第83話

      

 石上いそのかみの王宮、中宮なかのみやは静寂に包まれていた。風羽矢は、初めてこの宮に足を踏み入れたときのことを思い出していた。あの時も、こんな春の夕暮れだったな、と。


 夕空は曇りがちになり、金の影と暗い紫の影が色濃く映っていた。夜闇はすぐそこまで迫ってきている。


 宮に人影はなかった。風羽矢は真っすぐ本殿――大王おおきみのおわす殿に上がり込んだ。いくつもの垂れ布をくぐり、たどり着いたのは薄暗い祭殿だった。


「――来たな、化け物。大巫女さまの予言のとおりに」


 大きな槍を持って待ち構えていたのは久慈くじだった。彼は左腕を失っていたが、それでも押し寄せる気迫は鬼のようだった。


 風羽矢は静かに言った。


「どいて下さい。奥にいるんでしょう、大王は」

「誰が通すものか」


 ふん、と顔を歪めて久慈は笑う。


「腕を何本失くそうと、大王には指一本触れさせん。決して……あのかたは、わたしが守ってみせる」


 風羽矢は眉を下げた。


「あなたを巻き込みたくはない」

「はっ、何をいまさら。どうしてもというのなら、わたしを倒していけ。よもやできぬとは言わんだろう。この腕を焼いたお前だ。むろん、そのうちに大王は逃れられるだろうがな。さぁ、どうした。正体を見せろ、大蛇おろちに化けてみろ、この禍め―」


 久慈は声を張り上げて言ったが、そのまま倒れ伏した。崩れ落ちた久慈の後ろには、大王が立っていた。彼の手刀が久慈の後ろ首を打ったのだ。


あな……なぜ……」

「……今までよく尽くしてくれた、久慈よ」


 苦痛に顔を歪めたまま失神した久慈を見下ろし、大王は柔らかに目を細めた。


「お前は長生きしてくれ」


 この人もまた覚悟しているのだ、と風羽矢はさとった。


 大王は鋭く輝く瞳で風羽矢を見やった。


「来たね、兄上の子。そして、わたしの妹のはらから生まれし呪わしき子。――玉はどうした?」

「稚武に返してきました。神器は王の証ですから。あれは稚武が持っているべきです。彼は倭の新しい王になる」


 風羽矢が確信を持って答えると、大王は小さく笑った。


「そのためにわたしを殺すと言うか、禍の子であるそなたが?」

「はい」


 風羽矢は眉根をきつくしぼり、大王の歪んだ微笑を見つめた。


「僕は一度、神器の玉と鎔けて一つになりました。そうすることで稚武たちの神器とつながり、彼らとともに大国主神おおくにぬしのかみのお話を聞いたのです。ヤマトタケルと、彼の父王の話を。……あなたはあまりに多くの生命を殺めてきた。そして今度は、稚武をも消し去ろうとしている。違いますか」


 大王はわずかに目を細めたが、口をつぐんだままだった。


「稚武の剣によって、大蛇は滅びました。けれど、稚武の手をあなたの血で汚させてはいけない。だからもう、僕たちで終わりにしましょう」

「わたしを殺し、そなたもともに滅びると?」


 風羽矢は頷いた。大王はしばらく黙ったが、やがて口を開きかけた。その時だった。


「――風羽矢!」


 雷鳴のごとく祭殿に駆け込んできたのは、稚武だった。彼は息を切らしながらも、目を丸くしている風羽矢を見つけるや、すぐに駆け寄って有無を言わさず殴りつけた。


「馬鹿やろう」

「稚武……」


 風羽矢は殴られた頬を押さえながら、まだ信じられないという目で稚武を見つめた。稚武は子供のように真っ赤になって怒鳴った。


「どうしてそう勝手なんだ、お前は。どうして一人で片をつけようとするんだ。この期に及んで、俺がいるというのがまだわからないのか。こんなものだけ残して、消えるつもりだったのかよ」


 稚武は感情に任せて神器の玉を床に投げつけた。コン、と硬い音を立て、小さな勾玉は床板をすべる。


 風羽矢は眉を下げ、ためらうように小声で言った。


「……どうして来てしまったんだい。君には咲耶がいるのに」


 稚武が顔をしかめると、風羽矢はもう少しだけ声音をはっきりとさせた。


「君が来てくれて嬉しかった。変わり果てて、大蛇にさえなった僕のところへ、それでも君は来てくれた……。だからやっと、僕は君を手放すことができたのに。――君には生きてほしい、咲耶と」

「どうして一緒に生きようとは言わないんだ、風羽矢」


 稚武は息巻いて風羽矢の肩を押さえ込み、つめよった。風羽矢は苦しげに眉を引き絞って、燃えるような稚武の目から逃げようと顔を背ける。


「君はいつだったか、僕が女だったら良かったのにと言ったろう。……咲耶がそれだよ。僕ら兄妹は間違えてしまったんだ、育つべきところを。君のそばにいるべきは咲耶で、禍とともに滅びるべきは僕なんだ」

「違う」


 稚武は怒鳴りつけた。


「滅びなきゃいけないのは禍だけだ。大蛇だけだ。お前でも、咲耶でもない。俺はまだお前と一緒に生きたいんだ。生きてほしいんだ、お前にも……」


 最後は声に涙がにじんだ。稚武は逃がさないように、風羽矢に手を伸ばして彼を抱きしめる。


「……稚武……」


 風羽矢もすすり泣いた。二人はやっと互いのもとへ帰ってきたのだ。失くしたものを見つけ、壊れたものを再び積み上げることができたのだった。


 そんなとき、いきなり宮の中に突風が吹いた。誰もが身を縮め、目を瞑って顔を伏せた。そして稚武が見やると、驚いたことに目の前に咲耶がいた。


「咲耶」


 彼女の方も驚き入った様子で、腰を抜かしたように座り込んでいる。


「お前、どうやってここに」


 稚武は叫びかけたが、ふいに剣が笑うように鳴ったのですぐに得心した。やられた、とさえ思った。


 咲耶はしばらく目の焦点も合っていなかったが、ようやくのことで目の前に稚武と風羽矢の姿があることを知り、急いで彼らに抱きついた。


「稚武、風羽矢。生きていた――生きていたのね、二人とも。良かった……」

「咲耶……?」


 風羽矢は見惚れるように咲耶を見つめた。そして涙をこぼす。彼女が親しげに声をかけてくれることなど、二度とないと思っていた。兄妹といえども、禍と化した自分をむしろ厭んでいるものとばかり……


 咲耶も目に涙を浮かべて微笑んだ。


「風羽矢、元に戻ったのね。大蛇は消えたのね。これでもう、すべて終わったのね」


 だから鏡は咲耶から離れたのだと、彼女は納得した。


 しかし、風羽矢も稚武も、やっと思い出したように顔を硬くする。


 カツン、と靴音がして、彼らは振り返った。神器の主である三人から少しだけ距離をとったところに、大王が立っていた。その手にはいつの間にか、神器の玉が拾い上げられている。


 ひびの入った勾玉を手に、大王は口元だけで微笑んでいた。


「……大王?」


 稚武は信じられない思いで大王を見つめた。玉が――大蛇とともに死んだはずの神器の玉が、彼の手の内で生き生きと輝いていたのである。大王の手から腕までまとわりつくような、禍々しいよどんだ緋色。


(この人が、稚武のお父さん……秋津の王)


 咲耶はまじまじと大王を眺めた。確かに稚武に似た面影があるが、背負う影の濃さは比べものにならなかった。そのような影は誰でも多少は持ちえるものだし、稚武はそれを持ち前の明るさで跳ね除ける。だが、この男性はそれすら叶わずに、呑み込まれるようにして影の中にいるのだ。


「久しいな、大泊瀬おおはつせ。よく無事に帰った。そちらの姫が持っているのは……神器の鏡だね。本当にすべて集めたのか、さすがだ」


 大王の褒め言葉はあまりにも白々しかった。稚武は胸が凍えるような思いで父を見つめた。


 大王に会いたかった。彼の元に帰りたかった。倶馬曾クマソを攻略し、禍を滅ぼして戻れば、大王はもっと晴れ晴れとして笑ってくれるはずだった。稚武はその笑顔のために戦ったというのに。


「そなたならやってのけると思っていたよ。そしてこうして、必ず帰ってくると信じていた。わたしにはわかっていたのだ、そなたが剣を輝かせ、その刃をわたしに向ける日が来ることが」


 稚武は慌てて剣を下げ、首を振った。


「どうしてそんなことをおっしゃるんです。俺はあなたに剣を振るったりしません、決して」

「どうかな、草薙剣くさなぎのつるぎは凶暴だ。剣を手にした者は、望まずとも前の主を殺めるさだめを手にする。薙茅かるかや兄上が父王に弑逆を企てたのも、わたしが兄上を追い詰めることになったのも、すべてはその剣の呪いだよ」

「俺は違います。俺はあなたを殺めたりしない」


 稚武は必死の思いで訴えた。


「俺があなたを討たなければならない理由が、一体どこにあるというんです。あなたは俺の父上様であるのに」


 大王は言葉を沈めたように沈黙した。それから、ふっと笑みをもらす。


「そなたはかわいいな、大泊瀬。あのような言葉を、本気で信じていたのか? わたしがそなたの父であると?」


 稚武は耳を殴られた思いだった。すべてが打ち砕かれ、崩れていくのを見た。


 大王は微笑んだまま、はっきりと告げた。


「宮古は純情な娘だった。そして幼かった。――わたしは、待つと言ったのだ。残念だが、わたしはあの娘に触れていない」


 稚武はあえぎ、こらえながら、震えるこぶしを握り締める。


「大王。俺は知っています……あなたがどれほど宮古を愛していたか、宮古がどれほどあなたを愛していたか。あなたたちは愛し合っていたはずだ」

「愛していたとも」


 大王の声音は至極穏やかだった。


「そなたの父を、この手で殺めたほどにな」


 稚武は叫んでいた。泣いていた。そして、剣を振りかざして大王に向かって駆け出していた。


 稚武を逆上させたのは、大王が実の父の仇であったことではなく、ただ彼に裏切られたという、純粋な絶望だった。――『わたしだよ』と言ってくれたではないか。はにかむように笑った優しい瞳、頭を撫でてくれた手の温かさを、信じていたのに。


 好きだったからこそ、信じていたからこそ、抑えるすべなどなかった。血が逆流するほどの衝動の中で、稚武は大王の笑みを見ていた。


 悲鳴が重なって聞こえた。自分の名を呼ぶ風羽矢と咲耶の声、それから、


「――穴穂!」


 久慈の絶叫。


 そして稚武は、大王の笑みが蒼白になる瞬間を見た。


 一瞬の空白、鈍い衝撃。


 気づくと、稚武は膝を折って久慈を見つめていた。槍を取り落とし、血まみれになって震えている彼を、呆然と見つめる。そして稚武自身も、全身に血の温かみを感じていた。肌を濡らす生々しいぬめり、鮮やかな緋。けれど、久慈も稚武も、それは自分の血ではなかった。


 おもむろに、大王がささやいた。


「怪我は、ないか……?」


 稚武は瞬きもできずに、ゆっくりと視線を滑らせた。優しげな瞳は目の前にあった。大王は覆いかぶさるように稚武を抱きしめていたのだ。稚武が知る他の誰よりも力強い腕で。


 久慈が断末魔よりも鋭い悲鳴を上げた。見る間に顔から色を失い、片腕で己の頭をつかみ、正気をなくした目で大王を凝視する。このとき、やっと稚武も知ったのだった。大王に剣を振りかざした稚武に久慈が襲いかかったこと。そして、大王が稚武をかばって久慈の槍に貫かれたことを。


 久慈は何度も大声でうめき、やがて、狂ったように笑い出した。


「ははは……ははハハハッ!」


 泣きながら笑い、足をもつらせながら、彼はふらふらと祭殿を出て行く。


 咲耶は口元を覆ってへたり込み、もう立てなかった。風羽矢は咲耶を支えながら、稚武と血まみれの大王を凝視していた。


「……大王、どうして」


 稚武は頬が冷たくなるのを感じながら呟いた。


「どうして、俺をかばったりしたんです。あなたは俺を殺そうとしていたはずじゃ……」


 大王はさらに腕に力をこめ、稚武の耳元で吐息のように言った。


「言ったろう、わたしはそなたを待っていた。何より愛するそなたが、わたしを滅ぼしてくれる日を……そなたが剣を手にしたあの日から、待ち続けていた」

「大王……?」


 稚武は泣き出しそうに眉を歪めた。


「わかりません。あなたはやはり、俺の父なのではないのですか。他の誰に、宮古が身を許すというんです」


 大王は声に苦笑をにじませていた。


「十八年前……わたしが兄上を亡くし、伊予から帰ってきた日、宮古はすでに東宮はるのみやから姿を消していた。わたしの部屋に、贈ったはずの御祝玉みほぎだまだけを残して。ずいぶん探し回ったが、誰も行方を知らず、とうとう見つからなかった」


 大王は苦しげな呼吸の下で語った。


 ――失意の中、それでも穴穂はまだ諦めたわけではなかった。この広い石上の都をくまなく探せば、きっと見つかる。そう考えて、とりあえず先に務めを果たしていた。日嗣皇子の無事の帰りを祝い、盛大に宴会が催されたのだった。


 日が沈み、宴は佳境に入っていた。しかし、神器の剣を手にして以来なぜか下戸になってしまった穴穂は、愛想笑いで杯を断るのにも疲れ、剣を腰に差して席を抜けた。


 そして供も連れずに、宴会に姿を見せない叔父・日下皇子くさかのみこの殿へ向かった。


 日下皇子は穴穂の帰還の儀式にも現れなかったものだから、どうにも挨拶しそこねていたのだった。どうやら嫌われているらしいというのは穴穂も知っていたが、叔父に挨拶をするのは当然の礼儀であったし、自分としては嫌味もかねていた。日下皇子が姿を見せないのは、日嗣である穴穂が無事に帰ってきてしまったことが悔しいからだろう。穴穂の顔など見たくもないというらしい。それなら、こちらから堂々と会いに行ってやろうではないか。


 たどり着いた日下皇子の殿は、少々薄暗かった。深夜に突然現れた日嗣皇子に、衛兵たちがそろって眉をひそめる。しかし穴穂はさっそうと上がり込んだ。


『失礼しますよ、叔父君』


 部屋に入ると、灯りが一つ灯っているだけだった。一見、日下皇子の姿は見当たらなかったが、簾の向こうから女の嬌声がもれていた。しかも一人二人ではなさそうだ。


 穴穂は白けて大きな声で言った。


『叔父君、穴穂です。本日無事に帰参しましたので、ご挨拶に参りました。が、お忙しいようですので引き上げます』

『――ああ、まぁ待て。今そちらに行く』


 声にはかすかな笑みが見えた。


 不本意ながら、穴穂は待つことにした。衣擦れの音があり、衣一枚で裸体を隠した女たちが簾の中から現れて、恥じらいながらそろそろと部屋を出て行った。


 まったく、と穴穂は腕を組み、軽蔑の色でため息をつく。


 ばさり、と簾がひるがえり、ゆるく衣をまとった日下皇子が姿を現した。


『無事のご帰還、まずはお祝い申し上げよう、日嗣の君』

『ありがとうございます。叔父上、今夜の宴の席にはいらっしゃらないのですか』

『あいにく、あまり人前に出せる顔ではないのでな』

『は……?』


 穴穂はかしこまっていたが、灯火に照らし出された日下皇子の頬に濃い痣を見つけ、目を丸くした。


『どうなさったのです、その傷は』

『まったくやってくれたよ、おぬしの飼い猫は』


 日下皇子は呆れたように言い、それから口元を歪めて笑った。


『宮古とかいったか。若き日嗣の君、おぬしが骨抜きにされているという噂を耳にしたものだから、どんなに手馴れた女かと思ったが……まだ一人前の女でさえなかったとは驚いたぞ』


 表情を失う若き皇子に、日下はくっと卑しく笑む。


『このわたしを相手に、よく暴れたよ。あんまり抵抗するので、こちらも少々手荒くなってしまった。まぁ、おぬしのお楽しみを奪ったことは謝ろう。せっかくの処女おとめだったのにな』


 その一瞬のことを、穴穂は覚えていない。ただ目の前が真っ暗になり、気づけば視界は鮮血に染まっていた。手には、緋色の雫をこぼす神器なる大刀たち。切っ先も身も返り血を受けて生温かく濡れ、部屋は夕焼けを受けたように真っ赤になっていた。


 こときれた日下皇子の前に座り込み、穴穂は深くうなだれていた。彼はすべてを悟っていた。宮古が御祝玉を置いて去った理由。そして、彼女は二度と自分の前に姿を現さないであろうということ。


 それだけではない。もう何もかもを失ったことを、穴穂は思い知っていた。誰より敬愛していた兄を失い、誰より守りたかった宮古を失い、残されたものは未来の玉座だけだった。そして血に濡れた両手。この手はもう何も抱けない。


 どれくらいの間そうしていたのか、しばらくして久慈が駆け込んできた。


『皇子、こちらに―』


 そして惨状に言葉をなくす。


 ゆらりと穴穂は頭をもたげた。血に汚れた顔で、絶望の底で彼は微笑んだ。




「久慈は何も知らぬよ。宮古がなぜ去って行ったかも、わたしと宮古がまだ清き間柄であったことも……そなたをわたしの子と信じて疑っていなかった」


 大王はほのかに笑んだまま、そっと身を離した。稚武は涙を浮かべ、怒ったように喚いた。


「なぜ……なぜ俺を殺さなかったんです」


 一片の感情も隠せなかった。


「俺が何も知らないでのこのことやって来たときに、一思いに殺してしまえばよかったのに。俺があなたにとって望まない子であるなら、俺が誰にも望まれずに生まれてきた子なら、殺してしまえばよかったんだ」

「そのようなこと、どうしてわたしにできる」


 大王は血の気の失せた顔をしながら、柔らかく目を細めた。


「宮古を失ってから、わたしはこの地上を呪うことしかできなかった。親族である皇を殺すことにもためらいなどなかった。総てが憎く、怨めしかったのだ。わたしを最後に天つ神の血脈が途絶え、倭が滅ぶというのなら、別にそれでも良かった。わたしは待っていたのだ……待ち望んでいた、わたしを終わりにしてくれる者が現れるのを」


 大王はまた稚武を抱き寄せた。


「そして、そなたが現れた。宮古の子であり、皇の血を引くそなたが。……宮古が帰ってきたように思ったよ。少なくとも、宮古がわたしにそなたを授けてくれたのだ。わたしがどんなに嬉しかったか、そなたには分かるまいな」


 温かな手が頭を撫でたのを、稚武は感じた。


「そなたは、夢を見させてくれた。宮古の生命いのちを継ぐそなた。何も知らず、わたしを慕ってくれるそなた……」


 大王は息をついたあと、声音を小さくした。


「……夢を見ていた。わたしと、宮古と、わたしたちの子供……男の子だ。宮古によく似ている。そうして三人で、穏やかに暮らす」


 大王は稚武の頬を撫でた。震えた指先は少しひんやりとしていた。


「大泊瀬。宮古の子。宮古の産んだ子……わたしの子だ」


 稚武は息を止めて大王を見つめていた。知らぬ間に涙が溢れてきた。


 そのとき、薄暗かった宮の中が急に明るく照らされた。どん、と空気が震えたような衝撃のあと、押し寄せてきたのは熱気と焦げ臭い匂いだった。そして祭殿の奥、脇の方は見る間に炎に包まれていた。


「な――火が」


 風羽矢が叫ぶと、稚武に倒れこんでいた大王はよろけながら起き上がった。


「久慈だろう。あれはわたしに忠実な男だ。……忠実すぎた」


 大王は彼に貫かれたわき腹を押さえながら、悼むようにまぶたを伏せた。すると耳奥に聞こえるようだった、久慈の悲鳴、久慈の高らかな笑い声が。そうして宮中に灯油を巻き、火の海で狂っている彼の姿が目に浮かんだ。


 見る見るうちに祭殿は火に巻かれた。もう長くいられないのは皆が感じた。


 大王は祭壇で身を支えた。


「さぁ、逃げよ。宮が崩れる前に」

「大王」


 稚武が青ざめて叫ぶ。


 大王は手の内の神器の玉を見せた。炎を呼ぶように輝く、緋い勾玉。


「わからぬか。今、わたしこそがこの玉の主だ。怨みの念を呼び込むこの勾玉は、わたしを選んだ。わたしもまた、大蛇と化し倭の禍となれる者なのだよ」


 大王は風羽矢を見やった。


「けれど、今のそなたはわたしとは違う。大泊瀬とともに生きるという希望を得たのだ、そなたはもはや大蛇にはなれまい」


 声音は優しかった。


「大泊瀬を連れて逃げよ。この玉は、わたしの身とともに焼く」

「な―」


 駆け寄ろうとした稚武であったが、大王の瞳の意志の強さに動けなかった。


「玉の呪いは、兄上と飛七によるものだけではないのだ。皇は互いに殺しあい、玉座を血で洗い合って続いてきた。我らの血の業は深い」


 微笑む大王の口元から血が滴った。


「わたしも同罪だ。兄上を殺した。そして、我が血族もことごとく討殺してきた。報いを受けなくてはならない」

「俺は……? 俺も同じでしょう」


 稚武は悲鳴のように叫んだ。 


「俺にも罪を分けてください。あなた一人が罰を受けることはない。こんなのは間違っている、大王……!」

「そなたに罪はない。そなたは誰も殺していないだろう。……そう、風羽矢の言ったとおりだ。そなたは最初の王になるのだね。血に汚れていない新しい皇の、最初の王。そなたはきっとすばらしい王になる、必ず」


 大王は、稚武の胸に揺れる薄紅の勾玉をすっと指差した。


「失われた『玉』の代わりに、そなたの御祝玉を据えるとよい。それは、本当にわたしが宮古に贈ったものなのだよ。妻問いの宝だ。わたしから彼女への、偽りのない真心だった……」


 涙を呑んで声も出せずに、稚武は熱心に頷いた。大王が心から宮古を愛していたという、その真実を誰より知っていた。肯定したかった。


 火の波はさらに勢いを増し、天井にまで上りあがった。思わず稚武も後ずさりしたが、大王は炎に囲まれてももう動かなかった。


「大泊瀬、そなたを想っているよ。愛しい子、わたしはそなたの守りとなろう。そして新しい倭の守りとなろう」


 がらがらと天井が崩れ落ちてきた。巨大な梁にさえぎられながら、稚武は声の限りに叫んだ。


「嫌だ……大王、嫌です、一緒に逃げましょう」


 さかまく炎に照らされて、大王は温かく微笑んで首を振った。


「こうすることで、我らは呪いから解き放たれる。そなたも風羽矢も、そちらの姫も、そしてわたしも」


 稚武、と風羽矢が鋭く叫んだ。危うく稚武が瓦礫に押しつぶされそうになったところを、間一髪で風羽矢が後ろに引いて救った。


 それでも稚武は大王しか見ていなかった。大王も稚武を見つめ、わき腹を押さえながら、よろよろと祭殿の奥へ後ずさっていた。


「許しておくれ、弱すぎたわたしを。けれど間違いなく、そなたはわたしを救ってくれたのだ。わたしと、この倭を。――行きなさい、倭の希望。良い国をつくれ。大泊瀬……新しき大王。見守っているよ、いつまでも」


 さらに勢いよく宮が崩れてきた。それはもう崩壊だった。積み重なった瓦礫の山と、立ち上る煙、踊る火の粉の向こうに、とうとう大王の姿は呑み込まれた。


「稚武、もうだめだ、逃げるんだ」


 風羽矢が稚武の手を引き、咲耶を促して駆け出した。稚武は泣きながら、それでも大王が自分に何を望んでいるかはちゃんとわかっていた。逃げること、生きること。わかっていたからこそ走って、そうしてめちゃくちゃに泣いていた。


「父上……」


 轟音とともに崩れ落ちる宮を駆け抜けながら、稚武は夢中で叫んだ。


「父上、父上、父上!」


 今になって、素直に大王をそう呼べた。





 力尽きた大王は祭殿の隅に伏していた。祭殿はまぶしいまでに炎に照らされ、崩落する瓦礫の轟音で騒がしかった。しかし大王にはもう何の音も聞こえていなかったし、苦痛も恐怖もなかった。


 薄く開かれた手には、ひび割れた神器の玉。


 安らかにまどろんでいた大王であったが、ふっと気配を感じて静かにまぶたを持ち上げる。


 炎の海を音もなく渡り、近づいてくる獣の白い足が見えた。やってきて大王を慰めるように覗き込んだのは、白銀の牝鹿。


 それは確かに鹿の姿であったが、穴穂の瞳は微笑みをたたえた少女を見ていた。


「……宮古」


 穴穂も微笑む。


「やっと、逢えた……」


 穴穂の手の内で「玉」は砕けて光のかけらとなり、やがて消えていった。




 赤々とした火の粉が暗い都の夜空に舞い上がり、星のように瞬いてそっと闇に吸い込まれていく。


 何とか中宮から脱出した稚武は、騒然とする人々の前で座り込み、大声で泣いてた。何度も父を呼びながら、幼い子供のように泣くことしかできなかった。風羽矢と咲耶は、稚武の傍らで言葉もなく燃え盛る宮を見つめていた。


 延焼を防ぐために忙しく駆け回っている役人、ただ野次馬となって炎を見つめる人々のさんざめきに、ひときわ大きなどよめきが上がった。咲耶と風羽矢がそちらを見やると、人垣が割れてくるのが見えた。


「稚武、見て……」


 咲耶が彼を抱き起こし、感じ入ったように言う。稚武は素直に顔を上げ、涙に溶けてしまいそうな目を向けた。そうして、人の群れを割ってこちらにやってくる美しい獣を見た。


 白銀の光をまとう神鹿は、二頭。しなやかな体躯の牝鹿と、雄々しい角を天にかざす牡鹿。白鹿たちは寄り添いあうようにして、ゆっくりと稚武に歩み寄ってきた。


 稚武は座り込んだまま、泣くのも忘れて、白鹿の澄み切った漆黒の瞳を見つめる。


「宮古……、父上」


 かすれ声で言うと、かすかに白鹿たちが微笑んだように思えた。


 牡鹿は鼻先で稚武の頬の涙をぬぐい、それから薄紅の御祝玉にそっと触れた。すると、やがて御祝玉の内側から光が生まれ、温かな桜色に輝いた。輪郭には零れ落ちるような白き光を帯び、光の中心は目の覚めるような鮮やかな紅色をしている。


「きれい……」


 稚武の胸元の勾玉を見つめ、咲耶が思わず口にした。


「新しい、神器の玉だ」


 風羽矢が悟って言った。それからやはり、何てきれいなんだろう、とつぶやく。


 牡鹿はおもむろに稚武から離れた。それから二頭は、慈しむようにお互いに頬をこすり合い、そのまま一つの白き光に溶けた。


「母さん、父上」


 稚武はもう一度呼んだが、人々の見守る中、白鹿は光の屑をこぼしながら静かに夜闇に薄れていった。 

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