第82話



 黒き大蛇おろちに向かうカムジカの背で、稚武は、流れていく泊瀬はつせの景色を眺めていた。それらはあまりにも昔と変わりなく、懐かしいだけだった。優しい緑、温かな森。何度ここに帰りたいと願ったかわからない。けれど今、こうして帰ってきたのだ。やっと、約束どおり、風羽矢とともに。ここですべてを終わりにするために。


 大蛇は泊瀬の山の上空で、ずるずるととぐろを巻きながら稚武を待っていた。それは風羽矢であり、彼の両親であり、わざわいだった。そして、老いたやまとの姿に違いなかった。


 つるぎを待ちわびているような大蛇を見たとき、稚武はやっとわかったような気がした。老いた倭の代わりに滅びるために、禍は生まれたのだ。それを神器の剣が破壊したとき、大蛇という犠牲を払って倭は救われる。禍は、倭を再生に導くために在るのだ。


 大蛇もそれを承知しているのだと、稚武にはわかった。風羽矢も、そして薙茅皇子かるかやのみこ飛七ひなも、倭の滅び以上に実は己の滅びこそを望んでいたのだ。滅ぶことで、彼らは怨みの念から救われるのだ――


 そうして、大蛇は最期にこの場所を選んだ。


 泊瀬の山の奥から木霊こだまがささやきかけてきたように、稚武は遠い昔の風羽矢の声を聞いた。


『僕は、忘れられる人間っていうのも悪くないと思う』

『だから、僕が死んだら――僕のことを覚えているのは、この泊瀬の山と河だけでいいや』


(……変わっていないんだな、お前の望みは)


 微笑んで、稚武はうん、と頷いた。


(俺も付き合うよ、風羽矢……)


 終わりにしよう。もとの二人に戻ろう。泊瀬に還って、ともに安らかに朽ちよう。


 風羽矢を独りでいかせるのか、それが稚武の迷いだった。けれどもう、気づいたのだ――ならば、風羽矢の行くところまで一緒に行こうと。稚武が失くした風羽矢を取り戻すためには、それしかできなかった。


 大蛇が大きく鳴き、稚武の手の剣が輝きを増してくる。カムジカは風の隙間を縫うように翔け抜けた。大蛇からは無数の火花が飛んできていた。それらをすばやく避け、回り込みながら、カムジカは空を蹴る。


 稚武はまばゆく光を発する剣を構えた。その光をとらえ、赤目の方の蛇が大きく口を開けた。鋭い牙に、血色の喉。


(風羽矢……)


 目に涙がにじみ、視界が潤んだ。そのせいで、稚武の瞳は幻を見た。光が緑に透ける泊瀬の山、泊瀬の河。笑う風羽矢。


 稚武は慌てて瞬き、涙を追いやった。思いを込めて剣の柄を握りしめる。


 それでも、懐かしき泊瀬の空気は稚武の胸を満たした。木漏れ日の下で、風羽矢が笑う。春の若葉よりも生き生きと。そして彼の隣で、稚武も笑っていた。


 この泊瀬で、二人は生きていた。


 剣を持つ手が震えた。


「……戻って来い」


 くさびを打たれたように痛む喉で呟いて、稚武は自分でも初めて知ったのだった。己の本当の望み、本当の願いを。わがままでしかない、おろかな本音を。


 生きたい。風羽矢と一緒に、この地上で生きたい。ともに死ぬのではなく、ともに生きたい。


「戻って来い、風羽矢」


 弱いといわれても、いいから。


 涙声ながら、しっかりとした思いを託して叫ぶと、突然地上から白銀の光が空を差した。温かくもまぶしい白光は大蛇に差し込め、そこに照らし出されたのは風羽矢だった。半透明の卵のような殻の中で、風羽矢はまるで胎児のごとく丸くなっていた。瞳は眠っているように重く閉じられている。


「風羽矢」


 稚武は胸がはちきれてもかまわないと思って叫んだ。そしてそのまま、カムジカは大蛇の口の中に飛び込んでいった。一気にあたりが暗がりになる。それでも、風羽矢の卵だけがぼんやりと光を帯びて浮かんで見えた。


 稚武は剣を持ち替え、夢中になって風羽矢に手を伸ばした。カムジカから落ちるとか、そういうことは全部頭から吹き飛んでいた。


 稚武は何も失ってなどいなかった。風羽矢は目の前にいた。あともう少しで、手の届く、そこに。


「風羽矢!」


 心をむき出しにして呼ぶと、風羽矢のまぶたがゆっくりと持ち上がった。ぼんやりとした目がさまよい、そして稚武をとらえる。


 風羽矢は大きく目を見開いた。その唇が自分の名を呼んで震えたのを、稚武は見た。


「風羽矢、戻って来い」


 稚武は大声で懇願し、思い切りカムジカから身を乗り出して腕を伸ばす。


「戻ってくるんだ!」


 風羽矢の顔が泣き出しそうに歪んだ。求めるように手は伸ばされた。


 刹那、稚武の剣が炸裂するように輝き、風羽矢を閉じ込めていた殻を打ち壊した。そして互いの手が届いたのを、真白い光に呑み込まれながら稚武は確かに感じた。





 気がつくと、稚武は一人きりでカムジカにまたがっていた。あたりには何もなかった。泊瀬の景色も、空も、地も。ただ白いだけだった。上下左右の感覚さえ薄れてしまう空白の世界に、稚武はいた。


「……どうなったんだ、いったい……」


 呟きながら、稚武は自分が硬く手を握り締めていることに気づいた。そうっと開いてみると、そこにはいつの間にか小さな勾玉があった。見覚えのある――風羽矢の御祝玉みほぎだま、神器の『玉』だった。


 どうして、と凝視していると、完全に光を失っていた玉に、ピッと細く亀裂が走った。稚武はますます目を大きくする。


 今ひび割れた玉を持っている手は、確かに風羽矢に触れたはずだった。二人は手を伸ばしあい、そして届いたはずだった。


 なのになぜ、御祝玉だけが稚武の手に残されているのか。


「風羽矢は……どこに」


 呆然として呟くと、どこからともなく返事があった。


『風羽矢は大王おおきみのもとへ行った』

「なに?」


 仰天したことに、声の主はカムジカだった。どこか愛比売神えひめがみを思い出させるような、無感動でありながら深い、若い女の声。


『玉がそれを叶えた。倭が溜めてきた歪みも、血で汚されてきたすめらぎの業も、すべて一人で背負って、風羽矢は行った。稚武を解き放つために。大王に稚武を殺させないために、稚武に大王を殺させないために』

「……大王は俺を殺すのか。やっぱりそうなのか」


 自分の声でないように思いながら、稚武は呟く。


『天つ神の血は歪みを生み出す。皇が一族同士で殺しあうのは、さだめ。だから風羽矢は行った。稚武をそのさだめから逃すために。……風羽矢は、稚武が穴穂皇子あなほのみこを好きなのを知っている。稚武に傷ついてほしくない。だから、すべての決着をつけに、一人で行った』


 稚武は、光が目を貫いたかのような錯覚を覚えた。どうしてそう思ったのか、自分でもわからない。


「あんた……宮古みやこだろう」


 口にすると、それはもう確信になっていた。


「そうだろう、俺の母さんだろう、宮古」


 身を乗り出して、カムジカの目を覗き込む。しかしカムジカは口をつぐみ、つぶらな瞳は感情を見せずに稚武を映していた。


 稚武はじっと答えを待ったが、やがて思い切りをつけて言った。


「連れて行ってくれ、宮古。俺を、大王と風羽矢のもとへ。俺も行かなきゃいけない……風羽矢に大王を殺させてはだめだ」


 呪いも、歪みも、さだめも。何もかもを、風羽矢一人に背負わせてはいけない。背負わせるもんか、と稚武は思った。


 カムジカは無言のまま駆け出し、やがて白い空間を突き破るようにして大空に飛び出した。


 ひびの入った玉を握り締め、稚武は唇をかんだ。


(許せるかよ……一人でなんて、許すもんか。風羽矢)


 強気に考えながらも、大王を目の前にしたときの事を考えると息ができなかった。稚武は剣を腰に差し、空いた手で、胸の薄紅の御祝玉に手を置いた。


 手も胸も、震えていた。それでも稚武は、前に進むことを選んだ。




(何が起きたの……)


 光に貫かれた目がやっと視力を取り戻したとき、咲耶が見上げた空には何もなかった。巨大な大蛇も、稚武もおらず、夕焼けに染まる紫の空に雲が浮かんでいるだけだった。


 咲耶は浅い川に身を沈めて座り込んでいた。せせらぎが耳元で弾け、冷えた体を押し流そうとする。


 呆然と空を仰ぐしかできない咲耶の耳奥に、鈴のような音が響いた。


 リン。


「え?」


 正気に戻ってあたりを見回すが、音の正体のようなものは何もない。その代わりに、咲耶は気づいたのだった。川に沈んでいた右手を持ち上げると、そこには鏡があった。それも、今までのように手のひらに埋め込まれてはおらず、咲耶が握り締めていたのだ。


 薄っぺらな鏡を両手で持ち、咲耶は覗き込む。しかし、鏡には何も映っていなかった。ぼんやりと銀の光をこぼしているだけだ。


 鏡が外れたということは、前代の陽巫女が咲耶にかけた守りのまじないが解かれたということだった。それが何を意味するのか、咲耶にはわからなかった。


(大蛇はいない……稚武も。まさか、本当に一緒に滅んでしまったの?)


 絶望の影が咲耶を差したとき、また耳奥で鈴が鳴った。それは優しい音色であり、おいでと手招いているように感じられた。


 不思議としか言いようがなかったが、鈴は繰り返し鳴っているので、どうやら聞き間違いというわけではなさそうだ。


 咲耶は川につかったまま、鏡を胸に抱き、そっと瞳を閉じた。


 リン……


 耳を澄ますと、驚くほど鮮明にその音は響いていた。どこからかはわからない。まるで、咲耶の意識の奥で揺れているような。


(呼んでいる……)


 咲耶はその音に意識を傾けた。すると、何か柔らかな力で引かれているのがわかった。そこには光がある。ちらちらと見えるその白き光は、剣だ。


 行けるかもしれない、と咲耶は直感した。


 音は咲耶を導こうとしている。その道筋をたどり、呼んでいる力に意識を集中させれば、空間さえも飛び越えて――

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