友達いたけど……卒業したらおんなじようになっちゃって。だけど、君には色々と思うことがあったからさ、初めて誘う時にはそりゃ緊張したけど、今はもう」

「思うことって」

「……言わなきゃダメ?」

「……別に、言いたくないなら言わなくても良い」

 彼女と俺の関係なんて、よくある話だ。

 彼女の仕事は出版業。

 趣味は小説を書くこと。

 いつかは小説家になって、色々なお話を書きたいと言っていた彼女は、どうやら中学生の頃から多種に渡る物語を執筆していたようだ。

 俺が彼女と出会ったのもその縁だった。言っておくが、俺にはまったくと言っていいほど、小説を書くことに興味はなかった。創作する立場など微塵の興味すらなかった。

 それが高校生二回目の夏休みのこと。

 本当に気まぐれだった。

 教室を解放して貰って宿題でも消化しようかと思っていたのだ。学校にいれば少なからず、誰かに会えはずだし、それなりに暇を持て余していたからだ。部活も午後からあったし、早めに切り上げて、部活の準備に向かう事にして、教室の扉に手をかけた。

 まさか鍵が開いてるとは思ってなかったから、容易に扉がスライドした時には驚いた。

 もっと驚いたのは、開けた途端、窓から突風が吹いて、近くにあった机から大量の紙が舞った事だった。

 やってしまったと、荷物をそばに置いて数百枚はありそうな紙を拾おうと手を伸ばす。

 そこでその紙の正体がわかった。

 綺麗に敷き詰められたマス目の中には、達筆な字で文字が書かれていた。

 ーー俺が拾い上げたのは、原稿用紙だった。

 拾い上げて、机に置いた途端、扉の方に人影が映ったのがわかった。

 その人物こそ、彼女だった。

 ちなみに彼女と話すのはこれが初めてで、彼女の第一声は「見たでしょ」。

 それに対し、俺の第一声は「見てないけど」だった。

 その後、見たのであれば最後まで読んで感想を聞かせろと言われ、渋々その日の宿題は諦めて、作者本人の前でその大作を読まされた。

 感想は勿論、数枚の原稿用紙に書かされた。その際、俺の感想の出し方がたいそう彼女に気に入られたらしく、以降、月に一、二度は原稿用紙を渡されるようになった。今では原稿用紙では無いものの、感想をくれとデジタルで色々送られてくる。

 そんな関係が緩々と続いて、驚くことに大学へ行ってもそれは続いていった。

 話を戻して彼女の“色々思うところがある”という言葉だが、このエピソード以外に何があると言うのか。

 彼女ならきっと、「君と私との中だし」と表すであろうし、その言い方が妙に引っかかった。

 彼女は少し黙って、ワインを一口また飲むと口を開いた。

「……なんていうか、子供の私を知っている人と飲みたかったんだよね。まぁ子供といっても、殆ど大人に近づいてたけど」

 その時期が高校生ってことか。

「酒を飲めるようになったのが、大人になったっていう象徴か。でもそれなら、親御さんとかお兄さんとか、相手はいるんじゃ」

「無駄だよ。そもそも、私の趣味を否定して来た家族だし、分かり合える気がしない」

 彼女は四人兄弟の末っ子だ。

 男所帯で、初対面な人には違和感に感じるであろう彼女特有の口調も医者や教師の道へ進んだ兄達の影響なのだそうだ。……大半がおふざけだとは思うのだが。

 親御さんは長男次男三男が、医者などの学識のある道へ進んだことで、彼女に大きくプレッシャーとも言える期待を抱いていたそうだ。

 そんな中、小説になりたいと言った彼女を御両親を始め兄弟全員叱責したそうだ。

 だから、あの日……彼女と初めてあった日も家でなくら教室で小説を書いていたのだという。

 そんな彼女は今でも、その夢を追って、出版業界で色々勉強中だという。

「……大人になって、社会に出て、考え方も感じ方も変わった。自分達が用意されていた箱庭で、温室で育てられたのが痛い程わかった。ーーだから私は、大人になったこの身を夜に溶け込ませようと、ネオンの道を歩くのだ。ってね」

 その一節を何処かで聞いたことがある。

 彼女に関連する作品なのだろうが、思い出すことができない。

「ある意味の逃避行か」

「そうかもね。大人になって知り合った人とは、互いの子供の時の話をしても絶対にどこか嘘で塗り固める。嫌なことに触れて欲しく無いのが人間だけどさ、そこでもう一線向こうから引かれてしまってるし、そんな相手と親しい関係になるなんて、そんな器用な事私には出来ない」

 だから、進学する過程で別の学校に進んだ友人の関係がリセットされてしまうのは、その間の過程を知らないから、自分の知ってるその人ではなくなっているからだ、と彼女は言った。

 大人の付き合いは、そう言った所を朧げにして作り上げていくのかもしれない。

 自分もたまに者の人から高校の時は?中学生の時は?小学生の時は?と聞かれることはあるが、自分で答えるにも特に変哲のない平凡な日常を送っていたので、「特筆することの無い、平凡な少年時代を送ってきました」というしかなかった。きっと、入っていたクラブだとか、何が好きだったとか答えればよかったのだろうが、それを言わなかったのはきっと無闇に過去に踏み入って欲しくなかったからなのか。

 はたまた実は自分が人とコミュニケーションをとるのが苦手だったのか。聞かれれば素直に答えるだろうが、自分から自分を語る事などナルシストでもあるまいし、自分を売り込むという事を除けば、プライベートの事など確かに話さないな、と思った。

 恐らく、周りの人は違うだろうが、それでも多少話を盛る人はいるだろう。

「それに、私も私でさ、興味無い人は切り捨ててく主義だから、対象外の人の過去の話を聞いてもつまらないんだよね。多分、これが一番の原因なんだろうけど」

「そういった点を全て考えると、結果的に絞られるのか」

「そう。子供の時はさ、小学生の頃は中学生の頃はって区切れるけど、大人は大人。区切りが少ないから、その分付き合いが長くなる。長くなるなら、それ相応に付き合いが続く人が良いなって」

 出会う人が増えるこの歳で、不器用な彼女は人を吟味する必要があると言った。

 それがいかに大変なのか、俺には見当がつかないが、きっと無意識に俺自身も行っている事なのだろう。彼女程気にしていないだけであって。

「まぁ君を選んだのは、結局、話すの楽しいし、お話読んで感想くれるし、こうして唐突に飲みに誘っても付き合ってくれるし、一緒にいて楽なんだよね」

 きっとあの時、教室の扉を開けずに、真っ直ぐ担任の元へ鍵を貰いに行っていたらーー。きっとあの時、原稿用紙を拾わずにいたらーー、俺たちはこんなにも近く接することはなかっただろう。

 もしかしたら一度も話さずに卒業して、街ですれ違っても人混みの一人としか認識していなかっただろう。

「ありがたい言葉だけど、もし俺が転勤したりして、飲みに行けなくなったらお前どうするの」

 もうお前の愚痴も、小説の新たな案も、聞けなくなるぞ、と付け足すと彼女は面白そうに笑った。

「その場合は私が君の元へ行くよ」

「……九州でも?」

「九州でも」

「北海道でも?」

「勿論」

「お前馬鹿なの?」

「あ、その時は一ヶ月に一度は産物を送ってきてね」

「いや馬鹿なの?」

「馬鹿で良いよ。一緒に夜道を歩いて、話せればそれで良い」

 そういう君も、とほんのりと頰を赤く染めた顔で彼女言った。

「なんでそんなに私の誘いに乗ってくるのさ。予定が合う限り付き合ってくれてるみたいだけど。あー、もしかして、君、私の事好きなの?」

「嫌いではない」

 どうやらこの酔っ払いは、ついに出来上がってしまったらしい。

 即答で拒否してやると、ニヤニヤと悪い顔で俺を言葉で小突いた。

「なんだよー、言葉を濁すなよー」

「じゃあ、濁さないで言うけど」

 俺は机に置かれていた彼女の右手に手を重ねると、驚いたように開かれた目を見て言った。

「付き合う?俺たち」

 きっと彼女にとっては良い酔い覚ましになっただろう。

 嘘だよ、と笑って手を引っ込めようとしたが、いつの間にか乗せられた彼女の左手で、それは叶わなかった。

 今度は俺が驚く番だった。

「いいよ、君となら」

 嗚呼、そうだ。

 酔ってる相手に恋愛沙汰を持ち込めばロクなことにはならないのを教えてくれたのは、彼女自身だった。

 つい最近読まされた何十作目の作品で、酒気を帯びた相手に告白しても面倒事になると教訓を得たばかりだった。

 冗談が過ぎた。

 失敗したな、と思い撤回しようと手を引っ込めると、何やら機嫌を良くしたらしい彼女は残っていたワインを飲み干していた。

「……冗談のつもりなんだが」

「ん?そうだったの?別にいいよ、私」

「酔ってるな、お前」

「君も、私の色気に酔ってるな?」

 きっと俺が飲んだサワーは、そこらへんのサワーより強かったのだ。

 だからザラにでもない嘘をついて、彼女の酔いを覚まさせようとしてしまった。

「お前と付き合ったら、これが毎晩続きそうだから嫌だ」

「うーん、それも良いけどさ、夜を明かすほど飲めるような財力が無いから無理かなぁ」

「毎晩酒に溺れる嫁なんぞいらん」

「あー、確かに貰い手いなくなるのは辛いなぁ」

「もう少し、お前が大人になれば、貰ってくれる物好きが現れるだろ」

 そう言って笑ってやると、彼女は“本当に良い物件は、目も舌も肥えた物好きにしかわからないものだよ、君”と満更でもない様子でグラスの底に溜まっていたワインを流し込んでいた。

 


 帰りは近くを走っているバスに乗って横浜駅まで戻ることにした。

 歩いてバス停まで向かっている間、毒々しい色にライトアップした観覧車が、視界の隅で回っているのが見えた。

 海沿いで潮風を感じて歩く夜も、悪くないなと思いつつ隣で歩く彼女の靡く髪を見ていた。

「楽しかったね」

「あぁ」

「やっぱり、たまに東京を離れてふらりと歩きに来るのも良いね。柄にもない話しちゃったけど」

 複雑に絡まった人の感情の中で生きていくのは苦しいし、辛い。息が苦しくなることもある。

 こうして潮風を受けて自由に歩く彼女が、俺を誘わなくなる日が来るのだろうか。

 きっとそうなったら、俺と彼女の関係は徐々に薄れていくだろう。やりとりしている小説にも終わりがくる日が来るだろう。

 それは彼女が潰されて動けなくなってしまう日なのか、それとももっと他に相手を見つけて別の幸せに気づいた日なのか……俺にはわからない。

 こうしたちょっとした冒険を思いつくのも、彼女の行動力と童心にも似た好奇心による賜物というべきなのか。仕事終わりに横浜へ行こうなんて、俺だったら思わないし、無理だと思う。

 確かに言ってしまえば迷惑な話でもあるが、こうやって外へ連れ出してくれる彼女の自由さが、俺は好きだ。

「次来るときは、ライブレストランだっけか」

「高層ビルのレストランに入って、夜景を一望するのでも良いよ」

「それじゃあ東京とあまり変わらなくないか?」

「あー、確かに。じゃあ順番的にはライブレストラン、タワービルだね」

「ちゃっかり数を増やすな」

 まぁ、当分彼女の縁も切れそうにないし付き合ってやるのも悪くないだろう。

「……まぁ、次横浜来るときは、そこそこ大人になってるといいな」

 タワービルへ訪れる時にはきっと、彼女も立派な大人になっているだろう。

 今から、ほんの少し、その日が待ち遠しく感じた。


 二週間後。

 俺の私用パソコンに一通のメールが届いた。

 ワード形式の短編小説が添付されたメールだった。

 それはあの日、初めて会った日に読んだ小説の完成版だった。

 そうか、そういえばあのときは途中までしか書けない、大人って何?と一緒に考えた記憶がうっすらとある。

 それが手直しされて、ついに完成したらしい。

 その話の最後の節は、こうだった。



ーー子供にはわからないその世界を知りたいと思った。社会に、人の群れに流されてしまう前に、自分の知らない世界を見て見たいと思った。

 それには眠らぬ夜の街が、一番いいように見えたのだ。あそこならばきっと、形式ばった堅苦しい関係も何もないし、見知らぬ土地ならば自分を知る人もいない。

 夜に紛れてしまえばきっと、皆平等な関係になるだろう。そう思った。


 だから彼女は、大人になったこの身を夜に溶け込ませようと、ネオンの道を歩くのだ。










 読み終えると同時に、突然携帯が震え着信を告げた。

 出てみると、あの明るい声が、端末の向こうから飛び込んできた。


「ねぇ、これから六本木いかない?」


 今日も電話は鳴る。

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横浜ネクストタヴァーン 若槻かえで @cat_izumi10

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