第82話
黒き
大蛇は泊瀬の山の上空で、ずるずるととぐろを巻きながら稚武を待っていた。それは風羽矢であり、彼の両親であり、
大蛇もそれを承知しているのだと、稚武にはわかった。風羽矢も、そして
そうして、大蛇は最期にこの場所を選んだ。
泊瀬の山の奥から
『僕は、忘れられる人間っていうのも悪くないと思う』
『だから、僕が死んだら――僕のことを覚えているのは、この泊瀬の山と河だけでいいや』
(……変わっていないんだな、お前の望みは)
微笑んで、稚武はうん、と頷いた。
(俺も付き合うよ、風羽矢……)
終わりにしよう。もとの二人に戻ろう。泊瀬に還って、ともに安らかに朽ちよう。
風羽矢を独りでいかせるのか、それが稚武の迷いだった。けれどもう、気づいたのだ――ならば、風羽矢の行くところまで一緒に行こうと。稚武が失くした風羽矢を取り戻すためには、それしかできなかった。
大蛇が大きく鳴き、稚武の手の剣が輝きを増してくる。カムジカは風の隙間を縫うように翔け抜けた。大蛇からは無数の火花が飛んできていた。それらをすばやく避け、回り込みながら、カムジカは空を蹴る。
稚武はまばゆく光を発する剣を構えた。その光をとらえ、赤目の方の蛇が大きく口を開けた。鋭い牙に、血色の喉。
(風羽矢……)
目に涙がにじみ、視界が潤んだ。そのせいで、稚武の瞳は幻を見た。光が緑に透ける泊瀬の山、泊瀬の河。笑う風羽矢。
稚武は慌てて瞬き、涙を追いやった。思いを込めて剣の柄を握りしめる。
それでも、懐かしき泊瀬の空気は稚武の胸を満たした。木漏れ日の下で、風羽矢が笑う。春の若葉よりも生き生きと。そして彼の隣で、稚武も笑っていた。
この泊瀬で、二人は生きていた。
剣を持つ手が震えた。
「……戻って来い」
生きたい。風羽矢と一緒に、この地上で生きたい。ともに死ぬのではなく、ともに生きたい。
「戻って来い、風羽矢」
弱いといわれても、いいから。
涙声ながら、しっかりとした思いを託して叫ぶと、突然地上から白銀の光が空を差した。温かくもまぶしい白光は大蛇に差し込め、そこに照らし出されたのは風羽矢だった。半透明の卵のような殻の中で、風羽矢はまるで胎児のごとく丸くなっていた。瞳は眠っているように重く閉じられている。
「風羽矢」
稚武は胸がはちきれてもかまわないと思って叫んだ。そしてそのまま、カムジカは大蛇の口の中に飛び込んでいった。一気にあたりが暗がりになる。それでも、風羽矢の卵だけがぼんやりと光を帯びて浮かんで見えた。
稚武は剣を持ち替え、夢中になって風羽矢に手を伸ばした。カムジカから落ちるとか、そういうことは全部頭から吹き飛んでいた。
稚武は何も失ってなどいなかった。風羽矢は目の前にいた。あともう少しで、手の届く、そこに。
「風羽矢!」
心をむき出しにして呼ぶと、風羽矢のまぶたがゆっくりと持ち上がった。ぼんやりとした目がさまよい、そして稚武をとらえる。
風羽矢は大きく目を見開いた。その唇が自分の名を呼んで震えたのを、稚武は見た。
「風羽矢、戻って来い」
稚武は大声で懇願し、思い切りカムジカから身を乗り出して腕を伸ばす。
「戻ってくるんだ!」
風羽矢の顔が泣き出しそうに歪んだ。求めるように手は伸ばされた。
刹那、稚武の剣が炸裂するように輝き、風羽矢を閉じ込めていた殻を打ち壊した。そして互いの手が届いたのを、真白い光に呑み込まれながら稚武は確かに感じた。
気がつくと、稚武は一人きりでカムジカにまたがっていた。あたりには何もなかった。泊瀬の景色も、空も、地も。ただ白いだけだった。上下左右の感覚さえ薄れてしまう空白の世界に、稚武はいた。
「……どうなったんだ、いったい……」
呟きながら、稚武は自分が硬く手を握り締めていることに気づいた。そうっと開いてみると、そこにはいつの間にか小さな勾玉があった。見覚えのある――風羽矢の
どうして、と凝視していると、完全に光を失っていた玉に、ピッと細く亀裂が走った。稚武はますます目を大きくする。
今ひび割れた玉を持っている手は、確かに風羽矢に触れたはずだった。二人は手を伸ばしあい、そして届いたはずだった。
なのになぜ、御祝玉だけが稚武の手に残されているのか。
「風羽矢は……どこに」
呆然として呟くと、どこからともなく返事があった。
『風羽矢は
「なに?」
仰天したことに、声の主はカムジカだった。どこか
『玉がそれを叶えた。倭が溜めてきた歪みも、血で汚されてきた
「……大王は俺を殺すのか。やっぱりそうなのか」
自分の声でないように思いながら、稚武は呟く。
『天つ神の血は歪みを生み出す。皇が一族同士で殺しあうのは、さだめ。だから風羽矢は行った。稚武をそのさだめから逃すために。……風羽矢は、稚武が
稚武は、光が目を貫いたかのような錯覚を覚えた。どうしてそう思ったのか、自分でもわからない。
「あんた……
口にすると、それはもう確信になっていた。
「そうだろう、俺の母さんだろう、宮古」
身を乗り出して、カムジカの目を覗き込む。しかしカムジカは口をつぐみ、つぶらな瞳は感情を見せずに稚武を映していた。
稚武はじっと答えを待ったが、やがて思い切りをつけて言った。
「連れて行ってくれ、宮古。俺を、大王と風羽矢のもとへ。俺も行かなきゃいけない……風羽矢に大王を殺させてはだめだ」
呪いも、歪みも、さだめも。何もかもを、風羽矢一人に背負わせてはいけない。背負わせるもんか、と稚武は思った。
カムジカは無言のまま駆け出し、やがて白い空間を突き破るようにして大空に飛び出した。
ひびの入った玉を握り締め、稚武は唇をかんだ。
(許せるかよ……一人でなんて、許すもんか。風羽矢)
強気に考えながらも、大王を目の前にしたときの事を考えると息ができなかった。稚武は剣を腰に差し、空いた手で、胸の薄紅の御祝玉に手を置いた。
手も胸も、震えていた。それでも稚武は、前に進むことを選んだ。
(何が起きたの……)
光に貫かれた目がやっと視力を取り戻したとき、咲耶が見上げた空には何もなかった。巨大な大蛇も、稚武もおらず、夕焼けに染まる紫の空に雲が浮かんでいるだけだった。
咲耶は浅い川に身を沈めて座り込んでいた。せせらぎが耳元で弾け、冷えた体を押し流そうとする。
呆然と空を仰ぐしかできない咲耶の耳奥に、鈴のような音が響いた。
リン。
「え?」
正気に戻ってあたりを見回すが、音の正体のようなものは何もない。その代わりに、咲耶は気づいたのだった。川に沈んでいた右手を持ち上げると、そこには鏡があった。それも、今までのように手のひらに埋め込まれてはおらず、咲耶が握り締めていたのだ。
薄っぺらな鏡を両手で持ち、咲耶は覗き込む。しかし、鏡には何も映っていなかった。ぼんやりと銀の光をこぼしているだけだ。
鏡が外れたということは、前代の陽巫女が咲耶にかけた守りの
(大蛇はいない……稚武も。まさか、本当に一緒に滅んでしまったの?)
絶望の影が咲耶を差したとき、また耳奥で鈴が鳴った。それは優しい音色であり、おいでと手招いているように感じられた。
不思議としか言いようがなかったが、鈴は繰り返し鳴っているので、どうやら聞き間違いというわけではなさそうだ。
咲耶は川につかったまま、鏡を胸に抱き、そっと瞳を閉じた。
リン……
耳を澄ますと、驚くほど鮮明にその音は響いていた。どこからかはわからない。まるで、咲耶の意識の奥で揺れているような。
(呼んでいる……)
咲耶はその音に意識を傾けた。すると、何か柔らかな力で引かれているのがわかった。そこには光がある。ちらちらと見えるその白き光は、剣だ。
行けるかもしれない、と咲耶は直感した。
音は咲耶を導こうとしている。その道筋をたどり、呼んでいる力に意識を集中させれば、空間さえも飛び越えて――
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